第65話 猫と宵闇の屋敷と男たち
厨房は真っ暗で誰もいない。
「この屋敷の人たちは不用心ですね。盗人にこうして入られてるかもしれないというのに――」
がしゃんとフライパンが目の前の床に盛大に落ちた。
「む、何か当たったかの?」
「ユミス様、台所のフライパンを落とさないでくださいっ」
あれだけ音がしたのだから侵入がバレたか?
ユミス様を呼び止めて台所の陰に隠れるが、誰かが近づいてくる様子はなかった。
「誰にも気づかれてないようじゃの」
「あれだけ大きな音がしたのに。この屋敷が逆に心配になってくるな」
屋敷の住人が夜に消えてたりしないよな?
厨房を出て長い廊下を進んでいく。
夜の屋敷は真っ暗で、住人がいないとお化け屋敷さながらだ。
「そこの角からゴーストでも出てきそうじゃのう」
「ユミス様、フラグを無駄に立てるようなことは言わないでください」
「む? フラ……? フラとはなんじゃ――」
人の気配!
壺を飾っているテーブルの上にあがり、壺の陰に隠れた。
「なんか、声がしなかった?」
「そんな訳ないでしょ。気のせいよ」
そこのT字路で手燭を持っているのはメイドの方?
「ハーラルト様の亡霊がいたりして」
「ちょっと、やめてよ!」
「きゃはははっ。そんなのいる訳ないでしょ。本気にしてるの?」
メイドの二人はT字路の廊下を通りすぎていった。
「ふぅ、危なかった」
「そんなにビクビクすることはなかろう。わらわとヴェンは猫に変化しておるのじゃから――」
ユミス様の白い尻が壺を刺激して――危ない!
「およ?」
壺が倒れる寸前に私の背中で壺を受け止めた。
「ヴェンよ、ナイスキャッチじゃ!」
「感心してないで早く元に戻して!」
まだ厨房を出ただけなのに、もう疲れてしまった。
「ヴェンよ、大丈夫か? いったん引き返すか?」
「いえ。先に進みましょう」
私はスパイや密偵には向かないな。
T字路を右に曲がり、男性たちが歩いてきた廊下を進んでいく。
「あそこの部屋から明かりが漏れてます」
「ここの住人が起きておるようじゃの」
平民は日没とともに寝てしまうが、貴族はそうじゃないのか。
少しだけ開かれた扉をそっと、肩と前肢を器用に使ってゆっくりと押し開ける。
シャンデリアと燭台から明かりが灯っている。
「そんでよ、村の連中ときたらよ!」
「まったく、しょうがねぇ奴らだな」
この部屋にいるのは二人の男か。
顔はよくわからないが、貴族っぽい服装の方々がワインを片手に談笑しているようであった。
「そういや、あの街道の件、どうする?」
「サイクロプスが出てるというやつか? 放っておけよ」
「でも、グーデンから何度も催促されてるぜ」
近くに立てかけられていた甲冑の陰にユミス様とともに隠れる。
街道を脅かしてたサイクロプスが退治されたことに気づいてないんだな。
「知るか。あんなバケモノ、俺たちだけで倒せる訳ねぇだろ!」
「だよなぁ。ハーラルト様だったら、簡単に討伐してくれてるんだろうけどよ」
アルマの父さんはやっぱり強かったんだな。
「ふん。あいつは死んじまったんだから、今さら何を言ったって生き返りやしねぇだろ」
夜陰に沈黙が訪れる。
「ゲルルフ、お前は変わっちまったよな。前はあんなにハーラルト様を慕ってたのに」
ゲルルフ?
新しい名前が出てきたぞ。
「気持ち悪いことを言うな。あんなやつ、俺は前から好きではなかった」
「そうなのか? いつもハーラルト様と一緒に行動してて、まるで弟のようだったが――」
「黙れ!」
だん、とテーブルがふるえてワイングラスが倒れた。
「俺は前から嫌いだったと言ってるだろうがっ。しつこいぞ!」
「おっ、怒るなよ、ゲルルフ」
ゲルルフさんは短気なのか?
