耐え忍ぶもの
ふっと、イリシオスは真剣な眼差しをブレアへと向ける。
「ブレア。お主に、魔力制御の解除を命ずる」
「――はい」
イリシオスの命令に、ブレアは鼻にかけていた眼鏡をすぐに外して、鉄製の眼鏡入れへと仕舞い込んだ。
彼女がかけていた眼鏡はただの眼鏡ではない。度が入っていない眼鏡は伊達眼鏡で、しかも彼女自身の魔力を制御し、普通の魔法使いと同じくらいの魔力の量に抑えておくための魔具だ。
ブレアが眼鏡を外した途端、彼女がそれまで魔具で抑えていた魔力が顕現したように、周りの空気が冷めていく。
ブレアの黒茶色の瞳は魔力制御を解除されたことで、青く発光するような瞳へと変わっていた。この瞳こそ、彼女本来の瞳の色だ。
「いつ見ても、お主の『魔視眼』の眼光は鋭いのぅ」
「……恐れ入ります」
普段のブレアが眼鏡を自らの意思で外すことはほとんどない。魔具である眼鏡「遮魔鏡」を作ったのはイリシオスで、そして常にかけておくようにと命令したのも自身だ。
「……魔力は見えるか」
「……」
イリシオスの問いかけに、ブレアは何かを確認するように周囲を見渡していく。
ブレアが持つ「魔視眼」は感覚として感じ取ることが出来る魔力を「視覚化」して視ることが出来る世にも珍しい瞳だ。
恐らく、それは彼女の魔力が高すぎることが、視覚に大きく影響したため、偶然にも備わった力の一つとして考えて良いだろう。
もちろん、この魔視眼はブレアが生まれた時から備わっていたものではない。彼女が成長するにつれて、魔力も急激に高まり、彼女が10代の頃に付け加えるように備わった力だった。
力が急に備わったブレアは最初の頃は魔視眼を持て余していたが、教団に入団するや否やその力を完璧に使いこなしつつ、魔物討伐課で活躍するようになっていた。
ただ、欠点があるとすれば、魔力を制御する遮魔鏡を外したまま長時間過ごせば、身体のうちに宿る膨大な魔力がブレアの意思に関係なく溢れ出る場合があった。
それだけでなく、魔力を視覚化出来る魔視眼は使い過ぎると、かなり身体に負担がかかり、貧血のような状態が起きて倒れることもあった。
そのため、ブレアは決して己の意思で遮魔鏡を外すことはない。大事な用がある時以外は、全てイリシオスの指示で外すようになっていた。
「……壁向こうに大きな魔力の塊が見えますが、あれは教団の団員達が持つ魔力ですね」
そう言いつつ、ブレアは青く光らせた瞳を別方向へと持って行く。彼女の魔視眼は壁向こうを透かすだけではなく、ある程度の範囲内の魔力を視覚として受け取ることが出来るのだ。
だからこそ、受け取る側の精神と体力にも大きく影響を及ぼすのである。
「他にも教団内で点々と見える魔力は……団員達のもののようです。それ以外の小さな魔力反応は対峙している魔物のものかと。……それ以外の魔力は見えないですね」
「ふむ……。悪魔の魔力が見えぬということは、それなりに上手く身を隠しているか、それとも魔力を察知されないように魔法を施しているのじゃろうな」
ブレアの魔視眼にさえ、悪魔の魔力が映らないということは、相手がそれなりの魔法の使い手だということが分かる。
己が持つ魔力の気配を覚られないように消す魔法は高度だが、難しいわけではない。教団では任務の際に魔力の気配を抑えるために専用の魔具を装備したり、魔法をかけることで気配を消している。
だが、それもブレアの魔視眼の前では丸裸も同然とされていた。
「……ただの悪魔ではないということじゃな」
知っている悪魔はほとんどが、自己顕示欲が強い者ばかりだった。しかし、今回教団に侵入している混沌を望む者は姿を現さずに静かに教団内を移動しているようだ。
……まるで、密偵のようじゃ。
教団には漏らしてはいけない情報で溢れている。もし、その情報を悪魔がこっそりと収集に来たというならば、すぐにでも撃退しなければならない。
「ブレア。使い続けるのは、辛いかもしれぬが暫くは魔視眼で悪魔の動向を探っていてはくれぬか」
先手ばかりを取られるのは性に合わない。悪魔の動きを把握しておかなければ、施す手が遅れてしまうだろう。
「遮魔鏡を外していても自身の魔力を抑えられるように鍛えてきましたから、そこはご安心を」
「……無理はするなよ」
イリシオスの瞳がすっと細められるとブレアは分かっていると言わんばかりに強く頷き返す。
「それで、お主は魔物討伐か悪魔捜索の方に出る気はないか?」
「ないです。……私が先生の元へ参ったのは、あなたをお守りするためですから」
ブレアは腰に下げている長剣の柄にそっと手を触れつつ、更に瞳を細める。
イリシオスにとって最後の弟子であるブレアはいつも、イリシオスの身を案じていた。
