幸せな夢
柔らかな声が耳に響いた。耳が慣れている声のはずなのに、どうしてこれほど、胸の奥が苦しくなってしまうのだろうか。
だって、この声は何も変わらない声だと言うのに。
──ライカ。ライカ、朝だよ。
いつものように自分の姉が少し呆れた優しい声で呼びかけてくれる。
……ああ、朝か。
そう思って、目を覚まして見れば視界いっぱいに広がるのは白い世界だった。
「……」
いつの間にか立っている状態のライカは周りを見渡す。これ程までに周囲が真っ白な光景は初めてだ。上も下もそれどころか見渡す限りが真っ白だ。
しかし、雪の景色にしてはあまりにも不自然な気がしてライカは考え直す。そして、この場所が夢の中だということを覚った。
……そうだよね。だって、姉さんはもう──僕の名前を呼ぶことはないんだもの。
何となく自嘲気味に笑ってしまう。ふと、自分の両手を見てみれば、獣ではなく人間の手に戻っていた。どうやらこの夢は自分にとってかなり、都合が良い夢らしい。
夢の中だというならば、自分が望めば思い通りになるのだろうか。
そんなことを思いながら、もう二度会うことは出来ないたった一人の人をライカは想像してしまう。
「……姉さん」
気付けば、自分の目の前にリッカが居た。
血で汚れてはおらず、表情は健康そのものだ。そしていつもの笑顔を自分へと向けて、静かに佇んでいた。
……大丈夫。ちゃんと、現実と夢の区別くらいは付いているよ。
でも、もう一度だけ。たった、一度だけでいい。
一瞬でもいい。どうしても、姉に会いたかった。
それが夢の中で、自己満足で終わるものだとしても、リッカに会いたかったのだ。
一歩ずつ、足を踏み出していっても、リッカは消えることはない。それがどうしようもないほどに、尊いと思った。
「姉さん。姉さんは……幸せだった?」
ライカが言葉にして訊ねても返事は返ってはこない。一方的に言葉をかけていると分かっていても、ライカはそのまま言葉を続けた。
「僕はね、幸せだったよ。お父さんとお母さんが居た時も幸せだったけれど、姉さんと二人で暮らしている時も幸せだった。あの時は幸せだって、気付いていなかったけれど、今ならはっきりと分かるよ」
夢の中のリッカはライカへと微笑み続ける。その光景は自分が望んだものだから、望み通りになっているだけだ。それでも、構わなかった。
「生きているだけで、幸せだったんだ。一緒にご飯を食べたり、勉強したり、歩いたり、笑ったり、喧嘩したり……。全部、全部、幸せだった。それがどれほど、大切なものだったのか、やっと気付いたんだ」
リッカの胸元にはもう、守り鈴は下がってはいない。リッカの守り鈴は今、自分の胸元に下がっており、歩くたびに軽やかな音を立てていた。
「……姉さん。姉さんは僕に生きて欲しいって、願ってくれたよね。だから、僕はこれから生きていくよ。この先、きっと想像していなかった苦しいことや悲しいことが待っているんだと思う。でも……僕は自分の意思で考えて、行動して、選んで生きていきたい。姉さんがそう望んでくれたように、僕は自分の意思を持って、しっかりと生きて行く」
だから、とライカは言葉を続けて、そして笑みを浮かべたまま動くことのないリッカをぎゅっと抱きしめた。
夢の中であるため、リッカの熱は全く感じられない。それでも、思い出の中の体温と感触が補完してくれている気がした。
「だから、見ていて。絶対に真っすぐ立って、生き抜いてみせるから。これが、リッカ・スウェンの弟だって、胸を張れるように頑張るから」
涙というものは夢の中でも流れるものらしい。
ライカはリッカの細い身体を抱きしめながら、涙を静かに流していく。
すると、それまで動かなかったリッカの身体がゆっくりと動き、二本の腕がライカを包み込んだのである。
……何て自分勝手で、都合の良い夢なんだろう。僕の我儘が具現化されたみたいに、愚かで苦しくて、そして……温かい。
縋るように抱きしめる腕に力を込める。
もうすぐ、夢が覚める時間だ。だが、目が覚めた先にはリッカが待っていない現実が広がっているだけだ。
……それでも、僕は夢から覚める。この先に、進むために。姉さんの言葉が──僕を生かすから。
ライカは夢から覚める決意をして、リッカを抱きしめる腕を緩めようとした時だ。
「……──見ているから」
頭上からぽつりと溢されたのは、優しい響き。まるでライカの言葉に返事を返すように、柔らかい呟きが白い空間に反響していく。
……ああ、もう、十分だ。
悲しくて、寂しくて。でも、やっぱり、これ以上がないと思える程に満たされる言葉だった。
「……うん。行って来るね、姉さん。頑張って来るよ……生きることを」
そう答えた瞬間、リッカの姿が透明になっていき、白かった世界に滲みが混じり始める。
夢から覚めたら、現実が待っている。優しくはない世界が広がっている。
それでも、生きると決めた以上、進むしかないのだ。
・・・・・・・・・・・・・・
はっと目が覚めれば、見慣れた天井が最初に映った。
「……」
ここが自分の部屋だと自覚してしまえば、穏やかな夢が終わったことを改めて実感した。
窓の外の景色はまだ薄暗い。だが、あと1時間もすれば、日が昇ってくるだろう。そんなあやふやな時間に起きてしまったらしい。
ゆっくりと身体を起こしていけば、同じベッドで眠っていたはずのリアンがいつの間にか、ベッドの下へと転がり落ちていた。
しかし、眠ったままのようで、起きる気配は全くない。
クロイドもこの部屋で寝ていたはずだが、どこに行ったのだろうか。
過敏になった嗅覚が捉えたのは、懐かしくも安堵する匂い。恐らく、クロイドが朝食を作ってくれているのだろう。
ふと、気付けば自分の頬に冷たいものが流れていった気がして、ライカは思わず獣のような手で頬を拭った。
夢の中だけではなく、どうやら現実の世界でも自分は泣いていたらしい。
……良い夢だったな。
夢の中のリッカは笑っていた。それだけで、空っぽになりそうだった心は満たされていく。
短い息を吐いてから、ゆっくりと顔を上げる。
下を向いていれば、リッカにきっと慰められてしまうだろう。そんな自分のままではいられないのだ。
「……最後にお別れ、してこようかな」
何となく思いついたことを実行するためにライカはベッドから降りて立ち上がった。だが、ライカは部屋の扉には向かわずに開いている窓へと手を伸ばす。
朝食が出来る前に、部屋には戻ってくるつもりだ。だから、少しだけ出掛けることを許して欲しい。
きっと、自分一人で外に行こうとすれば、クロイドだけではなく他の皆も心配して付いて来ようとするだろう。
……今は、一人になりたい。この島から出る前に、全てを刻んでいきたい。
自分がこの島で生きた年月は他の島人達と比べれば、短いかもしれない。
それでもこの島だけが自分の故郷だ。生きて来た場所だ。
自分が、「ライカ・スウェン」として生きて来た大事な場所なのだ。
だから、二度と足を踏み入れられなくなるというならば、最後に見て回りたかった。
ライカは胸元に下がっているお守りに手を添えて、ちゃんと守り鈴が自分の分とリッカの分が存在しているかを確認してみる。
熱は宿っていないはずなのに、守り鈴に触れた手からは温かなものが伝わってきた。きっと、気のせいだろうと小さく笑ってから、自嘲するように短く息を吐く。
静かに心を決めたライカは黒毛に覆われた足を窓の縁にかけてから、思いっ切りに外へと向かって飛び出した。




