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悪夢

 

 暗い闇の中を幼い姿のアイリスは走っていた。

 通り過ぎていくはずの景色は暗いままで、不安がさらに募っていく。


 ただ、真っ暗なだけで、何も見えない。

 まるで、自分の心の中のようだ。


 後ろから追いかけてくるのは、金色の目をした大きな影。

 家族を殺した魔犬(まけん)だ。

 噛まれたら一瞬で命を落とす程の大きな牙。人間を平伏させるには造作もなさそうな大きな手足。


 嫌だ。

 怖い。

 誰か助けて。


 そう叫んでも、その声は闇へと溶けて消えてしまう。


 助けて、助けて。

 誰か。

 誰か。


 しかし、そこで自覚する。

 誰もいないのだ。自分を助けてくれる人は。

 

 ・・・・・・・・・・


 あと一歩で魔犬の影に捕まりそうになった瞬間、アイリスは夢の中から目覚めると同時に、身体を勢いよく起こした。


 周りを見渡せば、見慣れた自室ではないことを認識し、こちらに背を向けて眠っているクロイドの姿が視界に入って来る。


「……」


 アイリスはゆっくりと思考を動かし、この部屋が孤児院で借りている一室であり、そして現実であることを自覚すると安堵するように息を吐いた。

 視線をそのまま窓の外へと向ける。まだ月は空に高く上ったままで、朝が来るには早すぎる時間だ。


「……っ」


 しかし、安堵するのもつかの間、脳裏に過ぎったのは、魔犬によって無残に殺された家族が横たわる姿だった。


 アイリスは咄嗟に両手で口を押えて、込み上げてくる感情を声に出さないようにと押し殺す。

 隣のベッドで寝ているクロイドを起こしていないか心配だったが、彼がこちらの動きに反応して、微動する事はなかった。


 魔犬に関する夢を見るのは久しぶりだった。孤児院で子ども達と触れ合い、笑い合ったことで暖かい気持ちになっていたからかもしれない。

 失くした穏やかな未来と重ねてしまったのだろう。


 忘れたわけではない。

 自分の家族が喰い殺されたあの日を。

 いつか絶対に魔犬を打ち倒すと決意したあの日を。


 自分に甘えはいらない。

 分かっているはずだ。


 本当の生きる目的を思い出させるためにこの夢を戒めとして見たのだろうか。

 もし、そうならばあまりにも都合が良すぎる。


 アイリスは自嘲するように口元を緩めた。


 ただ魔犬に復讐するために、なりふり構わず突き進んできた。

 今の自分がここにいるのも、その結果だ。


 分かっている。

 大丈夫だ。

 自分の生きる意味を忘れてなどいない。

 この胸にしっかりと刻んでいる。


 それでも。


「……ぅ……っ……」


 アイリスは布団に顔を押し付けて、声を出さずに涙を流し始める。

 込み上げる感情に押し潰されそうになったとしても、自分の生きる目的はたった一つ。


 ――家族を食い殺した魔犬を必ずこの手で殺す。


 悲しみよりも込み上げてくるのは怒り。

 それだけが自分の生きる糧となる。


 忘れてはいけない。

 忘れることなど出来ない。


 魔犬を殺すために、自分は生きているのだから。



 だが、重い何かを背負うには小さすぎる背中に、自分について語る全てを知っている者はここには居ないのだ。


 きっと、これからも居ないまま、現れないまま、自分は一人で立ち続け、そして生きていくしかないのだから。



・・・・・・・・・・



「……」


 何かの気配を感じたクロイドは、本当はアイリスが起きた瞬間には目が覚めていた。それでも、微動しなかったのは、アイリスを気遣ったからだ。


「……ぅ……っ……」


 漏れるように聞こえてきたのは、むせび泣く声。

 勝気で明るいあのアイリスが密かに泣いているのだと知った時、どうしようもない感情が身体を駆け巡っていった。


 ……何故、泣いているんだ。


 すぐ傍で、アイリスが泣いている。

 いつもは明るく、誰かに弱みを見せることのない真っすぐな彼女が、夜に一人で泣いているのだ。


「……」


 動きたくても、傍に駆け寄りたくても、自分にはそれが出来なかった。


 夜に一人で泣くということは、誰かに涙を見られたくないからだ。

