眼鏡と筆
思わず、感嘆の溜息が出そうな程に広い国立図書館は、自分達しかいないため、本を捲る音も、本を配架する音も何も聞こえない。
ただ、自分の足音だけがそっと響く。
「うーん……。こっちのはずなんだけれど……」
アイリスは魔力探知結晶を片手に魔具「飛鳥本」を探しているが、方向を示してくれても、正確な位置までは分からなかった。
何故ならここは図書館で、しかも同じような背表紙の本がずらりと並んでいる。この中に、魔具だが本である見た目を持つ飛鳥本を見つけるは中々難しいだろう。
「アイリス」
名前を呼ばれてアイリスが振り返るとクロイドが少し得意げな表情でそこに立っていた。その手には一冊の本がしっかりと抱かれている。
「えっ? もう、一冊見つけたの?」
「ああ。……寝ているのか、全く動かなかったから、すぐに捕まえられたんだ。今は動かないように静止の魔法をかけている」
アイリスはじっとクロイドが手に抱えるように持っている本を見つめる。
藍色よりも少し濃い色合いの表紙で、少し古びているように見えた。背表紙には「春来る燕」と金色の字で書かれていた。
「これが飛び回るってことよね? 不思議な魔具を作る人もいるものねぇ……」
「観賞用に作られたって先輩達が言っていたよな。これを飛ばせて、眺めていたってことだろうか?」
「うーん……。まぁ、私達が今考えても仕方がないわ。とりあえず、探しましょう。……この辺りに魔力反応があったから、隠れていると思うんだけれど……」
その時、後方からわっと声が上がった。正確に言えば、今の声はナシルだろう。アイリスとクロイドが顔を見合わせて、声がした方へと早足で駆け寄った。
図書館では走ってはいけない、という決まりを律儀に守りつつも、空を飛ぶ本を早足で必死に追いかけているナシルがいた。
その後方には、追いかけることをほぼ、諦めているミカが疲れた表情で付いてきている。
「あっ! 二人とも、丁度良かった! そいつ、捕まえて!」
「えっ? えぇっ!?」
そう言われても、頭上を飛ぶものを捕まえる方法など、魔法くらいしかない。さらに、ここは三階部分まで吹き抜けになっている。簡単には手が届かない場所まで飛鳥本は表紙を広げて飛んでいた。
「あぁ、もう、ミカ! しっかりしなよ!」
「俺もう、無理~。体力ないの、知ってるでしょ~」
体力を使い果たしたのかミカはその場に腰を下ろしてしまう。
「あんなところ……もう、届かないんじゃ……」
「攻撃魔法だったら、届くんだけどねぇ。さすがに静止魔法はもう少し近くに行かないと効果がないから……」
「全く、ナシルが手当たり次第に、本に触り過ぎたから、こっちの動きが見つかっちゃったんだろうー? もう少し、落ち着いて調べないとさー」
「ミ~カ~? そういうあんたは別の本を読んでいたじゃないか~?」
ナシルはやっと追いついたミカのこめかみ辺りを両手の拳でぐりぐりとえぐるように押し付けた。
「いたたっ……。ちょ、俺の脳が潰れる……。……ナシルの脳筋」
「何だと~?」
ぼそりとミカが言った言葉が聞こえたのか、ナシルは更に拳の力を強めている。こうやって見ていると、ミカがかなりの童顔なので、ナシルの弟にも見えなくはない。
ふっと振り返るとクロイドも難しそうな表情で、天井近くを浮遊するように飛んでいる本を見ていた。何か、いい案はないだろうかとアイリスは周りを見渡した。
ここでは本や建物を傷付けるような武器や魔法は使えない。それなら、使えるのは自分のこの身体だけだ。そして、アイリスは自分の足元も見て、何かを決心する。
「私、ちょっと三階まで行ってくるんで、皆さんはここに居て下さい」
「え? 何する気……」
ナシルの声に背を向けて、アイリスは早足で三階まで続く階段へと向かった。一気に階段を駆け上がり、三階の吹き抜けになっている廊下へと向かい、欄干に手をかける。
下を見ると一階で頭上を見上げている三人の姿が目に入った。
「おーい、何をする気なんだい?」
下からナシルが叫ぶように訊ねてくる。
「ここからなら、本に届くかなと思いまして」
アイリスはじっと、旋回し続けている本と自分の現在地の距離を目測した。現在地から4メートル先といったところだろう。
「えぇっ!? まさか、そこから飛ぶ気かい!? いやいや、危ないよっ!」