魔力を失ったイリシオスの剣であろうとしてくれる気持ちは嬉しいが、ブレアに無茶をさせていないかたまに不安になってしまう。
「この教団で最も強固とされる結界の中に身を置いていても心配か」
「……何が起きるか最後まで分からないのが魔法の鉄則だと仰っていたのはイリシオス先生ですよ」
ブレアがいつもの調子で唇を尖らせつつ、子どもが拗ねたように小さく呟く。
自身がずっと昔に言った言葉を言い返されるとは思っていなかったイリシオスは一瞬だけ固まってから、すぐに破顔した。
「ふぉっふぉっふぉ。それもそうじゃな。……何が起きるのか、どう転がるのか分からぬのが魔法じゃな。それはどれ程の月日が経っても一つとして変わらぬ定義じゃ」
強固なる結界と、スティアート家当主に与えられる刃の名を持つブレアが傍に居れば心配することはないだろう。
彼女は魔視眼だけでなく、教団の名のある剣士達を凌駕する程の剣の腕前を持っている。
「――ブレアよ。お主の剣と瞳で、我が身を悪魔から守ってみせよ」
「承知いたしました」
悪魔がどのような目的で教団に侵入し、いつまでその身を潜ませる気でいるのかは分からないため、この攻防は長期戦になりそうだ。それでも、相手が優位となるものを渡す気は更々ない。
逃げだと言われれば、逃げているうちに入るのだろう。
守られてばかりで、情けない総帥だと自分でも思っているが必要なのは自嘲ではない――忍耐だ。
「もし魔法課が、わしが持つ魔法の知識を必要としている場合は遠慮せずに言って欲しいと伝えてくれ。寄生する魔物など、前代未聞じゃからのぅ」
「分かりました。そのように伝えておきます」
ブレアは一度、魔法課への伝言がてら、自分達がいる塔の結界の強度を更に強めるべく、イリシオスの部屋から出て行こうとしていた。
「……ブレア」
イリシオスに急に呼び止められたブレアは再び身体を向き直らせて、真っすぐと視線を向けて来る。
「何でしょう」
「この戦い、粘るぞ」
その一言で、ブレアは全てを理解したらしく、強く頷き返した。
「それでは少しの間、失礼します」
「うむ。お主も気を付けるのじゃ」
塔に張り巡らされている防御の結界は、正規の道順で廊下を通らなければ塔内部に入れないような仕組みになっていた。
もちろん、転移魔法陣が使えるからと言って、外からの侵入を簡単に許すような容易い魔法ではない。ブレアが少しの間、傍に居なくても平安は保たれるだろう。
ブレアが扉の向こう側へと行った後、イリシオスは深い溜息を吐きながら、自身の身体に合わせて作られた古びた椅子に腰かける。
「全く、ブリティオンめ……。何を考えておるのじゃ……」
海をまたいだ大国、ブリティオン王国。そこには未だに、神秘と疑惑に包まれた魔法使い達が集まった組織が存在している。
『永遠の黄昏れ』にはどんな魔法使いがいるのか、こちらに情報が入って来ることはない。
ただ、お互いに不可侵でいることを暗黙の了解としていた。どちらかが、相手の国を攻め入るようなことをすれば、今まで平静を保ってきたこの均衡が崩れると分かっているからだ。
……ブリティオンが今更、教団が所有する魔法を求めているとは思われん。やはり、奴らの目的はわしか……?
だが、限られた情報の中で考察しては、教団を派手に襲った真の目的が見えなくなってしまいそうだ。
この襲撃に裏が隠れているというならば、安易に先入観を持って考えることは止めた方がいいだろう。
薄く目を伏せて、イリシオスは小さな手を合わせて、指と指を重ねるように組んだ。まるで、何かに祈るように組んだ両手を胸の前へと持って来る。
……頼む。どうか、どうか……一人の犠牲も出ることがないまま、平穏を――。
教団に属しているにも関わらず、神というものを深く信仰したことはない。信じるのは自分と、そして自分が信じているもの達だけだ。
死ぬことを拒絶され、何も出来ることが無いまま、ただこうして祈ることしか出来ない。
嘆いてはならない。自分が身を置く場所は「嘆きの夜明け団」だ。
夜明けを求めて、自分自身と戦い、進み続けて来た者達がいる場所だ。
「……皆の者よ、どうか……負けないでくれ」
一言、深い感情を込めた言葉を呟き、イリシオスは両手を組んだまま、窓の外に広がる空へと視線を移す。
耳に入って来る、遠くから聞こえる叫びにも近い声に、ただ唇を噛み締めて、ぐっと押さえ込むように耐え忍ぶしかなかった。
このたび、「真紅の破壊者と黒の咎人」が120万字を突破致しました。
いつも読んで下さる方々のおかげで、ここまで書き続けられました。
本当に、本当にありがとうございます。
次は130万字突破を目指して頑張りたいと思いますので、宜しくお願い致します。




