見送るもの
「嘘だろう……。こんな、ことって……」
渇いたように漏れ出たブレアの声は、闇の中へと消えていく。
これが現実だと信じたくはないと心の奥底で叫び声が上がってくる。
目の前の魔物がブレアの友人だったエディク・サラマンだという証拠は自分の瞳でしか、確認出来ない。
それでも、魔力を視覚化してしまう、この魔視眼ならば分かってしまうのだ。
魔力が間違いなく、エディクのものだと視えているのだから。
ブレアは吐き出しそうだった何かをぐっと飲み込み、表情をきっと結び直した。
「……っ。……エディク! おい、聞こえているか! 私だ! ブレアだ! 理解出来るならば、返事をしろ! エディクっ!」
結界越しにブレアはエディクだった魔物に向けて名前を呼んでみる。
しかし、魔物は先程と変わらず、結界を破ろうと爪を立ててくるだけで、僅かに期待していた反応を返すことはなかった。
「くそっ……。最悪だ……」
自分へと害意を向けてくる魔物が、あの友人なのだと信じたくはなかった。
……アイリス達の報告で、魔物化したエディクはブリティオン王国のローレンス家が引き取ったと聞いていたが……まさか、教団を襲わせるために「使って」くるとは……。
恐らく、今回の件に投入されている魔物の一部は、元は人間だった者達なのだろう。
そう考えてしまえば、吐き気がしそうだが情で刃を下げてしまえば、戦いの場で先に死ぬのは自分だ。
……エディクはライカと違って、完全に魔物になっている。……もう、人間に戻すことは出来ないだろう。
ブレアは唇を噛み、血が出そうな強さで空いている拳に爪を食い込ませた。
ライカのように身体の一部だけが魔物化しており、しかも自意識も保てる状態ならば、まだ希望はあった。
魔力を制御出来るようになれば、人間として生活していくことは可能だろう。
だが、完全に魔物化し、自分が誰だったのかも分からない状態では、微かな望みさえも持てなかった。
……このまま、捕らえて……生かすことが出来たとしても……。その行為はエディクの人間としての──魔法使いとしての矜持を踏みにじることになる。……分かって、いるんだ。
それでも彼を生かしておきたいと思ってしまう甘い考えの自分がいた。
ブレアは剣の柄を握る手を強めた。
救えない、という現実を受け入れることしか出来ず、自分の無力さをこれ程までに呪うことになろうとは。
だからこそ、斬るしか能がない自分は「覚悟」を決めなければならなかった。──友人をこの手で殺める、覚悟を。
ブレアはふぅ、っと深呼吸を繰り返す。そして、自分に揺れがないかを確認した。
脈は乱れていないし、魔力も正常。
手足の動きに鈍さはない。
準備を整えたブレアは魔物をじっと見据えた。
「……すまない、エディク。私は……今を生きる者を守ることを優先させてもらう」
魔物を見逃すことは出来ないし、魔物であることをエディク自身に認識させたくはない。
ならば、ここで終わらせるしかなかった。
心を決めたブレアは自分を守っていた結界を解いた。
瞬間、魔物はブレアへと爪を立てようと右足を振ってくる。
ブレアはまるで最初から全ての動きを見切っているように、魔物の右足を簡単に避けた。
すでにこの魔物の攻撃の動きは頭に叩き込んであるため、避けるだけならば容易だ。
あとは一歩。
自分が前へと進むだけだ。
攻撃を避けたブレアを追おうと魔物の頭がぐるんとこちらを向き、そのまま追撃しようとしてくるのが窺えた。
ブレアは逃げることなく、足を大きく一歩、魔物の方へと戻した──いや、力強く踏み出した。
「はぁぁっっ──!」
そして、長剣で突き刺すように、魔物へと一撃を繰り出せば、息をするよりも速い一閃が暗闇に刻まれていく。
「っ──!」
