第二十七話
ヴァージルはカナを抱えて屋根伝いを走っていた。布で覆っているものの浮かび上がる人の形はどうしようもなく、カナが気にするだろうと思ったからだ。
神父に会いに行くつもりだったが崩壊した教会が目に入り、折角だからそちらへ寄り道しようかと進む方角を少し変更した。
外に出るのは久しぶりだし、きっと気分が良いだろう。
丁度いい場所で屋根から飛び降りると、ザカライアの時に急いで飛び降りて自分が作った地面の陥没が隣にあり、あれから然程時間が経過していない事に思いを馳せさせる。
天井は完全に落ちてしまっていて教会の壁の内側は瓦礫だらけだ。
立て直す為の資金が集まるまではそのままにする事にしたらしく、人が入らないようにロープが張られていた。
カナの記憶で見た壊される前の姿を思い出しながら、一回も自分の目では見なかった事を惜しく思う。
そのまま建物の裏に回れば、出会った時の場所があった。風が吹き抜ける海の見える見晴らしの良い場所だ。
気持ちのよさそうな草の上に腰を下ろし、胡坐をかいてカナを乗せた。
「ここで泣いてたのか」
記憶の中のカナは膝を抱えて失恋したと嘆いていた。
それが酷くいじらしく、ヴァージルは笑いながら風で顔に付いた彼女の前髪を払ってやった。
「安心しろよ。もう、何処にも行かねぇから」
腕の中の彼女に思いを伝えようと、そっと体を抱きしめる。
少なくともカナが失恋に泣く事は二度とないだろう。ヴァージルが自分の感情の名前を知ったのだから。
「……一つになったら、駄目だったんだな」
カナの只管相手の幸福を願うような善人の愛し方は、ヴァージルにはとても出来ない。
そしてカナもまた、ヴァージルの欲深い愛し方は出来ないだろう。
何もかもが真逆の二人だった。
生まれも、育ちも、生き方も重なる事は殆どない。
けれどだからこそ惹かれ合う。
ヴァージルがカナを眩しく感じるように、カナの中の自分はまた違った姿で見えた。カナの視点だからこそ。
「愛してる」
額に口づけを落として囁いた。答えは返ってこなかったが、構わなかった。
「……そろそろ神父の所に顔をだすか」
立ち上がり向かおうとした所で、風に誘われて海を見る。
カナと出会う前には何も感じなかったその紺碧の海が、何故か今は胸に迫るものがある程輝いて見えた。
ヴァージルは、記憶のある中で初めてその言葉を口にした。
「綺麗だな」
誰にも聞かれる事なく本人でさえ直ぐに忘れる筈だったその声に、別の声が重なった。
「綺麗ね」
一瞬時が止まり、驚かせないようにこれ以上ない程ゆっくりと視線を腕の中に下げる。
そこには先程の自分と同じように海に目を奪われ、穏やかに微笑むカナの姿があった。
「カナ……」
まだ信じられなくて、幻を壊さないようにそっと呼びかける。
呼ばれたカナは顔を上げ、状況が分かっていないのか不思議そうに首を傾げて言った。
「何? ヴァージル」
限界だった。
戻ってきた愛しい人を、強く強く抱きしめる。
涙が目から溢れて彼女の顔に落ちていき、立っている事も儘ならなくて膝立ちになりながらもカナの体を離さない。
「ど、どうしたの? ヴァージル?」
混乱しているのがヴァージルに伝わってくるが、今だけは宥めてやる余裕はなかった。
「悪ぃ。少しだけ……こうしててくれ」
自分だって戸惑っているのに、カナは目の前のヴァージルを慰めようと頬に手を伸ばしてくる。
その手に自分の手を重ね、擦り寄りながら言った。
「愛してるんだ」
カナは少し目を瞬かせた後、花のように笑った。
「……私も、愛してる。ヴァージル」
生まれる前から探して来たものに、漸く出会えたような気がした。
涙を拭って不格好な様を取り繕い、暫く落ち着くまで深呼吸をする。
カナも静かにそれを待ちながら、何が起きたのか自分の記憶を辿っていた。
「そっか……。私、戻って来れたんだ」
一つになったようではない今の自分とヴァージルに、魔術を途中で止めてくれたのかと悟る。
「……俺が間違ってた。酷い目にあわせて、ごめんな」
辛いばかりの記憶だっただろう。知らなくて良かったのを、ヴァージルが無理矢理押し付けた。
カナは眉を下げたいつになく情けない表情のヴァージルを見て、怒る事は出来なかった。
彼の過去は人生の殆どが色味のない世界で、そんな中初めて手にした彼の『特別』の意味を、分からずに軽視してしまったのが自分の間違いだったのだ。
「許すよ。私も……勝手な事をして、ごめんね」
「いいさ。今、隣にいてくれるから」
お互いにその言葉だけで十分だった。
カナはヴァージルの腕から離れ自分の力で立ち上がろうとするが、久しぶりの行為に体がふらついてしまった。
片手で支えてくれたヴァージルに、自分の身に起きた事を確認した。
「私、どのぐらい寝てたの?」
「今日で八日目」
道理で体が動かない訳だと、カナは驚いて細くなったように見える自分の腕に視線を向けた。
まだヴァージルの記憶から抜け出したばかりで、頭が明瞭ではない。
それでも肌に感じる光や鼻をくすぐる海の香りが、これが自分の体なのだと確かに教えてくれた。
「抱えて帰ろうか?」
首を横に振って答える。今は無性に、自分の足で歩いてみたい。
「そうか」
カナはヴァージルに差し出された手を繋いで、戻ってこれた世界に再び踏み出したのだった。