酒に酔ってるだけか。
「でもよ、ほんとにエクムント様がハーラルト様を殺ったのか? 前からよくケンカしてたけどよ」
「さあな。そうなんじゃないのか」
「メイドたちはそうだって騒いでるけどな。やっぱり領主の座を狙ってたのかな。エクムント様って、実兄のハーラルト様みたいに強くはなかったけどなぁ」
やはりアルマの叔父のエクムントという人が、アルマの父さんを殺したのか。
順当に考えれば、領主の座を狙ってアルマの父さんを毒殺……といったところなのか――
「お前たち、いつまで起きてるんだ!」
部屋の扉をいきなり押し開けたのは噂のエクムント様!
「お前たちは明日も早いんだろ。こんなところで酒盛りしてないで早く寝ろ!」
「はっ。す、すみません!」
名前のわからない臣下はすぐに謝ったが、
「ち。今さら、あたり前のように保護者面しねぇでくださいよ」
ゲル……なんとかという短気な人が文句を言いはじめて……不穏な空気がまた流れはじめたぞ。
「なんだとっ。きさまっ」
「あんたみたいなのに睨まれたって、怖くもなんともねぇんだよ」
「お、おいっ、やめろよ!」
この場に留まっていない方がよさそうだ。
甲冑の下で居眠りしているユミス様をそっと起こして、忍び足で退室した。
* * *
「けっこう収穫がありましたね」
適当に見つけた空き部屋に隠れて床に寝転がる。
硬い床は氷のように冷たかったが、少しずつ温もってきた。
「ならば、もう帰ればよいのではないか?」
「そうですけど、せっかく猫になって忍び込んだんですから、もう少し探しましょうよ」
「わらわはもう眠たいんじゃが」
ユミス様はとっくに就寝している時間か。
「わかりました。もう少しだけ、私にお付き合いください」
「街へ帰ったら大きな花瓶を買うのじゃぞ」
「大きな花瓶ですね。いいの買いますから」
次はどこへ忍び込むか?
調子に乗ってアルマが使っていた部屋とかを探してみたいが、部屋が多すぎてとても探し出せない――
「ヴェンよ、邪なことを考えておらぬか?」
「かか、考えてませんよ」
「声がふるえておるぞ」
この人……じゃなくてこの神様はなんで私の心が読めるんだ。
「この広い屋敷の中で、アルマはどこに住んでおったのかのう」
「気になりますよね、やっぱり」
「そうじゃな。わらわは現在のアルマしか知らぬから、あやつがここに住んでおったとはどうしても思えなくての」
やっぱり、そうだよな。
「アルマはいい意味で庶民的なんですかね――」
ブーツが硬い床を叩く音!
「ユミス様、隠れて!」
回廊の暗闇から歩いてくるのは誰だ?
漆黒の髪をオールバックにしているあの怖い人は、ゲル……名前は忘れたけどアルマの叔父のエクムント様と口論してた人だ。
隠れる場所がなかったから廊下の隅で縮こまるしかなかったけど、まったく気づかれなかった。
「あやつは二階に上がっていくようじゃぞ」
「行ってみましょう」
表のロビーまで来て、金の手すりで飾られた階段を上がっていく。
二手に分かれた廊下を左へ曲がり、奥へとどんどん進んでいくぞ。
「自分の部屋に戻るのか?」
「にしても様子が変じゃぞ」
そうかな? 特に怪しいとは感じないが。
一番奥の部屋の扉を開けて、部屋の奥へと消えていく。
ここは誰の部屋だ?
部屋にはユミス様が好きそうな花瓶や、大きな鏡が置かれている。
天蓋のついたベッドも艶やかで、男性が使う寝具には見えないんだけどな。
もしやアルマの部屋!?
その可能性はあり得るな……あいつは、こんなすごい部屋で暮らしてたなんて。
男がおもむろにベッドへ顔をうずめだしたぞ!
「アマリア様……」




