14.益州の攻略 (地図あり)
建安16年(211年)2月 荊州 南郡 江陵
ロングタイム・ノーシー、エブリバディ。
孫紹クンだよ。
劉備と共同で益州を攻めることを決めてから、早くも1年たった。
俺も数えで12歳となり、日々成長中である。
この体はさすが孫策の息子なだけあって、年齢のわりに大柄だ。
毎日、モリモリ飯を食って、武術の鍛錬なんかをしていたら、15歳と言われても不思議でないくらいに成長した。
このまま成長すれば、孫策にも引けを取らないぐらいの、偉丈夫になれるんじゃないかな。
その一方で益州攻めの準備も、着々と進んでいた。
孫家で雇った密偵が大量に益州入りして、情報収集に励んでいる。
それと同時に劉璋の周辺にも入りこみ、内応しそうな人物を探していた。
すると史実どおり、張松や法正などが不満を抱いていることが判明する。
元々、先の益州牧 劉焉の4男でしかなかった劉璋は、長男・次男が早逝したために、祭り上げられた存在にすぎなかった。
そのせいか政策が弱腰で内向きであったため、不満を抱く臣下も多かったのだ。
その点をついて誘いを掛けると、面白いように内応者が現れた。
あまりに上手くいったんで、”そんなんで大丈夫か?”と思ったほどだ。
そして俺たちは、出兵に向けて最後の打ち合わせをしていた。
「つい先ごろ、劉璋から劉備さまに対し、援軍要請が入りました。漢中で暴れている張魯を、討伐してほしいそうです。我々は3月にも益州へ兵を入れ、広漢郡の涪県へ進む予定です」
「うむ、こちらの目論見どおりだな。我々は貴軍が涪に入った辺りで、兵を進めることにしよう」
「フフフ、上手く敵の油断をつければいいのですが」
「まあ、いずれにしろ、さほど手間取りはしないだろう」
こうして孫権・劉備連合軍は、益州攻めに取り掛かることになったのだ。
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建安16年(211年)4月 益州 巴郡 江州
先に益州入りした劉備軍1万人が、そろそろ広漢郡の涪に到着する頃だ。
そんな状況で我が軍も4万の兵を率い、長江を遡上した。
劉備の援軍に浮かれていたのか、益州軍の抵抗は弱く、我が軍は早々に江州へ進出する。
ここは現代の重慶に当たる都市で、長江に西漢水が合流する場所である。
重要な都市であるため、老将 厳顔が城を守っているのだが、その兵は少ない。
なぜなら劉備と一緒に張魯を攻めるため、北方に兵が引き抜かれているからだ。
その隙を突いて、我が軍が襲いかかると、江州城はわずか2日で陥落した。
厳顔も奮闘したようだが、千人足らずの兵では、どうにもならない。
かくして厳顔は捕虜となり、我が軍も益州の要地に拠点を得られた。
その後、1日だけ休養を取った我が軍は、今度は西漢水を遡上する。
さらに墊江から涪水へと入り、広漢まで遡上してから、陸路で西へ向かった。
敵の本拠地である成都を落とすためだ。
この頃には劉備軍もとっくに牙をむいており、益州軍の主力と戦っていた。
敵の方が3万と数は多いが、劉備たちは歴戦の勇士ぞろいである。
適当な砦を奪って拠点とし、敵の主力を拘束してくれていた。
その間に我が孫軍団は、とうとう成都に到着。
3万5千人ほどの兵で、成都を囲んだのだ。
「敵の様子はどうですか? 周瑜さま」
「うむ、すっかり閉じこもったままで、動きは見えない。このまま様子をみるか、ちょっと迷っているところだ」
「私は隙さえ見せなければ、このままでいいと思いますけどね。攻めるべきは、敵の心でしょう」
「フッ、さすがだな。私もそう思うのだが、血の気が多い者も多くてね」
「ははあ。今まで、あまりまともに戦ってないから、鬱憤が溜まってるんですね」
我が軍は多少、江州で苦労はしたが、その他はほとんど抵抗もなく、成都までたどり着いていた。
おかげで手柄を立てたい将兵にとっては、不満の溜まる展開になってるわけだ。
「まあ、多少は敵を揺さぶる効果もあるでしょうから、交替で攻めさせればいいのではないですか」
「そうだな。一定以上の被害が出たら後退するのを条件に、攻撃を認めるつもりだ。孫紹は謀略の方を急がせてくれ」
「かしこまりました」
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建安16年(211年)6月下旬 益州 蜀郡 成都
成都を囲んで散発的に攻撃をしつつ、密偵を使って内部撹乱に励んでいたら、とうとう城内から使者が遣わされてきた。
「はじめまして、周将軍。張松と申します。本日はお目通りいただき、感謝します」
「いや、こちらこそ会談に応じてくれて、感謝している。それで劉璋どのは、どのような意向をお持ちなのだ?」
降伏条件について話したいと出てきたのは、張松だった。
彼や法正は早くからこちらの誘いに乗ってきており、情報も流してくれていた。
そして表面上は劉璋の臣下のふりをしながら、内部の切り崩しに動いていたのだ。
「はい、劉璋さまは名誉ある扱いをしてもらえるなら、おとなしく益州を明け渡すとの仰せです。その際、益州側の人材にも、不当な扱いはしないという確約を望んでおられます」
「ふむ、それならば問題はないな。劉璋どのには、孫権さまと劉備どのの上表によって、列侯の地位を準備する予定だ。益州人材の登用については、こちらからお願いしたいぐらいだな」
「それを聞いて安心いたしました。お手数ですが、その旨を書状にしたためていただけますでしょうか」
「了解した。しばし待たれよ」
こうして、あっけないほど簡単に、劉璋は降伏した。
やはり劉璋は益州牧という地位を重荷に感じ、退職を望んでいたのだろう。
これで劉備と共同とはいえ、我が軍は3州の大半を領することとなる。
ここまで来れば、曹操に対抗することも、現実的になってきたと言えるだろう。
しかしその前に、劉備と益州をどう分けるか、交渉が必要だな。
あっけないほど簡単に益州の攻略がなりましたが、これも劉備が味方のふりして先行してたのが大きいです。
それと主人公は裏方としてしか参加してないので、あっさり流したってのもあります。
ここで益州の地理を紹介しておきましょう。
まず益州は漢帝国の南西部(左下の黄色部分)に位置し、その郡配置は以下です。
最初に攻略したのが巴郡の江州で、下図の左下にあります。
江州から右の魚復へと流れてるのが長江で、その本流は西へ続いています。
また江州から北へ分岐するのが西漢水で、さらに墊江から西へ分かれるのが涪水です。
そして劉備が敵本隊と対峙したのが、広漢郡の涪県で、敵の本拠だった成都は、西側の新都のちょっと下辺りの蜀郡にあります。
地図データの提供元は、”もっと知りたい! 三国志”さま。
https://three-kingdoms.net/
ありがとうございます。




