冷静
「……アイリス」
短剣を念入りに消毒していたアイリスに、クロイドが再び話しかけて来たため、短剣の刃先を下に向けてからゆっくりと顔を上げた。
アイリスの左肩にクロイドがそっと右手を添えて、気付いた時には彼の顔がすぐ傍まで近づいて来ていた。
目を閉じる暇もないまま、クロイドから優しく重ねられる唇は小さく震えていた。
「……」
驚きよりも最初に心に浮かんだのは、何故か生きているという実感だった。クロイドは抵抗しないアイリスの唇を捉えたまま、更に噛み付くように重ねて来る。
唇越しに伝わる柔らかさと、左肩に添えられている手の温度。真っすぐ向けられてくる黒い瞳は夜の海のように揺らめいている。クロイドが抱く、全ての感情がこの口付けに込められていた。
魔物に寄生されたと知った時から、自分はかなり冷静だと思っていた。
だが、違った。自分は焦っていたのだ。感情が自暴自棄になり、焦っている中でどうすれば最小の被害で済むかを考えていた。
しかし、クロイドから伝えられる熱越しに、アイリスは大切なことを思い出す。
「アイリス」
唇を少しだけ離して、クロイドは言葉を紡ぐ。アイリスがたった今、思い出したことが彼の口から零された。
「……俺は君を信じている。だから、どうか……君自身に絶望して、自らの手で終わらせるようなことだけはしないで欲しい」
優しく、穏やかに呟かれた言葉の後、再びクロイドの唇が重ねられる。
何度も、何度も、そうやって確かめるように優しく触れられることで、アイリスの思考はやっと現実へと戻って来る。
「っ……」
それまでの自分は、どこかこの現状を他人事のように淡々と受け止めていた。ただ、魔物を剥ぎ取ることが出来ればいいと、それだけを考えていたからだ。
冷たくなっていた身体に、少しずつ熱の感覚が戻っていく。
一歩、後ろへと下がれば、それまで重ねていたお互いの唇がゆっくりと離れて行った。
クロイドから離れたアイリスを彼は最初、少しだけ驚いたように見ていたが、次の瞬間にはふっと息を漏らすように微笑んだ。
「……やっと、戻ったな」
安堵しているのか、クロイドが先程までとは違う、穏やかな表情で目を細めてくる。彼の瞳に映っている自分がどのような表情をしているのかは分からない。
それでも、つい先ほどまでの、心まで冷たくなっていた自分はどこかに行ってしまったようだ。
「なっ……。どうして……」
短剣を持ったまま、狼狽し始めるアイリスに対して、クロイドはまた一歩、アイリスへと近付いてくる。
「こうでもしないと、君には言葉だけじゃ伝わらないと思って」
穏やかな表情を浮かべているにも関わらず、クロイドは真剣な眼差しで自分を見つめて来る。その瞳に捉えられたと自覚してしまえば、アイリスの頬は少しずつ赤く染まっていく。
「俺は君に生きて欲しい。例え、君が考えている方法でしか、現状を打開する方法がなくても。……君に、生きて欲しいんだ」
アイリスはクロイドの瞳を見上げたまま、静かに息を飲み込む。
クロイドはアイリスが魔物に寄生されている現状を悲観しないようにしているのだ。本当の意味で、冷静さを取り戻させるために、彼は自分を現実へと無理矢理に引き込んだ。
その強引さに、思わず涙と笑みが出てきそうになる。
……やっぱり、敵わないわね。
クロイドの方が自分のことをよく理解してくれているらしい。彼の一歩のおかげで、自分はこれ以上、身を落とし込まずにいられたようだ。
冷静というのは、頭が冷え切っていることではない。冷静とは、通常と同じでいられることなのだろう。そういう面では、先程までの自分は冷静さが欠けていた。
「……クロイド」