ブレアの一撃は硬い毛を持つ魔物にとって、弱点とも言える口の中へと突き刺さっていた。
喉と上顎の中間辺りに剣は刺さっており、魔物の動きを止めるように固定している。
これ以上、剣を押し込むことは出来ない。
一応、防御魔法を身に纏っているとは言え、耐えられる攻撃の基準値があるため、無理に限界を超えるつもりはなかった。
「ぐ、がぁぁぁっ!!」
「重っ……」
右腕にずっしりと、魔物の体重が圧し掛かってくる。
だが、ブレアは魔物に暴れられる前に魔法の呪文を口にした。
「──冷酷な業火……!!」
魔物へと突き立てられているブレアの長剣は、その刀身から熱を生み出すように真っ赤に染まっていく。
長剣は次第に炎を纏わり始め、魔物の口内よりその奥へと、勢いよく火炎が放たれた。
硬い皮や毛を持っている魔物への対処方法として、弱点である口や目を狙うのは正しいが、的が小さいため狙い辛いのが難点だった。
さらに近接でなければ仕留められないという点もある。
それでもブレアは一切、恐れることなく魔物の口へと自らの剣を突っ込み、炎を放った。
口内から漏れてくる熱風を受け、自身の額に汗のようなものがじわりと浮かんだ。
自分の腕が炎に巻き込まれる前に、ブレアは素早く剣を抜き取り、距離を取るように後ろへと大きく下がった。
次第に魔物は内側から燃え上がった炎に包まれていき、叫びを上げながらその場に崩れ落ちる。
「がぁっぁぅあぁあっ……!」
その光景をブレアは目に焼き付けるように見ていた。
心臓の奥が爪を立てられたように掴まれたまま、軋んだ音を立てている。
「……エディク」
ブレアにとって、エディク・サラマンという人間は親ほどに歳が離れているが、気安い友人のような関係だった。
たまに教団に戻ってきた時には、他の友人達と共に彼を囲んで、酒を酌み交わしながらエディクの冒険を聞くのが好きだった。
『──世界には未知なるものがたくさん溢れている。それを己の手で一つずつ、解き明かしたいんだ』
少年のような心を持ったまま、彼は笑っていた。その友人が己の道を進んでいくのは、見ているだけで楽しかったし、眩しかった。
だって、自分は斬ることしか才能がないから。
だから、応援したかった。自分の夢を叶えようと進む背中をただ、応援していたかった。
……だが、それはもう叶わないんだな。
友人の一人をこのような形で失うことになるなんて、思わなかった。
……ああ、そうだ。いつだって、私は──失う側だ。
だからこそ、見送る者として、目を逸らすわけにはいかないのだ。
ブレアは涙を流すことなく、魔物を見つめ続けた。
炎に包まれている魔物はまだ、ブレアを害することを諦めていないようで、よろけながらも前に進もうとしている。
身体が内側から燃えたことで、脆くなっているのだろう。
ブレアが放ったのは業火だ。全てを燃やし尽くし、灰へと還す、熱い炎。
そして、それは同時に浄化の炎でもある。
灰になっていく、友人の姿をどんな感情で眺めればいいのか分からない。
「……安らかに眠れ、エディク」
静かに呟き、ブレアは金属音を立てながら剣を鞘の中へと収めた。
魔物の右足が再び、ブレアを傷付けようと振り上げられた瞬間、炎に包まれていた身体はぼろりと地面の上へと倒れ、次第に原型を崩していく。
魔物を纏っていた熱風は一気に霧散し、灰となったものを散り散りにしながら、その場に吹いた風に乗るようにどこかへ運ばれて行った。
彼は今、ここで自然へと還ったのだ。
「……もし、またいつか会えたら、お前の冒険を聞きながら、酒でも飲もうじゃないか」
生まれ変わりというものが存在しているかは分からない。
だが、それでもいつか友人だった者と会えるならば、どんな奇跡でも受け入れてみせよう。
ブレアは目を瞑り、そして今、ここで見送った者を静かに悼んだ。




