第44話 猫の姿で見上げる世界
おそるおそる跳躍してベランダの柵に降り立つ。
四階の宿のベランダから見下ろす街は……高いっ。
「私、そういえば高いところあんまり得意じゃなかったんだ」
ならば、どうして四階を選んだ?
猫の姿になって初めて気づく、心の矛盾。
人間の狂気。人の世の無常観……!
「バカなことを考えている場合じゃない。ユミス様を早く追わないと」
あの享楽女神はどこに行った。
いたっ。もうあんな遠くの民家の屋根まで移動して……!
「あんな遠くまで、どうやって移動すればいいんだ。だいたい、私は高いところが苦手なんだぞ」
だったらどうして四階を選んだ?
「ああもうっ、あそこの屋根に行け!」
もうヤケになってベランダを飛び出した。
小鳥のように軽い身体はまるで翼を得たようで、虚空を切るように飛び越えていく――
「うわっ、また飛び過ぎた!」
猫の身体は跳躍力が高すぎるから制御が難しい。
やわらかい身体をひねってわずかな空気抵抗を得て、三階の建物の屋根になんとか着地した。
見返した先のベランダは、もうはるか遠くにたたずんでいた。
「一瞬でこんな遠くまで飛んだのか。猫の運動能力って想像以上だな……」
ユミス様の言う通り、しばらくこの姿を楽しむのはありかもしれない。
「とはいえユミス様を早く追わないと、本当に一生このままということもあり得るぞ」
地上まで降りられそうな屋根を伝って、あっさりと路地に着地してしまった。
見上げた先にいるのは、自分よりもはるかに長身の人間たち。
「これが猫の視点なのか。頭ではわかっていたけど、実際に変化すると視点がはるかに低い」
人間たちは私を気に留めずに歩いている。
どこに向かって歩いているのか、表情に出さずに歩いていく姿に妙な虚しさを感じてしまう。
真後ろに敵の気配!
「うわっと」
敵ではなくて猫の私に足をぶつけそうになったおじさんだ。
蹴られる寸前に近くの塀へ飛びうつった。
「四本足の生活はいまいち慣れないが、こういうのもそんなに悪くないかもしれない」
塀を伝って声のする方向へと進んでいく。
北門の広場に旅芸人の一座が集まっている。
「今日もあの曲芸を披露するのか? この姿ならのんびり見られるな」
冒険者ギルドの前に冒険者たちの姿があるが、誰も私に気づかない。
ギルドハウスのそばでうずくまっていると、だんだんと眠くなってきた。
* * *
「ねえねえ、見て!」
「あそこに猫がいるよ!」
「可愛い!」
現実とまどろみの狭間をさまよっていると、若い女性たちの声が聞こえてきた。
「なんだ?」
見上げると二人の女性が騒いでいた。
「あっ、起きた!」
「可愛い!」
可愛いって、私に対して言ってるのか?
右の剣士風の女の子が右手を差し出してくる。
白い手が私の頭を愛でるようになでて……気持ちいい、かも。
「逃げないねっ」
「可愛い~」
左の三角帽子をかぶった女子も私をなでて……気持ちよすぎて昇天しそう……
「めちゃくちゃ可愛い!」
「この子、のら猫なのかなぁ?」
「でも毛並みとかめっちゃきれいだよ?」
元四十二歳のおっさんが、おそらく十代の女子たちに愛でられている。
頭やアゴ、背中やお腹まで、まんべんなく……
「持って帰っちゃおっか」
「あたしたちで飼っちゃう?」
そんな、お持ち帰りだなんて……元四十二歳の小汚いおっさんですよ……
「でも飼うとこないよね」
「だったらギルドに引き取ってもら――キャッ!」
二人の女子が悲鳴を上げたぞ?
後ろから魔王にも勝る強靭なる気配……!?
「プギャァァ!」
双眸を血張らせて全身で威嚇している白猫は――ユミス様!?
「キャア!」
女の子たちのただならぬ気配を即座に感じとって逃げてしまった……
「ヴェンを悪の道へと誘う汚らわしき者たちめ……ちょっと油断した隙を狙ってくるとは……」
「いや悪人じゃないですよ。彼女たちは健全な――」
「やかましい!」
突風がいきなり発せ……ぐおっ!
「人間を直接攻撃しちゃいけないんでしょ!」
「やかましいわっ。まったく、全然追ってこないと不可解に思っておったら、こんな場所で人間の女どもに捕まりおって。ヴェンも迂闊すぎるのじゃ!」
ギルドハウスの三階のベランダに降り立つことができた。
「怒らないでくださいよ。ちょっと寝てただけなんですから……」
って早く元に戻せ!
「見つけたぞ!」
「およ? ヴェンが急にやる気になったぞ?」
この姿でも魔法は使えるのか。
風の魔法で脚力を上げる魔法があったはず。
「よし、これでいい」
身軽になった身体で力を四肢に集約する……!
「な……!」
捕らえたぞ!
「この……っ」
今日ここであなたを超える!
「早く戻せ!」
「おほほ! まだ断るの!」
「断るな!」
荒々しい声を発しながらパンチを繰り出して、まさに血みどろの戦いが街のど真ん中で繰り広げられている……猫の。
「なんだなんだ?」
「猫がケンカしてるぞ」
道ゆく人たちは真剣な私たちを見ても、一人として気にも留めない。
「ユミス様を攻撃したくなかったが、仕方ない」
魔力を集中させて唱えるのは上級のウィンドブラスト!
「くらえ!」
この姿でも魔法を放つことができるが――
「おほほほほ」
案の定、ユミス様にはまったく通用せず。
「ヴェンよ、師匠であるわらわに牙を剥くとは、いよいよ堕ちるところまで堕ちたのう」
「ぐっ」
「わらわはそなたを、このような無礼者に育てた覚えはないぞ」
「だったら早く戻せ!」
反逆上等。享楽マイナー女神め、くたばれ!
アクアボールとウォーターガンも駆使するが……まったく当たらねぇ。
「なんだあれ!?」
「よくわからんけどすごい猫がいるぞ!」
まわりががやがやと騒ぎはじめている気がする。
「ヴェンよ、無詠唱はできるようになってきたようじゃが、魔法の発動がまだまだ遅いの」
「ぐ、くぐ……」
「魔法というのはこう唱えるのじゃ」
猫の自分と同じくらいの水の球体が飛びかかってくる!
「あぶっ」
あまり強くはないが、全身がびちょびちょになってしまった。
「詠唱が遅ければ、それだけ隙が生まれる。魔法の種類を増やすことよりも、詠唱をもっと早く正確に唱えられるよう工夫すべきじゃの」
くそ、なんでこんなに早く詠唱できるんだ。
「さぁて、まわりもそろそろにぎやかになってきたことだし、この辺りでそろそろ――」
「どっ、どろぼう!」
八百屋のおかみさんらしい悲鳴が繁華街から聞こえた。
「なんじゃ?」
こちらに向かって駆けてくるのは、黒い外套で身を隠した泥棒?
「どけっ」
泥棒が過ぎ去ると地面に二つのトマトが落ちた。
「やれやれ。騒がしい輩がおったものじゃ」
「追いましょう!」
跳躍して民家の屋根に飛びうつる。
猫の脚は人間とは比べものにならないくらい速い。
さっきの泥棒を北門の広場の近くで見つけた。
「くらえ!」
泥棒の背中に突風をぶつける。
彼はギルドハウスの外壁に身体をぶつけた。
「なんだ?」
ギルドの前には数人の冒険者がいる。
「その人は野菜を盗んだ泥棒です。早く捕まえてください!」




