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Act.19 狂人乱舞ロックオン

 張りつめた弦の上。テグスを走らせる。

 鋭くも情緒豊かな音色が奏でられる。


(リースがICを離れたか。これで、家出に次ぐ家出だな。華ぐ夜をつけさせて正解だった。――あいつを追い詰めるために、父を捉えたのがここに来て、寺嶋の追放に一役買ってくれるとは、幸運なものだ。Δ愛も消えてくれるとはな。寺嶋と組みだして目障りになってきたところだったんだよ)


 嬉良はバイオリンを弾きながら邪な考えを巡らせていた。

 普段のレコーディングや練習で使うスタジオとは違い、クラシック音楽用につくられた楽堂がエデンの中に有る。そこが嬉良のバイオリンの練習場だ。白を基調とした古代ギリシャの神殿のような彫刻のほどこされた天井の高い、開放感あふれるその部屋に、バイオリンの奏でる旋律が響き渡る。

 教官をつけて指導をもらうこともあるが、今回は気分転換と精神統一も兼ねてなのでだだっ広い楽堂にひとりっきりだ。


「そろそろ罠に掛かる頃か」


 ひとしきり、弾き終えたところでそう呟き、スカートのポケットからスマートフォンを取り出す。


「もしもし、KT? そろそろ車を用意して、それと“あれ”もね」


 ヴァイオリンを皮張りのケースに入れて、持ち上げると同時に、口角もつりあげる。

 電話の向こうで、どこか押し殺したような吐息がKTから放たれた。

 嬉良はそれを意識していながら、無視する。すべて、彼女の顔面をべったりと塗りたくる邪悪な笑みで塗りつぶした。


「さあ、大暴れの時間よ」


     *****


「開いた?」

「今度はさすがに開きますよ、鍵を間違えていない限り」


 Δ愛が、嬉良の部屋の鍵を開け、忍び込む。

 入手経路としては、釈然としない部分もある。とくにあの少女が、宿直室の鍵を持っていたところは。――などと思う寺嶋だったが、これが愛とともに過ごすことのできる口実になっていた節もあり、沸き起こる疑問符を押し殺す。いつのまにか寺嶋は、愛に依存するようになっていた。


「ほら、早くしますよ」


 きちんと整理整頓された部屋の奥にある机のうえに、鍵が置いてあった。


「ありましたよ! 寺嶋先輩っ! これですよこれ!」

「なあ、なんか怪しくないか」


 遅れて恐る恐る一歩ずつ確かめるようにして歩いてきた寺嶋が、唇を震わせる。


「え……」

「なんでその鍵、この机のど真ん中にわざとらしく置かれていたんだよ、不自然じゃ――」


 机の上には昨夜の勉強の形跡だとかは一切ない。拭き掃除までしたのか、窓から挿しこんでいる朝陽を反射しててらてらと光沢を放っている。

 そんな綺麗な机のど真ん中に、これ見よがしに鍵は置かれていたのだ。


「今はそんなこと言ってる場合じゃないですよ!」


 Δ愛は能天気だ。だが寺嶋には、ある疑念が残っていた。

 自分が、自分たちがまるで、大きな手の上を動き回っているに過ぎないのではないかと。そして、その手の主は嬉良ではないのかと。

 Δ愛の先導で、嬉良が誰かを閉じ込めている独房に向かう。足早に、かつ、あまりどたどたと音を立てないようにしながら。


「ここよ」


 Δ愛が嬉良の部屋で手に入れた鍵は、独房の鍵と愛は踏んでいた。愛は兼ねてから嬉良を尾行し、独房に人質がいることを把握していた。

 女子寮と独房をつなげる渡り廊下を進んでいく、愛の足取りが少しずつ早くなっていく。脚の長い愛が早足になるものだから、寺嶋は半ば小走りになってしまう。


「助けて……あげない……と」


 愛が声を震わせる。

 半ば泣いているのではないかと思うほどだ。寺嶋は、愛がそこまで感情的になることに少しだけ疑問を抱いた。

 そして、鍵を挿しこむと独房の扉はひとりでに開いて、視界からフェードアウトした。まるでふたりを誘い入れるかのように、なめらかに。

 流れて来る空気は、少し汗臭い。


「ちょっとクサい」

「きっと、ろくに風呂も入らせてもらってないのよ。こんなの、あんまりよっ。人を――なんだと思ってるのよ。助けましょう。こんな仕打ちなどしなくとも、管理音楽は――」


 Δ愛は廊下を淡々とした足取りで歩いていく。奥のドアが近づくごとにすえた臭いが強まっていく。ついに、人質が入っているであろう独房の一室のドアまでたどり着いた。鉄製の扉は、高い位置に目を当てて中をのぞくための細い窓がある。身長の高い愛ならば、屈んでちょうどいいくらいの位置。寺嶋は背伸びをしなければ届かない。

 その窓から覗くとひとりの痩せこけた男が、力なく横たわっていた。


「ひどい――」


 ノブに小さな鍵穴がある。それは先程開けた扉の鍵についてある、もうひとつの方の鍵だった。鍵を差し込み、小さくノックをしてからドアを開けると、中で男がうなだれていた。


