安息の眠り
間合いを一気に詰めたアイリスとジャスの距離はすでに50センチ程まで迫ってきていた。
……止まれないっ!
だが、加速していた足を急停止するにはもう遅く、頭で考えるよりもジャスとの距離が縮まる方が早い。
ジャスの右手首に着けられた腕輪が、彼の魔力が込められたのか淡く光り始める。それでも彼の唇が動くことはないので、無詠唱による魔法が放たれるのだと瞬時に覚っていた。
「っ!」
ジャスはもう目の前だが、この距離で咄嗟に避け切れるだろうか。どうするべきか、とたった1秒の間にアイリスは考えを巡らせる。
その時だった。
「――透き通る盾!」
鋭い声が響くと同時に、アイリスとジャスの間に透明な壁が瞬時に形成されたのである。
アイリスは突如として現れた結界に短剣を所持していない方の掌を触れさせたが、急停止が間に合わず、透明の壁に向けて額を軽く接触させてしまう。
その一方で、アイリスとの間に結界が形成されているにも関わらず、次の瞬間にはジャスによって、攻撃魔法が繰り出されていた。
腕輪に魔力が込められたことで、ジャスからアイリスに向けて炎の玉が放たれる。
しかし、クロイドがアイリスを守るべく咄嗟に出現させた結界に直撃すると、その炎は壁を伝うように横に広がり、霧散していった。
「――下がれ!」
「っ!」
クロイドの声が聞こえたと同時にアイリスはジャスとの間隔を空けるために大きく後ろへと飛び下がった。ジャスとの距離を5メートル程開けてから、アイリスは息を整えるために深呼吸する。
本当に危ないところだったが、クロイドの咄嗟の判断と魔法のおかげで助かったようだ。
「……助かったわ、クロイド」
アイリスが肩越しにクロイドに向けて視線を送ると、彼は安堵したように深い溜息を吐く。
どうやらジャスから魔法が放たれると先に気付いたクロイドが右手で負傷した団員に治癒魔法をかけつつ、左手でアイリスを守るための結界を築いてくれたらしい。
「躊躇わずに突っ込むのは君の良いところでもあり、悪いところだ。……気を付けろよ」
「……分かっているわよ」
そう返事しつつも、今の突撃は自分にかなり非がある突撃の仕方だった。もっとちゃんとジャスを観察していなかった証拠だ。気を取り直すようにアイリスは短く息を吐く。
「ついでに、私とこのジャスって人を広範囲の結界で囲んでおいてくれる? 今みたいに魔法を使われて、どこかに被害が出たら意味が無いわ」
「分かった。だが、君が危ないと思ったらすぐに加勢するからな」
自ら逃げ場がない場所を求めていることに、クロイドはあまり賛成出来ないという声色で答えるも、状況的には仕方がないと思ったらしい。
すぐにクロイドによって、アイリスとジャスの2人だけを囲む広範囲の結界がその場に展開される。
「大丈夫よ。次は……仕留める」
息を整え直したアイリスは短剣を軽く横に薙いでから、気合を入れ直す。それが合図となり、アイリスとジャスの間に先に築かれていた結界をクロイドはすぐに解いた。
……隙があるとすれば、魔法を放つ前か放った後だわ。
アイリスは右足の靴の踵を三回、地面を叩くように鳴らす。そして、ジャスが魔法を放つよりも先に、一気に距離を詰めるために駆けだした。
脇目もふらずに突っ込むアイリスに対して、ジャスが無表情のまま右手をかざしてくる。魔法を放つために、腕輪に魔力を込め始めたのか淡く光り始めていた。
……来る!
ジャスとの距離を1メートル程まで詰めたアイリスは、彼の手から魔法が放たれる前に、地面を強く蹴った。
ふわりと浮かんだアイリスの身体は空中で前転をしながら、立ったままのジャスをまたいでいく。
アイリスが跳躍したと同時にジャスも右手から魔法を放っていたが、その魔法はアイリスに触れることなく、自分達を囲んでいる結界の壁に直撃しては霧散していった。
ジャスの真後ろへと着地したアイリスはそのまま身体を振り返らせつつ、右手に掴んでいた短剣の柄を迷うことなく離した。ゆっくりと短剣が地面に刃を立てるように落ちていく。
その間に、獲物を逃がしたジャスは視線を追って、アイリスの方へと振り向こうとしていた。
彼よりも先に動いていたアイリスは躊躇うことなく、こちらへ振り返ったジャスのみぞおち目掛けて、自身の右肘を突き刺すように押し込んだ。
「っ……」
ジャスの口から、彼の呻き声らしきものが零れる。魔物に寄生されていても痛みを感じるらしく、アイリスから攻撃を受けたジャスの表情は大きく歪んでいた。
一歩だけ、歩を進めたジャスは前のめりになりながら、一度地面に膝をつけて、ゆっくりと倒れる。アイリスの一撃が効いたのか、ジャスは目を瞑ったまま気絶していた。
「……」
地面に横たわるジャスの姿を見て、アイリスは短く息を吐きつつ、手放していた短剣を拾い上げて、鞘へと収めた。
周りを見渡せば、皆がやはり安堵したような表情を浮かべている。一時的にとは言え、これでジャスが暴れることはないだろう。
アイリスがちらりとクロイドの方へ視線を向けると、彼は頷き返し、すぐにアイリス達を広範囲に囲っていた結界を解除してくれた。
「……助かった。ありがとう」
結界が解かれてすぐに、ジャスの仲間2人がアイリスの元へと駆け寄って来る。彼らの安堵した表情はこれで仲間に剣を向けずに済むと語っていた。
「まだ、安心は出来ないわ。とりあえず、寄生している魔物に注意しながら、医務室まで――」
医務室まで運ぼう、そう告げようとした時だ。
倒れていたはずのジャスの右手がぴくりと動き、ゆっくりと身体を起こし始めたのだ。
「なっ……」
さすがのアイリスもジャスの復活に驚きの声を上げてしまう。自分は確かにジャスを気絶させたはずだ。
しかし、目の前で立ち上がろうとしているジャスは足をふらつかせつつも、小さな呻き声を上げながら、両足で立ちあがっていた。
「なん、で……」
ジャスの仲間の1人が呟き、一歩後ろへと下がる。アイリスさえも何故、一瞬しか気絶が効かなかったのだろうと、自身の目を疑っていた。
だが、悩んでいる暇はない。ジャスが魔法を放つ前に、彼の腕輪を奪い取った方がいいだろうとアイリスが間合いを取りつつ、接触する瞬間を窺う。
再び、緊張という名の冷たい空気が張り詰める中、一つの声がその場に響き渡った。
「――束縛せよ」
クロイドによって発せられた束縛魔法の呪文が、動き始めようとしていたジャスの身体を捕らえていた。
クロイドの表情は苦いものを食べているように顰められており、手袋をはめている左手だけで次の呪文を繰り出す。
「安息の眠り!」
縦線を描くようにクロイドは左手で一閃を薙いだ。彼がかけた魔法がジャスにしっかりと効いたのか、ジャスは再び瞼を閉じていく。
「――解放せよ」
ジャスが眠ったことを確認してから、クロイドは束縛魔法をすぐさま解いた。束縛魔法によって動くことのなかったジャスの身体は今度こそ、魔法によって意識を失ったらしく、身体の中心をゆっくりと崩しては、地面の上へと倒れていく。
アイリスが耳を澄ませてみると、ジャスからはやっと穏やかな寝息が聞こえて来た。どうやらクロイドが放った睡眠魔法によって完全に眠っているらしい。




