無自覚の愚かさ
「姉さん……」
ライカが呼ぶ言葉に反応しているのか、リッカは動かないままだ。ライカが来ないようにと牽制しているつもりなのだろう。
それでもライカにとっては、リッカが精一杯に虚勢を張っているようにしか見えなかったのかもしれない。
迷うことなく、リッカのもとへと歩いて来るライカを瞳に映しては、すぐさま逸らしているように見えた。
「僕……。僕もね、姉さんのことが大好きだよ」
そう呟く声色は最初に出会った頃のライカそのものの声だった。
リッカを頼っているようで、実はしっかりとしているライカ。
しっかりとしているようで、たまに抜けているところがあって、あわてんぼうのリッカ。
そんな二人を遠くはない少し前の日々に感じていたはずなのに、どうしてあまり思い出せなくなってしまうのだろうか。
「大丈夫だよ。たとえ、姉さんが自分のことを人間じゃない、と思っていても僕にとっては……『リッカ・スウェン』はたった一人の姉さんなんだ。だから……僕と一緒に行こうよ」
リッカが作り上げた炎の壁に足を踏み入れたライカは身体を覆って来る炎を気にすることなく、リッカの元へと進んで行く。
半魔物化しているとは言え、彼が着ている服は少しだけ焼け焦げているようだった。しかし、そんなことを気にする素振りもないまま、ライカは前だけを見ている。
「ね? ……大丈夫。僕達二人だけじゃない。難しいことや分からないこと、二人じゃ出来ないことがあれば、頼れる人に頼ればいい」
「……」
先程までの喧騒が嘘のような静けさだった。ライカの声は透き通るような羽音にも似た音で、聞いているだけで、心の奥が落ち着いていく気がした。
「僕も姉さんに頼って貰えるように強くなるよ。姉さんが僕を守ってくれていたみたいに、僕も姉さんを守れるように強くなるから。……だから──」
そこで、ライカの言葉が一瞬途切れた。透き通る声が、曇っていく。小さな身体が更に小さくなっていく。
「だから……一緒に、生きて行こうよ。二人なら、どんな道でもきっと行けるよ。もう、姉さん一人に辛いことや悲しいことを背負わせたりしない」
アイリス側からはライカの背中しか見えていない。それでも炎の壁の向こう側にあるライカの身体は小さく震えているように見えた。
今、彼は必死なのだ。リッカの「生」を繋ぎ止めておきたくて、必死に訴えている。手を伸ばしているのだ。
「お願いだよ、姉さんっ……。僕と……一緒に、生きることを選んで。捨てちゃわないで。……一生で一度の、最後のお願いだからっ……」
切願するようにライカは声を張った。彼はきっと泣いているのだろう。小さな背中は少しずつだが、大きくなろうとしている。
それでも、リッカは首を縦に振らない。声を出す事が出来ないため、言葉を伝える方法がないのだ。
「──ば、かだなぁ」
そう声を漏らしたのは、リッカの脚によって身体を屋根上へと押し付けられているセプスだった。
彼の顔はすでに人間のものではないほどにおぞましく、そして真っ赤だった。
だが、そんな状態のセプスに対して、同情する気持ちが湧かなかったのは心の中で自業自得だと思っているからかもしれない。
「無理、だね……。君達のような醜い姿の奴を誰が、人間として受け入れると思う?」
まだ、舌は付いていたらしく、セプスは今までと同じように嘲りを含めた笑い声を口から血を零しながら告げる。
「化け物だぞ。魔物を知らぬ、人間から見ればお前らは化け物だ! ははっ……愚か者達の最期にふさわしい姿だ……! ああ、本当に、本当に愉快でたまらないね……!」
「何が……おかしい」
セプスの異様とも呼べる陽気な声に対して、ライカが細く鋭い声で訊ねる。
「おかしくて仕方がないさ! だって、君達はすでに化け物になっているんだぞ? 嘲笑を向けられ、迫害され、殺されるべく生まれたような存在だぞ! 魔力無しの中に入れば憎しみを込めた瞳で見られ、最期は忌むべきものとして殺される。たとえ、魔物に詳しい教団に連れて行かれたとしても、身体をいたぶるように幾度となく、そしてあらゆる実験を繰り返され、実験結果の情報を収集されるためだけに使われる。それならば、いっそ魔物として早く殺された方が、心身ともに楽で、簡単に死ねるからいいんじゃないかなぁ!」
一体どこに、それほどまでに流暢に喋ることが出来る気力が残っていたのかと思えるほどに、セプスはライカ達を貶めるための言葉を並べていく。
「ああ、本当にかわいそうだ。嘆く事になる前に早く殺してあげれば良かった! その方が君にとっても優しい選択だったというのに残念だったね、ライカ。君の未来はきっとこの先、永遠に真っ暗さ! リッカもだ。魔物である彼女を受け入れる? ははっ、無理だよ、無理! 彼女はすでにこんな姿であるというのに、まだ君は姉と呼ぶのかい? 本当に馬鹿なんだね! 今まで、学校で何を学んでいたのかな? 何も学んでいないんだろう? だって、君達の人生には何もなかった! 大きな変化を望まない、ただ受容するだけじゃないか! 受け入れるだけしか、知らなかった! それを! 僕が有効活用してあげたというのに!!」
セプスの声が響いていく。赤い血を吐きながらも彼は笑っていた。本当に、おかしくて仕方がないと言わんばかりに笑い声をあげながら、血と同じ色の涙を瞳から零していく。
……ああ、本当に愚かなのは、己が愚かだということにさえ気付かない彼自身だというのに。
アイリスはセプスの演説のような言葉を耳に入れながら、彼のことを完全に侮蔑するものとして見ていた。
もう、後戻りもやり直しもきかないセプスのことを憐れんでいるのかもしれない。彼は一体、どこで道を間違えてしまったのだろうか。
いや、きっとセプスのことなので、彼自身は己が通っている道は正しいものとして疑っていないのだろう。
他人から見れば、セプスの道は血と骨が無造作に広がっている狂われた道だというのに。




