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Act.18 黒い涙と口裂け女

 シェルタリーナの集合住宅街に星羅は住んでいる。鉛で閉じられた灰色の空の下、昭和の高度経済成長期に建てられた団地のごとく、アパートが犇めき合っている。

 地上で暮らしていた頃は2階建ての広い家だったが、今は1LDKの間取りに家族4人で住んでいる。シェルタリーナに越してきてから、父の稼ぎも減ってしまったため、星羅もその弟の昴も、自分の部屋すらない状況を飲み込むしかなかった。

 夜になると、リビングのテーブルを移動させ、4人分の布団をしいて眠りにつくのだ。そのため、ひとりだけ目が覚めてしまったときや、遅くまで起きていないといけないときは少々厄介だ。そして、夜中に電話がかかってきたときも。


「姉ちゃん、電話だよ……」

「む、ふぁ~あ……誰? こんな時間に」


 テーブルの上でスマートフォンがアラームとともに震えている。

 起きてしまった弟の昴。そして騒音に寝苦しさを訴える両親の身体をまたいで、テーブルにたどり着く。時計を見ると夜中の12時だ。画面を見ると、ムンクからの電話だった。


「時間考えてよ」


 会話で家族が起きないように、通話ボタンをおしてから何も言わないまま、玄関から外に出て、そこで耳に電話を当てた。地下の埃っぽく冷たい風が、寝間着の上から肌を刺す。


「もしもし? 今何時だと――」

「星羅か。リースが帰ってこないんだ」

「え、電話してみれば――」

「しても返事がない。出ないんだ」


 ムンクの声には心労が見える。

 リースが昼に外出してから帰って来ず。音信不通となったらしい。


*****


「はーい! おつかれぇえええっ!」


 グラスの音がカキンと鳴らされ、祝杯が上げられる。3つあるグラスのうち、2つにはビールがなみなみと注がれており、残りの1つはウーロン茶だ。

 今宵は宴。男2人と女1人は、IC同盟団なる、ICの私設応援団を立ち上げている。


「桃谷ぃー、おまえも飲めよ」


 早くも出来上がっている男の1人――斉藤和也(さいとう かずや)――が、女――桃谷いちご――のグラスに注がれたものが、ウーロン茶であることに不平を漏らす。

 桃谷はIC同盟団の紅一点。艶やかな黒髪を高い位置で結んでツインテールにしている。ファッションは白黒のチェック柄の、ゴスロリっぽいデザインのワンピースだ。


「いや、あたしは未成年だから」


 和也の誘惑を冷たくつき放す。


「硬いこと言うなよー」


 今夜はシェルタリーナの若者が集うバーで、IC同盟団の打ち上げがささやかに行われていた。メンバーのうち、加藤正彦と斉藤和也はすでに成年している。桃谷だけが10代だ。


「それに、お酒なんか飲んだら、小説(これ)に集中できない」


 桃谷は黒革のハンドバッグから、文庫本を取り出す。


「おまえさー、空気読めよ」


 正彦が桃谷に辟易した様子で苦言を漏らす。

 正彦はこの私設応援団のまとめ役。メガネの奥の瞳は、少し神経質な印象だ。


「打ち上げ中はさすがに読まないよ。でも、ふたりとも酔いつぶれたらヒマになるし。帰りはどうせ、ふたりとも寝るんでしょ? そうしたらヒマじゃん」

「おまえ、そんなんだから友達少ないんだよ」

「いいもん、こうやって男と飲んでるだけでも十分勝ち組だから」

「そうですか、もう少し黙ってくれたら可愛いと思いますがね」


 桃谷は口が達者で、“ああ言えばこう言う”と言ったところ。

 正彦は眼鏡の奥でぴくぴくと眉を動かす。


「まあ、そうカリカリするなって、まさー(加藤正彦のあだ名)。今日はせっかく普段ICのために使っている会費を、こうやって自分たちのために使ってるんだからよー」


 和也のその一言にふたりは頷き、ジョッキグラスを傾けた。

 つきだしのナッツをつまみながら、話題にするのはICの活動や音源について。だが、これが盛り上がらない。というのも、期待の新星として加入した、辻井リースがライブにとんと顔を出さなくなってしまったからだ。フロントマンの星羅と、美那は懸命なパフォーマンスを続けているのだが。


「この前のコンサートでテロ事件があってからだな」


 ICの活動を快く思わない地上の人間が忍び込んでいるのか。

 シェルタリーナは開かれた空間であり、場所を知っていれば地上と地下の行き来は出来てしまう。事実、地下に定住しない人間はそうやって地上と地下を行き来しながら、暮らしている。その中に管理音楽のスパイが紛れ込んでいても、なんら不思議ではない。