一歩後ろへと下がっていた足を前へと出して、今度は挑むようにクロイドに強い意思を込めた視線を向ける。
「……ありがとう」
色が表われたアイリスの表情を見て、クロイドはゆっくりと頷き返す。
しかし、彼は何故かすぐに「黒き魔手」をはめた手をアイリスの方へとかざしてくる。
「……念のために防御魔法を君の身体にかけておいてもいいか?」
「え?」
「少しでも痛みを……和らげておきたいんだ」
どうやらそれだけは譲れないと言わんばかりに、クロイドの瞳に強い光が宿る。痛みには慣れているこの細い身体に、新しい痛みを与えたくないのだろう。
アイリスはクロイドの優しさに小さく笑って、頷き返した。
「それじゃあ、お願いしておくわ」
アイリスが了承するとクロイドはどこかほっとしたように頷き、そして両手をアイリスの身体にかざしながら防御魔法の呪文を唱え始める。
「――身に覆うは霧の鎧。纏うのは鉄より重きもの。吹き抜ける風はその身を守り、汝が盾となる」
クロイドの手袋から温かに感じられる温度が、少しずつアイリスの身体に纏っていく。
ある程度の攻撃を防いでくれるこの防御魔法が、どこまで通用するかは分からない。
出来るだけ、皮膚と寄生している魔物の間を叩き斬るように狙うつもりだが、位置がずれてしまえば、自らを傷付けかねないだろう。
アイリスがクロイドに目配せすると、彼は唇を噛みつつ、ゆっくりと後ろへと下がっていく。
準備は整った。心も穏やかさで満ちている。短剣を持つ手は先程クロイドから与えられた優しさによって、しっかりと温められていた。
恐れるものなど、もう何もない。
アイリスは深呼吸する。繰り返す呼吸を一つ、二つ――そして、心を落ち着けて、短剣の柄を強く握りしめ直した。
自分が持つ全ての感覚を、短剣を持っている手と腹部に集中させる。
その間に、クロイドは何度か唾を飲み込んでいるようだ。もしかすると、当の本人よりも緊張しているのかもしれない。
一度、目を瞑り、アイリスは斬り方を想像する。真っすぐと薙ぐ一閃をより具体的に描くために。
「……ふっ」
最後に息を一つ吐いて、呼吸を止めたアイリスは――短剣を腹部に向けて振り下ろした。
想像したのは、大木の皮を分離して剥ぎ落す光景。
アイリスは自身の腹部に沿って、留まることなく刃を腹部と魔物の境目を分かつべく、一閃を薙いだ。
瞬きすることなく、自分で手にかけるものをしっかりと瞳に焼き付けた。
アイリスの短剣は滑らかに、腹部と魔物の内側を密接に繋いでいた間へと留まることなく貫き通っていく。
クロイドによる防御魔法のおかげなのか、アイリスの短剣は腹部を沿っても傷一つ付くことなく、魔物の内側の断面と張り付いている脚、突き刺さっている針を一瞬にして分離させていった。
「っ!」
最初に耳に入ってきたのは、黒い魔物が床に軽い音を立てながら落ちた音だった。魔物の身体は綺麗な程に、針と脚が途中で切断されていた。
アイリスは右足を一歩、後ろへと下げて、自分の腹部へとゆっくりと視線を向ける。
腹部にもう、黒い魔物の姿はない。ただ、そこにあるのは綺麗に切断された魔物の針と脚が張り付いているだけで、アイリス自身の身体は傷一つ付いていなかった。
自分の右手に命を懸けて、そしてその賭けは見事に勝ったのだ。
「アイリス……」
驚きと安堵に満ちた声色でクロイドが名前を呼んだため、アイリスは視線を上へと向ける。
クロイドに応えるように、アイリスは口元を緩めて、勝ち誇ったような笑みを浮かべ――身体をゆっくりと前のめりに倒していく。
「アイリスっ!」
クロイドが自分の名前を呼ぶ声を遠くに聞きながら、緊張の糸が切れたアイリスの意識は再び深く、遠くの淵へと落ちていった。




