小心者の極致
すっかり日は落ち、空は暗闇に覆われている。
これから、とてつもなく「長い夜」が始まるのだ。
そんなことを思いつつ、「三碧の黒杖」の一人、黒杖司であるアレクシア・ケイン・ハワードは周囲に控えている団員に気付かれないように小さな息を吐いた。
吐いたところで、背負っているものが軽くなるわけではないと分かっている。
それでも、己の心を落ち着かせるためには呼吸を整えることも大事だし、他の団員達が取り乱すことがないように毅然した態度でいなければならないのも分かっていた。
現在、アレクシアはロディアート市街を見渡すことが出来る「ロディアート時計台」の一番上の階で待機していた。
もちろん、ロディアート時計台を管理している者にはすでに許可を貰っている。
管理者と教団は昔から繋がっている関係であるため、今回の件を相手方に伝えれば、すぐに了承を貰うことが出来た。
現在、アレクシアと魔的審査課の数名の団員が時計台に待機しているのは、この後に行われる大がかりな魔法を発動させるためだ。
それ故に、魔的審査課に所属する数十人の団員達がロディアート市街に散っては、指定の場所で待機している。
今はまだ、「その時」が来るのを静かに待って貰っているのだ。
ふと、夏の生暖かいような、涼しいような、そんなよく分からない風が自身の前髪を揺らしていく。
わざとらしい静けさに顔を歪め、アレクシアは空いている手で乱れた髪を軽く整えた。
歳は六十を越え、七十に近くなった今では栗色だった髪はすっかり白へと染まってしまった。
そんな己の髪を一つに丸くまとめ、纏う服装はいつもと同じ団服だ。
「規律」を己に課しているアレクシアにとって、「乱す」ことはあまり望ましいものではない。
だが、それは恐らく、指定された枠組みから外れてしまうことを単に恐れてきたのだと、歳を重ねた今ならば分かる。
自身の末の孫であるエリクトールは一族の中で最も小心者と言われ、その性格を心無い者達に笑われているが、彼女は自分に似ていると何度思っただろうか。
それでも──それでも、いつだって唐突に「変わる」ことが出来るのは、自分の殻を破ることを選んだ、否──破る勇気を持てた者だけなのだ。
自分は、それが出来なかった人間だ。そして、無理に破ることを選ばなかった人間でもある。
……ああ、あの頃がひどく懐かしいな。だが、あの時の選択こそが今の私を作り上げた……。
今よりもずっと、小心者だった数十年前。
まだ、自分が「少女」と呼べる歳だった頃。
あの頃の自分はハワード家の規律の厳しさや魔力を上手く制御出来ないことへのもどかしさ、他者からの評価などばかりを気にしていた。
とても弱い、女の子だった。
自分の得手なものは何かと聞かれてもすぐには答えられず、頭には苦手なものしか浮かばなかった。
魔物と対峙することは怖いし、誰かと競うことが苦手ゆえに、人と深く関わろうともしなかった。
どうしようもない程に臆病で、後ろ指ばかり刺される、そんな少女だった。
だからこそ、自身の孫であるエリクトールが己の不甲斐なさから人知れず、泣いている姿を見かけた時、己と重なってしまったのだ。
後ろからそっと彼女を抱き締めて、自分も昔は同じだったのだと伝えれば、エリクトールはとても驚いていた。
──おばあ様はとても立派で、私にとって誇らしい方です。私みたいに泣いてばかりだったなんて、信じられませんっ。
そう言って、エリクトールは苦笑して、彼女は自分のように真っ直ぐ背を伸ばせるようになりたいと答えた。
曇っていた空が少しだけ晴れたような、そんな表情で。
アレクシアは穏やかに微笑み、そしてエリクトールに言葉を返した。
──私が「アレクシア」として、背を伸ばせるようになったのは、背中を押してくれた人がいたからだよ。
アレクシアはエリクトールの頭を優しく撫でつつ、かつて少女だった自分が同じようにされたことを思い出した。
アレクシアが当主の座を譲られた証として「杖」の名を受け継いだ時よりも随分、昔のことだ。
「アレクシア・ケイン・ハワード」ではなく、ただの「アレクシア・ハワード」だった頃──。
優秀な魔法使いばかりである親族に囲まれ、末の子どもとして生まれ育った家で、窮屈に過ごしていた際に自分は一つの光となる存在に出会った。
「ウィータ・ナル・アウロア・イリシオス」。
嘆きの夜明け団の総帥にして、千年以上を生きる不老不死である魔女。
はっきりとした導がないまま、自分はどのような人間になればいいのか分からず、親から言われるがまま「型」に沿うように生きてきた。
そんな時にアレクシアはイリシオスと出会った。
イリシオスは小心者で臆病だった自分へと、こう告げた。
──お主はただ、真面目過ぎるだけじゃ。己では気付いておらぬのかもしれぬが、自分に厳しく、律する心を持っておる。……たとえ、苦手なことや嫌なことがあっても、決して逃げようとせずに立ち向かおうとする。その心意気はとても立派なものじゃ。
それでも、とイリシオスは付け加える。
──そなたは優し過ぎる故に、誰かにとっての「自分」を保とうとしておるのじゃろう。他者にとっての「アレクシア・ハワードという像」を壊さぬように。……本当に、優しい子じゃ。さぞ、もどかしく苦しかっただろうに……頑張ったのじゃな。
そう言って、イリシオスはアレクシアの頭を優しく撫でてくれた。
温かかった。
初めて、褒められた。
初めて、認められた。
自分自身を見てくれた。
ぶわり、と全身に鳥肌のようなものが立った感覚を感じたのはこの時が初めてだった。
自分とイリシオスは師弟のような関係だ。それは同時期にイリシオスのもとで魔法を教わっていた者達も同じだろう。
けれど、自分にとっては生まれて初めて、ありのままの己を見て、認めてくれた唯一の人だったのだ。
彼女は自分に、激しい変化を求めることはなかった。
小心者から脱却せよ、などと言われたことはなかった。
イリシオスはその時のアレクシアをそのまま認め、自分に合った「型」を教えてくれた。
何が得意で、何が苦手で──それを細かく丁寧に、互いに確認し合いながら、特に得意な魔法を高める修練をしていった。
どのような魔法が自分に合うのかをイリシオスが見極めてくれたことで、アレクシアは無理に自分を作り変えて、演じる必要はなくなった。
自分は自分らしく、在ろう──。
たとえ、小心者と蔑まれ、見下されていたとしても、イリシオスが見出してくれた「アレクシア・ハワード」という魔法使いは確かなものだ。
それこそ、自分の本当の姿だ。
魔物を討伐するのが苦手でも、結界を張ることが得意ではなくても、自分は──アレクシア・ハワードは、対人魔法が得意だ。
それを見つけることが出来たアレクシアはただひたすらに対人魔法を極めていった。
対人魔法というからには、人というものを理解しなければならない。
そして、人というものを否定しなければならない。
矛盾しているかもしれないがこれが中々、奥が深いもので、のめり込んだアレクシアはついに対人魔法の極致に辿り着くほどの実力を得たのである。
そうして、アレクシアは本当の意味で「アレクシア・ハワード」という魔法使いとして生まれ変わることが出来たのだ。