 だから、アイリスは自分が寝ている間に静かに泣いているのだ。


 それでも時折、彼女の口から零れる声に胸の奥が震えてしまう。

 この手をすぐに伸ばすことが出来れば、どんなにいいだろうか。


 ……許されるものか。だって、俺は――。


 アイリスにはまだ、自分の秘密を明かしていない。その罪悪感で胸の奥が締め付けられていく気がした。


 どれくらい経っただろうか。

 先程まで泣いていたアイリスから、やがて軽やかな寝息が聞こえ始めて来る。


「……」


 クロイドはそっと確認しようと、反対側へと寝返ってみる。

 視界に映ってきたのは、ベッドのすぐ傍にある壁にもたれるように眠ってしまったアイリスの姿だった。


 恐らく、泣いていた途中で意識を手放してしまい、壁を背もたれにしたまま寝てしまったのだろう。

 そのままの体勢を長時間続ければ、明日の朝には身体の節々が痛んでいるに違いない。


 クロイドは物音を立てないようにとベッドから降りて、寝る直前にアイリスから入って来ないようにと念押しされた部屋の境界線を静かにまたいだ。


「……」


 寝ている女子の顔をこっそりと見るなんて、失礼にも程があると思うがそれでも気にならないわけがない。もちろん、不純な理由としてではなく、相棒として気になるのだと心の中で自らに言い聞かせる。

 

 アイリスの目元に薄っすらと残っているのは涙だ。その涙に隠されている、彼女の弱さを自分はまだ知らずにいる。


 ……秘密を言ってしまえば、きっと俺は君を傷付ける。


 唇を噛みつつ、クロイドはアイリスに手を伸ばす。

 本当なら、この手は彼女に伸ばしていいものではない。


 それでも伸ばさずにいられないのは、普段は凛としているアイリスの秘めた弱さに触れてしまったからだろう。


 クロイドは壁にもたれたままのアイリスの両肩をそっと掴むと、出来るだけ起こさないように注意しながら、ベッドの上へと横たえた。


 柔らかい肩は小さく上下に揺れている。この細い身体で、彼女はこれまで一体何に耐えて来たのだろうか。


 しかし、それ以上を考えることはせずに、クロイドはアイリスの上に布団をそっとかけなおす。


「……ぅ」


 アイリスが短く唸り、眠っているにも関わらず、眉を大きく内側に寄せていた。もしかすると、悪夢でも見ているのかもしれない。

 このような時、どうすればいいのか分からないクロイドは少しだけ思案し、そして右手をアイリスの頭へとそっと載せた。


「……」


 人を撫でるようなことを普段の自分ならしないだろうし、する機会もない。ただ、何となく撫でなければならない気がしたのだ。


 右手に伝わって来るのは、優しく柔らかな感触だった。

 アイリスの金色の髪をそっと撫でていけば、その心地よさが夢の中にまで伝わっているのか、アイリスの表情が少しずつ穏やかなものへと変わっていく。


 ……もう、大丈夫そうだな。


 正直、撫でただけで寝ている相手の感情が和らぐとは思っていなかったが、それでもアイリスの穏やかな表情を見たクロイドは安堵の溜息を吐いた。

 そして、ゆっくりとアイリスの頭から手を離していく。


「……おやすみ」


 もちろん、返事が返って来ることは無い。ただ、安らかな寝息だけが静かに等間隔で奏でられているだけだ。


 ……いつか、言えるだろうか。


 優しい彼女を傷付けてしまうと分かっているのに、自分の秘密を話してしまえば、アイリスも自分を冷たい目で見て来るかもしれない。

 それが堪らなく恐ろしいのだ。


 今までの自分なら、誰かから鋭い目で見られようと、冷たい言葉を吐かれようと平気だったのに、アイリスだけにはされたくないと思ってしまう自分がいた。


 ……馬鹿だな、俺は。だから、関わりなんて……。


 自嘲の笑みさえも浮かべられないまま、クロイドは口を噤み、アイリスに背を向けた。

 自分のベッドに戻ろうと足を進める途中で、窓の外から射し込んでくる月明りが床を照らしていることに気付いたクロイドは一度、足を止めた。


 そして、視線をゆっくりと、空に昇る月へと向けた。


「……あと、八年か」


 月を見ながら静かに零れた呟きは、諦めと悲観が混じっていた。

  

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