第二十五話
使い魔の魔術に精通しているヴァージルは、幾らか明瞭とした意識でカナの記憶へと潜っていた。
目に映るのは家の中なのだろうが、見た事もない物に満ち溢れていた。
揺らぐことのない光が天井から煌々と部屋を照らし、風を送る道具らしきものが部屋の空気をかき回す。
母親らしき女性がモップをかけるように妙な道具を床に滑らせていて、極めつけは目の前にある動く絵だった。
「わたしはーっ! ぷりてぃーっれでぃーず!」
絵に合わせて手を上げるのは小さなカナだ。
『これは……一体何処だ?』
ヴァージルは自分の知識を総動員してカナが幼少期を過ごしているこの場所について考えたが、明らかに文明の度合いが全く違う。
今言える事は何もないだろうと一先ず結論を後回しにし、カナの記憶の先を見る事にした。
夢中になって踊るカナだったが、甲高い音に反応して玄関へと移動する。
「おにいちゃーん!」
今のカナよりも三歳ほど年上だろうか。兄に向かってカナは飛びつき、兄もまたカナを嬉しそうに抱きしめ返した。
「加奈! ただいま!」
それは誰が見ても微笑んでしまうような兄妹愛で、幼いカナは何の苦痛も苦悩も知る事なくただ家族に可愛がられている。
それはヴァージルが想像だにしない、物語のように平和な記憶だった。
人が死なない。戦う事もない。
家族の温かい眼差しが常にそこにあり、高度な文明が人に余裕を作り出している。
盗みさえ稀で、未来は当然のように彼等の前にあった。
『カナ。お前は何処から来たんだ』
彼女の幸福な記憶が、ヴァージルにその恩恵を感情として分け与えてくれた。
甘ったるくて失うのを恐れる程の柔らかな感情が、ヴァージルの心を通り抜けていく。
それに浸る内に記憶は進み、この世界の平凡な子供としてカナは成長していった。
十二歳ほどだろうか。すらりと手足が伸びたカナは、夏に合わせて家族と山に遊びに来たようだった。
川縁に荷物を置いて、一人水中に潜って行ってしまった兄の姿を追って川に少しずつ入って行く。
「お兄ちゃーん? 何処ー?」
視線をさ迷わせ、少し不安に思いながらも周囲を探っている。
そしてふと振り返ってみればある筈の川縁の荷物は消え、全てが見慣れない森の中へと変わっていた。
『異世界』
全てが腑に落ちた。あの文明も、嘘のような平和も。
カナは別の世界からやってきた異邦人だったのだ。
無性に彼女を抱きしめたくなった。けれど今は混濁の最中である。
全てが終われば記憶や精神を共有できるのだ。もう、そうやって触れ合う必要さえなくなるだろう。
それを望んでいた筈なのに、白紙にインクを垂らしたような違和感がヴァージルを襲う。
何かを間違えてしまっているかのような。
そうしている内にも記憶は進んでいく。ヴァージルがどうでもいいとしか感じていなかった世界は、カナの目には優しさで溢れていた。
森でカナを拾った薬草店の老婆や、神父をはじめとした人々が困る彼女に向かって手を差し伸べてくる。
人からの善意を素直に受け取り、そして素直に返す才能が彼女にはあった。
だからカナの周りはこの世界でさえ温かい。
そして、その時がやってくる。
教会への坂道を上りきったカナの目に、見慣れない明るい茶髪の男性が建物の裏へと進む姿が見えた。
自殺をするのではないかと心配する心がヴァージルに伝わってきて、笑ってしまいたい気持ちになった。
『そんな事考えてたのかよ』
あの時の俺は任務の合間に時間が空いて、地形の把握でもしておこうかとその程度の気持ちでこの場所に来ていた。
海側からはどうやって攻めるかとか、そんな碌でもない事を思いながら。
全くの善意で、カナは俺に対して案内を提案してくる。
不思議と押しつけがましく感じず気が向いたのは、きっとカナがあまりに無防備にヴァージルを心配していたからなのだろう。
ヴァージルにとって世界が変わったネックレスを外した時でさえ、自分がどれだけの事をしたのか分からずにただ役に立てた事を喜んでいた。
日々は過ぎていく。
押しかけたヴァージルを不思議がりながら。けれど、溢れる善意で見守りながら。
優しいなぁ。
顔、整ってるよね。
猫みたい。
カナの視点から見る自分は、呆れるほどに普通の男だった。
浮かぶ彼女の心がヴァージルを満たしていく。
そしてザカライアの件で俺がカナの前から姿を消して、胸を締め付ける寂しさがやってきた。
子供の様にカウンターに頭を伏せながら、彼女の心が浮かび上がる。
ヴァージル。私は貴方が好きだった。
この感情の名前は、それで良かったのか。
陳腐な言葉を人が使うのは、それ以上の言葉など存在しないからだ。
幾百、幾千、幾万、幾億と繰り返されただろうその言葉を、ヴァージルも漸く正しく理解した。
ヴァージルは唐突に、自分が何を手放そうとしているのかを自覚した。
『駄目だ』
身動きが取れない筈の記憶と精神の海の中で、茫然と呟く。
『駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だっ!!!』
これ以上ないぐらい焦りながら、必死で展開した魔術を収束させようとする。
カナの中では、ヴァージルでさえも存在が祝福されていた。
ヴァージルが最も欲しかったものは、既に手の中にあった。そしてそれは、一つになった瞬間に意味を失うのだろう。
「カナ!」
自分の声で彼女の名前を叫ぶ。
元の体に意識が戻ったヴァージルは、目を瞑ったまま青ざめている腕の中のカナを見た。
カナの記憶を見た後では、顔色の理由は直ぐに分かった。自分の記憶に彼女が耐えられる筈がない。
当初の目的通り一つに混じり合おうとした所で、何処までカナの精神が残っていた事だろう。
そんな事さえ気がつかない程、ヴァージルは何も知らなかったのだ。
「駄目だ、カナ。俺が悪かった。目を開けてくれ」
黒煙を消そうと努めてみるも、発動した魔術は彼女を浸食し続けようとする。
「カナ、頼む……」
震える声でカナに呼びかけた。
目が覚めてくれなければヴァージルにとっての全てを失うのだ。
死体のように反応のないカナに足元が崩れ落ちていくような恐怖が襲う。
止める手立ては一つしかない。
「『髪の先から、足の先まで。全てを捧げ、汝を主君とし僕となる事を制約する』」
これは別の形での使い魔の契約方法だった。
今ヴァージルが主人としてカナを食らおうとしているのを、主従を逆転させた術をかける事で浸食を止めようとしたのだ。
しかしこれには主人となる者の同意が必要不可欠である。
「許すと、言ってくれ」
ヴァージルはどうにか一言を得ようと、カナの頬に手を添えて話しかけた。
「それだけでいいから」
忘れていた自分の涙が彼女の額に落ちた。
「……愛してるんだ」
溢れる程の感情を込めて、誰しもが使う言葉を言った。
耳元で懇願しながら囁けば、薄っすらと口が開いた気がした。
微かな望みをかけて擦り切れるような願いを繰り返す。
「許す、と」
そして、ヴァージルの願いは聞き届けられた。
「ゆ、、……す」
浸食が止まる。二人の間に溢れていた黒煙は、大人しくヴァージルの影の中に戻っていく。
しかしそれでも、カナの目が開く事は無かった。




