第二十六話
ベッドの上に寝かされているカナは、まるで今にも起きそうに見える。けれどもうこの状態で一週間が経過していた。
ヴァージルは手に形を失くすほど煮込んだスープを持って、彼女に話しかけた。
「カナ。今日はお前の好きだったレキド風に味付けしてみた」
なるべく優しく聞こえるように努めて言ってみるものの、相変わらず反応は無い。
この一週間繰り返されてきた失望に今更動揺もせず、ヴァージルはベッドに上がってカナの体を起き上がらせた。
「食えるか?」
スプーンを口元に持っていけば、ゆっくりと口を動かしてそれを嚥下する。
しかしそれはカナが自分で体を動かしているのではなく、ヴァージルによって動かされているのだ。
使い魔の魔術を途中で止めたとはいえ、一部が混じり合ってしまったのは最早無かった事にはできない。
だからこうやって彼女の意識が浮上しない今、体を維持する為に少しだけ操る事にしていた。
しかし目覚める為には余り良い影響を与えるようには思えず、必要最小限にとどめている。
スープが全て消えた所で皿を机の上に置き、まるで起きている時と同じようにカナに話しかけた。
「ん。全部食べられたな」
褒めるように頭を撫でるその様子は、傍から見れば等身大の人形遊びでもしているかのようだった。
ヴァージルの胸に寂しさが込み上げて紛らわす為にカナの体を抱きしめる。
これが自分の愚かさの招いた代償だった。
不意にヴァージルにざわざわとした嫌な感情が湧き起こる。それと同時にカナの目からは涙が溢れて零れ落ちた。
繋がりがヴァージルに教えてくるのだ。今、ヴァージルの過去の記憶が彼女を苦しめている最中であると。
「それはお前の記憶じゃねぇ。カナは今、シレネの町のいつものベッドの上だ」
心に届くように願いながら教えれば、胸のざわめきが去って行く。それと同時に止まった涙を袖で拭ってやった。
穏やかさを取り戻したのを知ってほっと息を吐いた。
「偶には店の様子でも見に行くか?」
ベッドの上だけではつまらないだろうと、ヴァージルは上掛けでカナを包んで抱え上げた。
そして彼女がいつも接客に座っていた椅子に腰を下ろす。
ヴァージルにとってはカナの場所だったが、今ではカナの恩人である老婆の記憶も重なっていた。
店は閉められ静かで、落ち着いた気持ちになっていく。
何処かでお金を稼がなければ。使い魔を飛ばして盗賊でも探して倒すか。盗賊がため込んだ金品を奪った所で、誰にもばれないだろうから。
そんな事をカナを抱えながらつらつらと考えていると、何者かが扉の前に立つ気配がした。
その正体に気付いたものの相手をするのも面倒だと放置しようとして、カナならばそうはしないだろうと思いなおした。
「気にしてたしな」
使い魔を飛ばして鍵を開けさせるとオズワルドが入って来た。
そしてヴァージルに抱えられたカナを見て、意外とでもいうように目を見開く。
「あれ、『食った』んじゃないんだ。てっきりそうするかと思ったのに」
「うるせぇ」
「ん? 寝てるの? いや、違うな。あー、そういう事か」
オズワルドはカナの顔を覗き込んで、何が起きているのかを把握した。
「普通の人には僕らの半分はキツイでしょ」
「黙れよ」
「はは、まあ今後悔してるところか。ある程度予想通りの状況だけど、どうしようかな」
やっぱり招き入れるんじゃなかった。鬱陶しくて堪らない。
苛つきながらも一応、カナが助けた相手だから追い払う事は我慢する。
「何しに来たんだよ。何処だって行けばいいだろ」
「彼女との約束だしさ。協力するって。それに僕としてもヴァージルの傍にいた方が良いと思ってるし。ついでに起きてれば特異体質について聞いてみたかったんだけど。残念」
何でこいつを助けようとしたんだとカナを責める感情が湧いたが、何処までもヴァージルを思っての行動だったのだと直ぐに分かってしまって素直に恨む事も出来ない。
実際、オズワルドがヴァージルの助けになってくれるのは強力だった。
しかしそれはカナがまともな状態であればの話であって、彼女がいなければ全てが無意味だ。
「ずっと目覚めないかもね。……その時は一生そうしてるつもり?」
「かもな」
投げやりな返答にもオズワルドが気分を害した様子はなく、へらへらと笑っている。
「暫くは付き合ってあげるよ。今、宿に泊まってるんだ。また来るよ。長引きそうなら家を借りるから」
「勝手にしろ」
言いたい事を言って、オズワルドはさっさと出て行ってしまった。
二人になってまた元の静けさが戻って来る。
顔をカナに摺り寄せながら、話が届いているつもりで語り掛けた。
「別に、焦る必要なんてねぇからな」
こちらには三人の刃がいるのだ。魔天会がどれだけこちらの命を狙ったとしても、逃げるだけならば確実に出来る。
だから壊れた心をゆっくりと治していけばいい。
一生かかったっていいんだ。
答えは無かった。けれど伝わってくる感情が珍しくほんのりと温かみを帯びた気がして、ヴァージルの口元が緩む。
「神父には言っておかないと、気にするか?……なら、明日会いに行こう」
あの人だけには頭を下げないといけない気がするのは、ヴァージルに入り込んだカナの感情のせいだろう。
明日の予定を決めると、ヴァージルは静けさを二人で楽しむ為にそっと目を閉じた。




