46.兗州への侵攻 (地図あり)
建安22年(217年)10月 豫州 潁川郡 陽翟
陽翟で我が軍は、曹操軍の物量に押しつぶされそうになったものの、火薬爆弾の投入で戦況をひっくり返してやった。
元々、敵も新兵の多い部隊をなんとか動かしていたのもあり、崩れはじめると脆い。
結局、20万人の軍も半分以下に減り、城にこもってしまった。
そうなれば、やることは決まっている。
「放て!」
組み立てられた龍撃砲から、巨石が放たれる。
それは400メートルもの距離を越えて、敵城に降り注いだ。
さすがに初撃では当たらないものの、2回の修正を経た巨石が城壁にぶち当たる。
まだまだ城壁が崩れるほどではないが、城内から悲鳴が上がっているようだ。
その後も断続的に巨石を投じていると、やがて城壁に亀裂が入る。
その間、敵も無抵抗ではおらず、隙を見ては遊撃隊が攻撃を仕掛けようとしていた。
しかし我が軍はガッチリと本陣の守りを固め、龍撃砲を守りきった。
やがて城壁の一部が崩れ、とうとう味方の突撃が始まる。
「とりあえず、この戦の行方は見えましたかな」
「ああ、そうだな。あとはどれだけ敵を削れるかだが、あまり無理はしないようにな」
「心得ております。死兵を追い詰めても、いいことはありませんから」
その後の展開は、ほぼ目論見どおりになった。
我が軍の突入によって多少の抵抗はあったが、敵の多くが降伏する。
しかし夏侯惇を含む一部の部隊が城を捨て、決死隊となって脱出を試みる場面も発生した。
その際、張郃が率いる部隊が殿となり、こちらの追撃を阻んだため、まんまと一部に逃げられてしまう。
その辺はある程度、想定の範囲内だったが、張郃が最後まで降伏しないのには参った。
結局、張郃の死によって、陽翟の攻城戦は終了したのだ。
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建安22年(217年)11月 豫州 潁川郡 陽翟
その後、我が軍は潁川郡の要所を占領し、補給路を確保した。
対する曹操軍は兗州まで後退し、守りを固めているようだ。
ただし徴兵は難航しているらしく、それどころか各地では反乱の機運が高まっているという。
これも俺たち孫呉が勝利したためであり、それが各地に伝わって反乱分子が勢いづいているからだ。
おかげで比較的、ゆっくりと軍団の再編に取り組むことができた。
我が軍は前の戦で2万近い死傷者を出したが、逆に4万もの降伏兵を取り込むことによって、12万人に増強される。
一方、西方の劉備軍だったが、こちらもなんとか対応できていた。
まず南陽郡の武当には周泰が陣取り、漢中方面からの攻撃に備えている。
ただし南陽は仮に攻めても維持しにくいため、劉備が本気で取りにくるとは思っていない。
逆に益州の南部に対しては、劉備軍の侵攻は盛んだった。
敵は張飛や趙雲を主将にして、俺の支配地に攻撃を仕掛けてくる。
ただし我が軍はあまり守ることには固執せず、長江の流れと江州の城を盾に、抵抗を続けている。
この辺は孫郎だけでなく、黄忠と厳顔の老将コンビが中心となり、上手いことやってくれてるようだ。
加えて俺たちは、益州の北部でも工作を続けていた。
それは”劉備が孫紹を裏切って、曹操に付いた”、という噂を広めることだ。
加えて”孫呉は倍近い敵を打ち破った。いずれは中原を制して、劉備を討伐するだろう”、なんて話も広めたので、北部は動揺しているとか。
そんな感じで、態勢を立て直した俺たちは、いよいよ兗州へ攻めこんだのだ。
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建安22年(217年)11月 兗州 東郡 白馬
気合いを入れて兗州に攻めこんだものの、曹操軍の抵抗は想像以上に弱かった。
敵は陳留や酸棗など、重要拠点に兵を入れていたものの、俺たちが迫ると撤退していったからだ。
おかげで陳留郡の各都市は続々と恭順してくることになり、とりあえず補給路は確保できた。
さらに北の東郡の白馬に至り、俺たちはいよいよ曹操の本拠地 冀州をうかがっていた。
「敵の状況はどうだ?」
「黎陽に兵が集まっていますが、それほど多くはありません。陽動が効いたようですな」
「どうやら敵の主力は、鄴に集まっているようです。おそらくその手前で、決戦を挑んでくるのではないかと」
黄河の対岸に当たる黎陽に、曹操の兵がいるらしい。
しかしこちらも小部隊を動かして、他の渡河地点をうかがっているので、敵も絞りきれないのであろう。
そしておそらく曹操は、すでに渡河の阻止は諦めているのだと思う。
敵の主力は最重要拠点の鄴に集結し、守りを固めているというのだから。
ならばこちらも、早々に決戦に臨んでやろうというものだ。
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建安23年(218年)1月 冀州 魏国 内黄
ハッピーニューイヤー、エブリバディ。
孫紹クンだよ。
兗州でも補給態勢を整えた俺たちは、いよいよ冀州に乗り出した。
黄河を渡って黎陽を制圧し、さらに鄴に向けて進軍したのだ。
その途上の都市もあっさりと放棄されており、進軍は順調である。
そしていよいよ俺たちは、鄴の手前の内黄へ至り、兵を休めていた。
「鄴にはまた、20万人ぐらい集まってるらしいな?」
「ええ、どうやら他の場所の反乱鎮圧は諦めたらしく、軍勢を鄴に集結させたようです」
「なるほど。そうすると新兵ばかりでもないから、侮れないか」
「ええ。ただしこちらにも反乱勢力が味方してくれますから、それほど悪くはならないでしょう」
「そうだな」
周瑜が言うように、曹操は魏国以外で起きてる反乱の鎮圧を、諦めたらしい。
そうして各地に差し向けていた部隊を呼び戻し、大軍を編成したのだ。
ただしそれは反乱軍を自由にすることにもなり、俺たちは彼らに協力を呼びかけていた。
元々、密偵を使って反乱分子を支援していたため、その辺はお手の物だ。
そして伝書バトで連絡を取っている分、こちらの動きも早かった。
やがて周辺の各地から、続々と反乱軍が集まってきた。
「漢王朝の将来を憂う諸兄よ、私が呉王 孫紹だ」
「「「うおお~~~っ!」」」
「残念ながらこの中原は、曹操に牛耳られ、天子さまの身柄も押さえられている。我々はそんなことでいいのか?!」
「「「ダメだ~っ!」」」
「そうだ。そんなことでは我らが祖先に申し訳が立たない。そこで私はこれから、曹操に対して決戦を挑む。もしそれに賛同してくれるなら、我々の後に続いてほしい!」
「「「おお~~~っ!」」」
こうして曹操との決戦の準備は整ったのだ。




