第三十五話
ヴァージルには大切なものが一つだけある。
苦痛と絶望の果てに漸く手にしたそれが、どれだけの奇跡の上に成り立っているのかを良く知っていた。
だから自分の手許から少しも離さないし、危険が及ばないように細心の注意を払っていた。
それだけで十分満足していた筈……なのだが、今現在カナから伝わってくるダフネに対する感情に不快感を覚えずにはいられなかった。
「ダフネさん! 無事だったんですね!」
飲食店で料理に舌鼓を打っていたカナは、キラービー討伐からそのままこの場所に来たかのような恰好のダフネとエミリアーノに驚きながらも、怪我がないのを知って顔を綻ばせた。
カナから伝わってくるダフネに対する憧れの感情が、ヴァージルを苛立たせる。
自分にはカナだけで良いように、カナにも自分だけで良いはずだ。
それなのに彼女は容易く自分の内側に他人を入れてしまうのである。
同性なのに冒険者として危険な場所に行くダフネを尊敬したのだろうが、その感情の敷居の低さが気に食わなかった。
「ああ。……お陰でな。助力、感謝する」
無視すればカナが気にすると思い、ぶっきらぼうに最低限の返事だけした。
「何の事か分からねぇな」
「いいや、貴方だ。暴食のヴァージル」
バレたようだが、どうでもいい。彼等に自分をどうにかできる力は無いのだから。
助けてやったのだって、カナが気に病んでいたからである。生きて無事を知った今、何の気兼ねもなく次の町へ移動してそれきりの縁になる者達でしかなかった。
何も聞かされていなかったオズワルドから問いただすような視線が向けられたが、無視しておく。
「そう言うのを面と向かって言われたくねぇから、使い魔にやらせたんだけどな?」
「不快にさせたなら済まない。どうしても礼が言いたかった」
ヴァージルがダフネを相手にしたくないのがカナに伝わってしまい、おろおろと顔色を窺ってきた。
そんな顔をさせたい訳では無かったので、深呼吸して表面を少し取り繕った。
「……分かった。礼は受け入れる。これでいいか?」
「ああ。それと貴方達が暴食のヴァージル、灰燼のオズワルドならば……提案できるものがある。これで勧誘を最後にするから、聞いてくれないか」
ダフネはヴァージルの恐るべき正体を知っているにも関わらず、怖気づいた素振りも見せずに堂々としていた。表の人間にしては珍しい態度だと少し感心した。
「言ってみろよ」
「恩赦」
ダフネの言葉に、ヴァージルは表情を変えなかったが確かに興味を惹かれた。
「見ればわかる。魔天会を抜けたのだろう? 貴方達を捕まえられる者など多くはない。……けれど表立って正体を明かす事も出来ず、生活は面倒な筈だ。我々ならば、功績と引き換えに今までの全ての罪を消す事が出来る」
それは明確にカナの為の提案だった。自分一人だったなら見向きもしなかった。けれどヴァージルの最も大切な女性は、明るい日向だけを歩いて来た人である。
そしてヴァージルの背負う過去は、血の匂いに塗れた沼の底だ。
記憶を互いに覗き見たからこそ、違い過ぎる二人であると痛感していた。
だから努力しなければならない。それが面倒で、鬱陶しく、意に沿わない事であっても。
……殺しちまいてぇ。
己を見透かした提案をしたダフネに胸中で悪態をつき、口だけで不遜な笑みを作る。
「……俺がどれだけ殺して来たか、分かって言ってるのか?」
「当然だ」
「サビーナ地区、南翼剣連盟、リベロ一族、アーナ・ヤーマの魔女、トトラト島、ムカイ部隊……キリがねぇ。この首を何回飛ばしても足りないだろうよ」
親指で自分の首を切る仕草をしてみせる。
聞いたカナが僅かに怯えた。ヴァージルはそれを感じ取り、カナの腰を掴んで自分に引き寄せる。
怯えるのは仕方ない事だ。けれど、自分から離れるのは許さない。
大人しく手中に収まるカナを見て、不安が少し収まった。
ダフネは挙げられた数々の業績を聞いても動揺せず、ただ一言告げた。
「それでも、貴方が望んでした事は一度もない」
ああそうだ。けれどそれだけしてきた男が、直ぐに真人間になれると思っているのか。
そうだとしたら、とんだ阿呆だ。
「我が領地内で、多数の民達がドラゴンによって殺されている。村ごと消された場所も少なくない。一刻の猶予もないのだ。倒してくれたなら、我がアストーリ侯爵家は全力で貴方に報いるだろう」
受けるだろうと当然のように思っているダフネの思惑に乗るのが腹立たしい。
「……チッ」
服を引っ張られる感触がして下に視線を下げれば、カナがヴァージルの事を心配そうに見ていた。
聞いた過去は怖いだろうに、それでもカナはヴァージルを見捨てない。
だからヴァージルは覚悟を決めるしかなかった。
「……分かった。受けてやるよ」
「本当か!?」
「ただしドラゴンは最後、俺が貰う。それでもいいか?」
「構わない」
ダフネは顔を綻ばせた。エミリアーノと顔を見合わせて喜びあう。
「なるようになったねぇ。ドラゴンなんて、暴食の二つ名の見せどころじゃないか」
オズワルドの調子のよい言葉にも苛立ってしまい、腕を組んで視線を外す。
「ヴァージル、……ごめんね」
カナだけがヴァージルの苛立ちに寄り添って、申し訳なさそうにしていた。
けれど、それが欲しかった訳ではない。だから何でもないふりをして、くしゃりと彼女の頭を撫でた。
「謝んな」
何もかも壊してしまいたい。煩わしい物全て失くして、カナさえ隣にいればいい。
けれど肝心のカナがそれを望まないし、魔天会は自分とカナを狙っている。
ヴァージルは深い忍耐の溜息を吐き、渋々彼らの提案に乗ったのだった。




