夢の中
ふっと身体が軽くなる不思議な感覚に気付き、アイリスは自意識を認識した。瞼の向こう側が眩しく感じられて、朝が来たのかと目を開けるとそこには白い世界が広がっていた。
白いだけで周りには何もない。自分の姿はそこにあると分かっているのに、それでも輪郭はぼやけているようにも見えた。
「……夢?」
夢にしては眩しい場所だ。
それにしても、ここまで何もないと少し寂しい気もする。
目が覚めるまでここで待つか、試しにこの白く広い場所を歩いてみるか迷っていると、後ろから声がかけられた。
「──呼び出して、ごめんなさいね」
何故か懐かしく感じた女性の声にアイリスが振り向く。
だが、そこには人の影のようなものがあるだけで、顔の輪郭も表情も分からない。それでも、怖い感じはせず、ただおぼろげな昔の記憶を思い出すような感覚の心地だ。
「あなたは誰なの? ここは……」
きょろきょろと周りを見渡してみても、目の前に立っている女性以外、ここには誰もいないようだ。
「ふふっ、秘密。でも、そうね……ここはあなたの魂の底に眠る場所とでも言っておきましょうか」
何だかよくわかないとアイリスが首を傾げると女性が穏やかに笑った気配がした。
「少し、心配になったから、話しを聞いてみようと思って」
「話し? 私の?」
「とりあえず、座らない?」
彼女がそういうと目の前に白い長椅子が突然現れる。その姿だけは、はっきりと見えていた。
「わっ……」
「ここは夢の中と同じような場所だもの。望めば、その通りになるわ。……全て、夢だけれど」
少し寂し気に呟き、女性の影が椅子の上に座る。
アイリスも同じように椅子の端へと座った。
「えっと……。私の話しを聞きたいって、どういうこと?」
「うーん、そんなに難しいことを聞きたいわけじゃないわ。……ただ、今のあなたがちゃんと幸せに生きているか確認したかっただけなの」
どこか申し訳なさそうに彼女は言った。まるで、その問い方は自分にとって近しい者が、久しぶりに会った時に訊ねるような質問に思えた。
「あら、私に幸せになって欲しかったの?」
自分はこの女性をどこの誰かも知らないというのに、彼女はその通りだというように深く頷いた。
「私は……私達には、ずっと何かしらの試練が壁となって立ちふさがっていたから。そういう血筋だから仕方ないけれど、そのせいであなたにも生きている上で嫌になることがたくさんあったのかなって」
「それは……あるわよ。だって、人生だもの。まあ、人生を語るには私はまだ若すぎるけれど。……嫌なことも大変なこともこれからどんどん振って来るでしょうね」
「あなたは嫌じゃないの? どうして、自分だけがって思わない?」
まるで姉のようでもあり、母親のようにも聞こえる問いかけにアイリスは小さく笑って首を振る。
「だって、辛い思いをしながら生きているのは私だけじゃないわ。私の相棒もそうなのよ? ……まだ、詳しくは話して貰えていないけれど、彼もきっと悲しい思いをたくさんして、そして少しずつ自分と向き合って生きていると思うの。だからこそ私は、彼と一緒に戦いながら生きていきたいと思っているわ」
「……ふふっ。恋人かしら?」
「ち、違っ……。……でもまぁ、似たようなものよ。そうねぇ……青臭い言い方をすれば、私はあの人がいないとこの先、生きてはいけないってくらい、大事な人よ」
「そう……」
どこか安心したように彼女は微かに笑った気配を見せる。
「それを聞いて安心したわ。あなたにも支え合える人がいるのね」
「……ねえ、どうして私を知っているの?」
誰だろうか、いま、名前を遠くから呼ばれたような気がした。
空間ではなく、頭の中に響いたのだ。
「だって、私はあなたの中に眠っているんですもの」
「え?」
彼女はすっと立ち上がる。
「そろそろ、時間だわ。長い間、呼び止めてしまってごめんなさいね。でも、あなたと話せて本当に良かったわ」
「どういうこと?」
だが、彼女は答えてくれない。
「ねえ、あなたは一体何者なの? 私を知っているって……眠っているって、どういうことなの?」
景色が白から様々な色が混ざり始め、勢いよく加速するように過ぎていく。
「ああ、ほら、あなたを呼んでいるわ。返さないと」
そう言って、彼女は歩き出す。
ふわりと長椅子が消えたと同時にアイリスは立ち上がり、彼女を追った。相手は歩いているのに、追いつけない。
「ねえ、待って! あなたは、私の何なの!? 私はあなたを知っているの?」
アイリスは走りながら叫ぶ。
自分の名前を呼ぶ声がだんだんとはっきりしたものになっていく。
「待って!」
そこでやっと彼女は立ち止まった。
アイリスはその腕を逃がすまいと必死に掴む。
「お願い、教えて……」
息を少し切らしながら、問いかける。
懐かしい記憶も、優しい声色も、自分にとっては全て初めての人だ。
それなのに、どうしてここまで求めてしまうのか。
「私はね、ううん。私達はずっと、あなたの中であなたを見守ってきたの」
静かに彼女は言葉を紡ぐ。
「でも、見守ることしかできない。干渉は出来ない。だって……死んでいるんだもの」
「っ!?」
女性の言葉が曇ったように聞こえるが、その姿はだんだんと輪郭がはっきり見えるものへと変わっていく。
金に近い髪色に、頭を飾るのは赤い薔薇。服装は随分と時代が昔の服のようで、所々が擦り切れて汚れている。
「でも、これだけでは覚えていて。私達はあなたの幸せを……あなた達の幸せを望んでいるから」
穏やかな風とともに、彼女が流したであろう涙の粒が舞うように流れていく。
アイリスの手を握るようにそっと掴み、ゆっくりと振り返った彼女の顔はまるで鏡を見ているかのように自分と同じ顔をしていた。