「地下の音楽まできな臭くなってきたわね」


 ふとそこで、遠くのカウンター席の方でグラスが割れて、中の酒が飛び散るような音がした。あと人の体が倒れるような鈍い音もだ。


「な、なんだ……?」


 突然の事態に、回りかけていた酔いが一気に吹っ飛んだ。音がした方を見やると華奢で小柄な女がカウンター席で酔いつぶれていた。まさにぐでんぐでんと行った状態で、上半身を起こすことすらままならず、カウンターに完全に伏してしまっている。


「だからやめときなって言ったんだよ。グラス弁償だよ。それに嬢ちゃん頬もこけちゃって、飲むより食べたほうが」


 ガクガクと震えながら上半身を起こす女。

 手足は折れそうなほど細い。酒で麻痺した四肢は弱弱しく震えている。

 伏していたところから、上体を辛うじて起こし、カウンターの向こうの店員に食い下がる。親切になだめてくれている店員に対し、まだ反論しようというらしい。


「い、いいのっ。も、もう帰るとこなんて、あたしにはな……い。た、たりないよ。まだ、全部わすれてな――」


 そこで力尽きて、後ろにのけぞり、椅子ごと床に豪快に倒れてしまった。

 床に叩きつけられた身体に、グラスの破片が刺さり、血が滲み出る。だがそれよりも女は深い眠りに落ちており、痛みを訴えることすらなく、死んだように動かない。


「お、おい! 大丈夫か!」


 店員と声を合わせるようにして、正彦が倒れた女のもとへと駆けつける。

 近くで見ると女というより少女。倒れ伏した背中から、どこかあどけなさが見える。――ひょっとしたら、未成年ではないだろうか。と正彦は思う。

 だが、彼女から発せられる香水と酒、ヤニの混ざった匂いはとっくに成人してしまった女性のようだ。


「若いのにまったく、いろいろ覚えちまったようだよ、そのこ」


 店員が文句をたれている横で、ふと彼女が寝返りを打った。

 その瞬間、正彦は口をあんぐりと開けて立ち尽くした。

 一瞬、携帯電話のカメラのシャッター音のようなものが聞こえた気がしたが、そんなことより信じられない光景に視覚以外の感覚が馬鹿になってしまっている。


「どうしたの?」


 遅れて桃谷と和也がかけつけると、ふたりとも同じようにしてその光景に目を見張った。


「お、おい。嘘だよな」


 口からよだれを垂らし、スースーと寝息を立てながら、床に横たわる少女。肩口まで伸ばした色の抜けかけた金髪に、ぴっしりとしたブラウスにチョッキを羽織り、下はショーパン姿だ。ステージで見た衣装とはもちろん違うが、3人にはそれが誰なのかすぐにわかってしまった。

 ここのところ、ICでの活動をストップしていた辻井リースだ。

 同盟団の3人に訪れた思っても見ない鉢合わせ。――この酒とタバコに塗れた非行少女が、辻井リースなのか。舞台の上で力強いパフォーマンスを見せていた身体は、今や見る影もなく痩せ細っている。


「知り合いか? なら、介抱してやってくれないか? 帰る場所がないらしいからな」


 店員が割れたグラスを片付けながら言う。

 帰る場所がない。ICのメンバーの中に溶け込んでいたはずの彼女に何があったのか。


「え、身寄りがって。このこは、アイドルグループの――」


 戸惑う桃谷。

 正彦は呼吸で僅かに揺れる肩を見つめ、悲しげな瞳を彼女に落とした。


「リース、いったい何があったんだ」


 当惑するIC同盟団のメンバーを尻目に、鼻歌混じりで上機嫌な少女がひとり。

 リースと同じく金髪で傷んだ髪に、同じく見すぼらしいまでに痩せ細っている。蝶蛾咲華ぐ夜は、地下にある情報を手に入れるために降りて来ていた。

 スマートフォンで電話をかける。相手は、地下に華ぐ夜を派遣した嬉良だ。


「約束通り手に入れましたわよ。どうなるでしょうね。ICのメンバーが、酒とタバコに塗れた非行少女だなんて知れたら――」


 たらりと華ぐ夜は涙を流す。

 涙は華ぐ夜の皮膚を覆う濃い化粧をにじませる。その悲愴を醸し出させる、こけた頬をごまかすための濃い化粧だ。アイシャドウがにじみ、黒い河が頬を流れる。

 それとは対照的に、口元は引き裂かれんばかりに吊り上がる。

 黒い涙を流しながら、口裂け女は笑っていた。


「可哀そうで可哀そうで、なりませんわ」


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