15.益州の分配
建安16年(211年)7月 益州 蜀郡 成都
「いよう、久しぶりだな、周瑜どの」
「ああ、久しぶりだ、劉備どの」
「そっちは上手いこと、劉璋を降伏させられたみたいだな。だけど俺たちの働きがなければ、こうも上手くいかなかったってのは、分かってるよな?」
「そうかもしれないな。しかし我らの軍勢がいなければ、できなかったことも事実だ」
劉璋の降伏により、劉備軍とにらみ合っていた益州軍が、成都に帰還してきた。
そして一緒に成都までやってきた劉備が、さっそく周瑜を相手に成果を誇示している。
なにしろ俺たちはこれから、益州をどうやって分け合うかについて、議論するのだから、そうなるのも当然であろう。
そんなあいさつもそこそこに、ある部屋に主要人物が集まると、分配会議が始まった。
「いや~、それにしても今回は大変だったな~。なにしろ俺たちはたったの1万で、3万からの益州軍を押さえたんだ。しかもそれは、俺が劉璋と同じ漢の宗室の裔だったから、声が掛かったわけで、他の誰にも無理だったからな」
「たしかにそうかもしれないな。しかしそのお膳立てをしたのは、全て我々だ。そして4万の軍勢で敵を圧倒し、内部撹乱によって降伏を早めたのは、我々以外にはできなかっただろうな」
「いやいや――」
そんな感じで、いかに今回の勝利に貢献したか、互いに誇示しあった。
やがて双方が持ちだすネタも尽きた頃、諸葛亮が強気の要求を突きつけてくる。
「今回の戦功を勘案するに、我々が漢中郡、巴郡、広漢郡、広漢属国、蜀郡を受け取るには十分だと思います。さらに武陵を手放すなら、もっともらってもいいぐらいですね」
「おいおい、それはあまりに強欲ってもんだぜ。事前に決めたように、まずは互いの戦功を確定して、それを数値化しようや。そのうえで領地の生産力を見積もって、分け合う約束だろう?」
「まあ、そうですが、それほど変わらないでしょう」
すかさず蔣琬がクレームをつけるが、諸葛亮は澄ましたものだ。
それだけ今回の戦功に自信があるのだろう。
たしかに劉備の働きには、大きなものがあった。
劉備が先に益州入りして、敵の主力を拘束してくれなければ、こうも上手くはいかなかっただろう。
今後のことも考えると、多少の譲歩は仕方ないかもしれない。
しかしそれならそれで、なるべく恩を売るようにしたいものだ。
その後、互いの戦功と土地の生産力を見積もるという、膨大な作業を経て、互いの境界線を確定した。
結局、劉備には漢中郡、蜀郡、広漢郡、広漢属国に加え、巴郡の北西部(墊江より北)が割り当てられる。
そして我が軍は巴郡の長江流域と南部に加え、それ以外の益州南部を領有することになった。
人口で見ると劉備側が300万人に対し、我が方は400万人ぐらいになるだろう。
ただしその実態は、こちらが大きく不利になっている。
なぜなら劉璋がまともに統治できていたのは、成都を中心とする益州北部であり、その大部分が劉備の領域になるからだ。
逆に南部はひどく広大だが、異民族や反乱分子も多く、その統治は容易でない。
劉備の方も、これから漢中を取らねばならないが、その統治難度は格段に低いと言っていいだろう。
そんな実態を考慮すると、こちらの統治人口はおそらく現状で、100万人ぐらいにしかならないだろう。
なぜそんな不利な条件を受け入れたかといえば、ひとつには劉備の統治を早く安定させるためである。
そうして早く北の守りを固めてもらうことを、優先したわけだ。
それに加えて我が軍は、長江流域を押さえると同時に、武陵を接収する。
そのうえで益州南部も時間を掛けて統治を進めれば、大きな生産力となって返ってくるだろうとの目論見である。
この方針には周瑜をはじめ、蔣琬や魯粛も賛成してくれたので、なんとか孫権も説得できたわけだ。
「それじゃあ、武陵郡は任せるぜ」
「ああ、そちらも漢中を頼むぞ」
かくして、孫軍団が揚州、荊州の大半と、益州の南半分を領し、劉備が益州北部に割拠するという、変形版”天下3分の計”が、ここに成立したのだった。
ちなみにこの頃、孫権は交州の制圧も進めており、我が軍は4州にまたがる一大勢力に成り上がろうとしていた。
はたしてこの先の未来は、どうなるのだろうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
建安16年(211年)9月 益州 巴郡 江州
その後、周瑜が荊州に戻ると、劉備と孫権の上奏により、孫郎が益州牧に就任した。
さらに劉備と孫権が相互に上奏することで、劉備が車騎将軍、孫権が驃騎将軍になっている。
もちろん朝廷は未承認なので、ほとんど自称にすぎないが、今の漢朝にそれをとがめる実力などない。
それどころか、今回の孫劉連合による益州攻略は、曹操陣営に大きな衝撃を与えているらしい。
実はこの頃、曹操は史実どおりに関中攻略を意図して、鍾繇を派遣していた。
しかしそれに危機感を募らせた馬超・韓遂らが出陣し、潼関付近で対峙することとなる。
史実では今頃、賈詡の策略によって、馬超と韓遂が仲違いしているのだが、それがまだ実現していないのだ。
おそらく孫劉連合の躍進により、反乱勢力が勢いづいているんじゃないかと思う。
この隙に乗じて、劉備は漢中の攻略に取り組んでいるそうだ。
いつになるか分からないが、早めに漢中が手に入るといいな。
ひるがえって我が軍だが、荊州では周瑜が、襄陽の攻略準備に入るそうだ。
彼の唱える”天下2分の策”では、長江流域をことごとく押さえたら、襄陽を拠点にして曹操を追い詰める、ということになってるからだ。
実際に襄陽が取れれば、北からの攻撃をしのぎつつ、いざとなったら中原に兵を出しやすくなる。
これに対し、揚州ではひたすら守りを固めてもらっている。
長江を盾にすれば、効率的に江東を守ることができるからだ。
そして肝心の益州南部なんだが、俺と孫郎にその始末が押しつけられていた。
「私を治中従事に任命するなんて、孫権さまも思いきりましたね」
「ああ、なんだかんだいって前線で活躍しているからな。どうやら孫権は、俺たちを使い倒すことに決めたようだ」
「まあ、どうせいろいろとやる気だったから、いいですけどね」
治中従事とは州の官吏の選任や、その他もろもろを取り仕切る役職で、少なくとも12歳の子供にやらせることではない。
しかし益州の統治に取り組む気まんまんだった俺は、あえてそれを受けた。
孫権の甥っ子というバックグラウンドもあるので、なんとかなるだろう。
ちなみに益州で勧誘できた主な人材には、こんな面々がいる。
文官:張松、董和、李恢、法正、董允、費禕
武官:孟達、呉懿、黄権、厳顔
その他は劉備に仕官するか、戦死もしくは引退している。
劉備についた主な人物には、張粛、許靖、王連、龐羲、楊懐、高沛などがいる。
それなりの人物がいるともいえるが、史実の蜀に比べれば、全然すくない。
加えて劉備は、荊州で優秀な人材をほとんど得られていない。
はたしてこれらの面子で、どこまで勢力を広げられるか、お手並み拝見といったところだ。
ひるがえって我が陣営は、上記に加え蔣琬と黄忠が益州に残っている。
これから俺は彼らと一緒に、益州南部の統治を進めるのだ。
腕が鳴るな。