「またか。朝食なら、さっき来ただろ」


 こちらを見もせずに、男はブツブツとつぶやいている。


「嬉良じゃないよ」


 そう言うと、とぼけた顔をしてこちらを見上げた。男はそのまますくっと立ち上がり2、3歩後ろにのけぞる。


「あたしはΔ愛、助けに来ました。あなたは――」


 その男の容姿に寺嶋は見覚えがあった。

 今、視界にあるその姿はやつれており、ヒゲも伸びているがわかった。

「リースの、おとうさ――ん」

「そ、そうだが。わたしは辻井リース、いや里依紗の父親、辻井恵介だ。君たちは――」


 恵介が名乗ったところで、Δ愛は嬉良が犯してきた謀略の残酷さを悟った。拳を強く握り締め、眼球に力を込めて、足を一歩前にだし、恵介に向かって、こうきり出した。


「逃げましょうっ! 嬉良がやってくるその前に」

「え……」

「いいから早くっ!」


 とまどう恵介の右手を、しびれを切らしたΔ愛が引っつかむ。

 ついに愛は走り出した。


「ちょっと、なにを――」


 運動神経の良い愛は、恵介をぐいぐいと乱暴に引っ張って廊下を進む。


「愛っ! このまま走って逃げるのか? 3人で!」

「カーシェアを使います! 車運転できますよねっ!?」

「で、できるが。今は免許を携帯していないっ」

「そこは関係ないですっ!」


 廊下を3人でひた走る。独房があるのは女子寮の3階の位置。渡り廊下を渡り、女子寮の階段を急いで降りる。もちろん、通常は男子禁制だが、四の五の言ってられない。それに、嬉良も恵介を折檻する際は男子禁制を犯したのだから。

 階段を駆け下りて、正面玄関の反対側に位置する、駐車場口を抜けるとカーシェアが3台ほどある駐車場に到着する。


「はぁ、はぁ。着いた」


 愛と恵介が息を荒くしている。それにワンテンポ遅れて寺嶋も駐車場に到着した。

 屋外にある駐車場には、いくつか車が付けてあり、その一角にカーシェアがある。運転免許を所持していて、なおかつ会員であれば、そこにつけてある車を誰でも運転ができるのだ。

 カーシェアには青い車が停まっていた。

 Δ愛はカーシェアの受付用機械に、カードをタッチした。カーシェアを利用できる会員証だ。


「おまえ、どこでそんなもの」

「うちのお父さんのくすねて来た」


 お父さん。その言葉を発するとき、一瞬だけ愛は表情を翳らせた。

 3人で車に乗り込む。運転席には辻井恵介、助手席にΔ愛、後部座席には寺嶋が座った。


「とりあえず、エデンを出ましょう」

「これで自由になれるんだな」

「なれますよ。娘さんに会えるんですよ。会ってあげてください。絶対に」


 恵介が思いっきりアクセルを踏み込み、車は駐車場からロータリーを通り、敷地内の大通りへと飛び出した。


 カーシェアから一台の車が動き出したのを見計らって、駐車場に着けられていた黒い車が動き出した。

 エデンは本部棟から放射状に広がった円形の施設。本部棟から外に出るのは至って単純な道のりだ。


「もう、どれほどアクセルを踏んだって無駄だよ。このエデン自体が牢獄なんだよ」


 黒い車。後部座席に乗っている嬉良は、人相がバレないように帽子を深々とかぶっている。運転手であるKTも同じくだ。

 ツバの影でひっそりとほくそ笑む嬉良。


「後をつけられてるわ」


 青い車。後部座席の寺嶋が後ろを見ながら言った。さっきから黒い車が、後をつけて来ている。


「追手、警備員ですか? やっぱり嗅ぎつけて」

「警備の車じゃないわ。ただの黒い車」

「だったら、たまたまじゃないのか?」


 寺嶋はかすかにみえる黒い車のシートに座る人物に双眼鏡越しに目を凝らす。運転席の男は知らない。だが、後部座席に座る女に見覚えがある。赤いロングヘアーに帽子。長い手足。――寺嶋は勘づいた。