ナシルは驚いたのか、目を丸くして、手を必死に横で振っている。
「君が身体を鍛えているのはブレアさんから聞いているけど、さすがに高さ3階だよ? 怪我するよ?」
「あの私、高く跳躍することが出来る靴を履いているので、もし捕まえるのが無理だとしても着地を失敗することはないと思います。……あ、でも、その辺りに着地しそうなので、後ろに下がっていて下さい」
「えぇ……?」
「下がりましょう、先輩」
どうやら、クロイドはアイリスの案に賛成のようだ。先輩二人を少し、後ろへと下がるように促してくれた。そして、離れた場所から改めて、アイリスの方へと振り返って、声を張る。
「アイリス。十分に気を付けろよ」
「了解」
アイリスは靴の踵を三回叩き、欄干の上へとひょいっと上るように立った。そして、勢いよく欄干を蹴り上げて、空中へとその身を放るように飛び出した。
跳躍は十分だ。アイリスは飛鳥本へと手を伸ばす。アイリスの存在に気付いた飛鳥本はすぐに逃れようと方向転換したが、それよりも早かったのはアイリスの手だった。
逃げ場がないようにと、両手で本をしっかりと捕まえ、アイリスは一回転してから一階の床の上へと優雅に降り立つ。
三階の高さから降りたというのに、身体に負荷はかからず、改めて「青嵐の靴」の凄さを実感した。
「おぉ~!」
床に着地したアイリスのもとへ、ナシルが駆け寄りつつ、拍手をしてくれた。
「凄いねぇ! いやぁ、さすがはブレアさんの弟子と言ったところかな」
「よくあんな場所から飛び降りられるなぁ。俺だったら、絶対無理。運動神経ないもん」
感心したようにミカも何度も頷いている。
アイリスの両手の中では、飛鳥本がどうにか逃げようと表紙をばたつかせて、もがいていた。その表紙は漆黒という言葉が似合うほど黒く、背表紙には金色の文字で「嵐の濡れ鴉」と書かれていた。
「とりあえず、ありがとうね。助かったよ」
小さく笑ったナシルはアイリスから本を受け取ると、眼鏡の縁に軽く指を当てる。
「――『記録の瞳』」
良く見ると、ナシルの眼鏡のレンズが淡く光っているように見える。
「記録……静止の魔法……。――発動」
瞬間、ナシルの足元に魔法陣が出現し、ナシルが手に持っている本に吸い込まれるように消えていく。
すると、それまでもがくように動いていた本は動きをぴたりと止め、普通の本のように微動だにしなくなった。
「はい、これで大丈夫」
「ナシル先輩、今のは……?」
「あ、これ?」
ナシルは自分の眼鏡を指さす。
「これは『記録の瞳』という魔具でね。一度記憶した魔法陣を一瞬で再現してくれるんだ。ちなみに、文章や絵も記録可能な優れものだよ」
「それは凄いですね……。こんな魔具、初めて見ました」
「まぁ、私専用に作った魔具だから、他の人で同じようなものを使っている人はいないからね」
「えっ? 先輩が作ったんですか?」
「そうだよ」
何でもなさそうにナシルはそう言っているが、若くして自分に合う魔具を作れる人はそうはいないだろう。アイリスは感心しながらも、その眼鏡をじっくりと観察した。
「何というか、私とミカは運動が出来る人間じゃないからね。剣も扱えないし、杖を振るよりも、ひたすら魔法書を捲っている方が性格に合っていたんだ」
「それでも任務はやらなくちゃいけないからね」
ひょいっとナシルの後ろからミカが顔を出す。
「ちなみに俺の魔具は『記憶の筆』という万年筆だよ」
ほらと言って、ミカが取り出したのはどこにでもありそうな黒の本体に金の文字が彫られた万年筆だった。
「俺の場合はかけたい魔法……例えば、『静止』や『浮遊』といった文字を対象に向けて、空中に書き込むことで魔法が発動するんだ。これも、ナシルと一緒に作ったんだよ。まぁ、魔法の発動範囲はそんなに広くないから、さっきみたいに空中で遠すぎる対象には効かないんだけどねぇ」
「それじゃあ、お二人は『魔具職人』の資格もお持ちで……」
「一応、持っているよ。まぁ、この魔具を作った以降は作ってないけどね」
ナシルは苦笑して、肩を軽く竦めていたが、アイリスは驚きと尊敬でつい、目を瞬かせてしまう。クロイドも、同じように思っているのか、目を丸くして先輩二人の魔具を凝視していた。