「嬉良だ! 嬉良がつけてきてる!」

「なっ! もっとスピードを上げてください!」

「ええっ!」

「速く!」


 慌てふためく車内の様子が、黒い車の後部座席からも見えていた。

 嬉良は、むしろバレたことを歓迎するかのように、舌なめずりをしてにんまりとほくそ笑む。


「あれを試す時が来たようねぇ。――KT、あれは?」

「後ろのトランクにあります」

「ありがと」


 嬉良が後部座席からトランクに身を乗り出し、シートの裏にある大きな箱を引きずり出した。そして中身を取り出し、後部座席の窓を開け、それを構えた。


「一度やってみたかったのよねえ」


 照準器を覗き込む。

 ボルトアクション。弾薬を装填。――嬉良の脳内にアドレナリンが駆け巡る。


 窓から身を乗り出して、嬉良はそいつを構える。

 リー・エンフィールドのライフル。


 細長い銃口と照準器が、双眼鏡を覗き込んでいた寺嶋の眼に入る。――しかし、車の振動でぶれていてうまく結像できない。


「なにか出てきた!」

「なにかって、なんですか? 寺嶋先輩!」


 そして、焦点があったとたん、寺嶋は驚愕のあまり、双眼鏡を落としてしまった。だが、あっけにとられている場合じゃない。


「伏せろぉおおおおっ!」


 寺嶋がそう叫んだとたん、轟音とともに車の後ろのガラスが吹き飛んだ。


「な、なんだよ! 一体!」

「ライフルだ――」

「ふざけんなっ! 映画かよっ!」

「車を出来るだけ、左右に振らしてくださいっ! このまっすぐな道でよけるにはそれしかないですっ!」


 Δ愛の言うとおり、道は本部棟からまっすぐに出口まで伸びている。

 だがそれは、出口の姿が遠くからでも確認できるということだ。


「閉まっている」


 視線の先にあった通用口は、閉じられていた。


「ほかの出口はないのか?」

「そこの交差点を右に!」


 本部棟から伸びる放射状の道路にちょうど直行する、円弧を描く道路に入った。


 目の前で、進路変更をした車を見て、嬉良は静かに笑う。


「ばーか、全部閉じてあるんだよ」


 寺嶋と愛の脱走計画を予測していた嬉良は、この日、すべての通用口を閉じたのだ。もはや、嬉良にとってエデンの敷地内は狩場。目の前を惑う青い車は、か弱い小鹿か。

 もう一度嬉良は、照準器を覗き込み、狙いを定める。


「もう少しだけ、練習相手になってね」


 ずどんという轟音。車のフレームが大きく揺れた。車にまた銃弾が当たったようだ。後部座席、右のドアの一部が内側に向かって抉れた。


「冗談じゃねえぞ、あいつ、化物か! 二回連続で当ててきたぞ!」


 恵介は嬉良の気迫にすっかり腰が引けてしまっている。


「しっかりしてください! リースに会いたくないんですか!」

「そういう問題じゃないぞ、愛。あいつの銃の腕前やばいぞ。動く車から、全く違う方向に動く車に向かって当てたんだからな。それも二回とも、外していない。特殊訓練でもしたのか、あいつ」


 齢十七の少女がやってのけることではない。歴戦の軍人か、それ以上の怪物か。

 黒い車。後部座席で、嬉良は手応えを感じて3人に憫笑(びんしょう)を送る。

 

「意外と簡単ね。次はタイヤを撃ってパンクさせてやるわ――映画みたいにね」


 やっとたどり着いた、ふたつ目の出口も閉まっていた。


「くそ! こっちも出口が閉まってるぞ!」


 恵介が声を荒げた。苛立ちのあまり、歯を食いしばりながらハンドルをどんっと叩く。


「これは、もしかするかもしれないな」


 ここに来て、寺嶋が弱音を吐いた。その、もしかというのは出入り口が全て完全に閉じられていて、このエデン自体に自分たちが閉じ込められているのではないかといったものだ。――残念なことに寺嶋の読みは当たっている。


「諦めたら、そこで終わりですよ!」


 そうΔ愛が叫んだのも虚しく、次の銃弾が当たった。


「なんだ、ハンドルが馬鹿になったぞ!」


 ハンドルが言う事を聞かなくなった。いや、右に引っ張られており、車体も右に傾いている。


「どうやら、タイヤを撃たれたようね。右の後輪がパンクしている」

「まいったな、こいつ後輪駆動だっ! 駆動輪がやられているっ!」


 寺嶋が走行の安定しない後部座席で叫ぶ。

 青い車は、とうとうまともに走れなくなってしまった。その無様な有様に、嬉良はけたけたと高笑い。


「あっはははっ! 快――感っ!!」


 見事タイヤに撃ち当てた嬉良。ガッツポーズをとり、唸った。

 狂人は再び照準器を覗き込む。


「もう一発、お見舞いしてやるわ」


 引き金に手をかけ、速度の落ちた前方車両に止めを刺そうとする。


「最後の駆動輪、ブチ抜いてやるわ」


 銃声とともに、左の後輪がバーストした。

 車は尻餅をつく形となった。もともと右に傾いていた進路を修正できるわけもなく、そのまま道路をそれて、芝の敷かれた中庭を突き進んでいく。

 やがて生垣に衝突し、そのまま車体の半分が生垣にえぐりこんだところで、停まった。


 青い車の中、3人は肩を落とし、ため息をついた。

 嬉良の足音が車体越しに聞こえてくる。へしゃげたドアに硬い靴でごんと蹴りを入れられる。そして、例のリボルバーが窓越しに恵介につきつけられる。3人は両手を上げて、車から降りた。


「逃げられると思った?」

「い、いえ。ちょっとドライブをですね――」

「うるさいんだよっ! 耳障りな言い訳をするな!」


 Δ愛に向け、空砲が放たれた。びくりと肩を震わせる3人。


「次は実弾だ、わかったらおとなしくしろ」

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