従順魔法
自然の目覚めとは言い難い、目の覚め方にアイリスは夢だったら良かったのにと何度思ったことだろうか。
「……」
昨日、見た天井と同じまま。これは紛れもなく現実だ。だが、昨日と違うのは、手足に感じる違和感が別のものに変わっていることだろう。
「……お目覚めかしら」
女性の声が突然聞こえ、アイリスは思わず身体を起こそうとしたが、それは途中で引っ張られるようにベッドの上へと戻される。
「あぁ、無理に動かない方がいいですよ。鉄製ですから、痕になってしまいますわ」
その声の主が自分の視界へと入って来る。黒い服に白いエプロンを付けているメイド姿の女がくすくすと笑いながら、アイリスの傍へとやってくる。
昨夜、ジーニスが言っていたメイドとは彼女のことだろうか。
「……」
だが、アイリスはそれよりも確認したいことがあった。
昨日とは違い、両手は一つに縛られてはいないが、今度は何か枷のようなものに手と足の自由が奪われている気がしたのだ。
試しに腕を引くが、鎖の擦れる音が聞こえるだけで、自分が自由に動ける範囲は少ないようだ。せいぜい、このベッドの上で動くくらいだろう。
……ベッド自体に鎖を繋げているのかしら。
ここからだと鎖が繋げてある部分は見えそうにはない。
「……まるで時代遅れの奴隷か囚人のような扱いね」
皮肉を込めてアイリスが言い放つが、女はころころと笑うだけだ。
「仕方ないわ。旦那様の命だもの。こうでもしないと、あなたはきっと暴れて逃げてしまうでしょうから」
「当り前よ。ここに居ても、この先の地獄は見えているわ。あなたもさっさと仕える人を変えることね」
何が楽しいか分からないが、メイドの女はずっと笑っているだけだ。いや、正確にいえばメイドらしいと言える部分がないように思えてくる。仕草も表情の仕方もまるでとってつけたような――。
「……あなた、どこかで見た顔をしているわ」
「あら、気付いた? ……あなたを呼びに来たでしょう? 初等部の子が呼んでいるって」
「っ、あの時の……!」
その言葉を聞いて、アイリスはあの時、自分を呼びに来た女学生とこの女の姿が重なって見えた。
声も背丈も容姿も全て同じだ。ただ、服装が違うだけで。
「あの学校、凄く警備が甘いんだもの。学生のふりをしていれば、すぐに学校の中に入れたわ」
「……それもブルゴレッドの指図なの?」
「ふふっ……。契約上、あまり雇い主のことは詳しく話せないのよ」
「今すぐ、ブルゴレッドを連れてきなさい。私がいかにあの男に対してどれほどの怒りを抱いているか、直談判してあげるわ」
「あらあら、それは出来ないわ。旦那様は今夜のことでお忙しくしておられるもの」
「……私は絶対に結婚しないわよ」
今はこの手枷が付いた状態が、この後人前に出ることになるならば、枷を付けたままではないはずだ。
……逃げるなら、その時しかない。
恐らく、クロイド達も自分の身に何かあったと気付いていると思うが、ブルゴレッド家が関わっていることまで辿り着くのは難しいかもしれない。
せめて、残してきたボタンと、地面に書いた文字に気付いてくれているといいが。
「あの子はどこ?」
「初等部の子のことかしら?」
「そうよ。あの子はこの結婚には関係ないわ。逃がしてあげて」
その時、ほんの一瞬だったが、女の表情が何故か真顔になったように見えたのだ。しかし次の瞬間には、何を考えているのか分からない表情へと戻る。
「でも、結婚が正式に済むまでは捕まえておくようにと言われているもの」
「それじゃあ、その後は? もし、仮に私が結婚を承諾した後には、あの子をどうするつもりなの?」
「……さぁ、それは知らないわ。それを決めるのは私ではないもの」
彼女なら知っていても言わなさそうだ。
「さて、お喋りはこのくらいにして、朝食にしましょう」
女は朝食が載っている台車をアイリスが横になっているベッドの近くまで運んでくる。
「……私がここで出されたものを素直に食べると思う?」
本音を言えば、腹は減っている。だが、ここで出された食事を食べるくらいなら、自分が作った失敗した料理を一生、食べ続けた方がましだ。
「ここで餓死されても困るもの。心配しなくても、無理矢理に食べさせてあげるわ」
女は薄っすらと笑い、台車の上に置いてあった呼び鈴を軽く鳴らす。すると、扉が開く音が聞こえ、昨日と同じ姿のシザールが部屋へと入って来た。
「おはよう、お嬢さん」
「……」
だがアイリスはそれを無視して、二人を同時に睨みつける。
「自分が呼ばれたということは、やはり素直には食べてくれなかったということかな?」
「えぇ、そうですの。だから、あなたの催眠術を頼りにしていますのよ?」
「っ……」
アイリスは絶句したまま、思わずシザールを凝視する。彼はフードの下でにやりと笑った。
昨日と同じように、自分に魔法をかけるつもりだ。
「あとはお任せしますわ。催眠術とやらが終わったら呼んでくださいね」
女は軽く一礼してから、シザールをその場に残して部屋から出て行く。扉がしっかりと閉まってからアイリスは口を開いた。
「……あなたには魔法に対する矜持がないの?」
「あんたは魔力がないくせに、一端の魔法使いみたいなことを言うんだな」
シザールはすっと杖を取り出す。
「魔法は結局、人にとって使われるものだ。必要なのは意志や矜持なんかじゃない」
この男はお喋りのように思えるが、それでも瞳の奥に何かを隠しているのか、感情も意志も読み取ることはできない。
「今度は私に何の魔法をかけるつもり? 人に対する魔法をかけていいのは、魔的審査課などの対人の魔法を許可されているところだけだって知らないの?」
「もちろん、知っている。だが、それは教団の中だけだ。俺は傭兵みたいな魔法使いだから関係ないね」
短く笑ったシザール表情は曇って見える。
「今からかける魔法は禁魔法の一つ。従順魔法だ」
「っ……!」
従順魔法。それはその名の通り、魔法をかけた相手を自らの声一つで、命令を全て言う通りにさせる魔法だと聞いている。
不老不死の魔法、悪魔召喚や記憶を自在に操作する魔法、反魂魔法といったものは、重要な特別許可が総帥から出ない限り、使用禁止になっている魔法だ。その中の一つに「従順魔法」というものが存在していることは知っていた。
だが、使えるほど技量を持った人間がいるなど聞いたことはなかった。
「知っているか? この魔法が最初に作られた頃の話だ。ある金持ちの男がいたんだが、雇った違法魔法使いを使って、惚れた女にこの魔法を無理矢理かけたらしい」
「……」
「その女は契約者である男の声一つで、自在に操れた。彼のために笑うことも、動くことも――その身を捧げることも」
「っ……」
アイリスは思わず顔を背ける。
「その後、女はどうなったと思う? ……耐えられなくなったんだろうな。男がいない間にその女は早々と自らの命を絶ったんだ」
恐ろしい、魔法だ。人をその人の意志に関係なく、自在に操れる魔法など、何故存在しているのかと疑いたくなるほど、吐き気がする悍ましい魔法。
「この魔法をかけさせすれば、あんたは俺の意のままに操れる」
「悪趣味だわ」
「あぁ、そう思うね。だから、俺はあまりこの魔法を使いたくない。自分のお気に入りの人形を愛でるような、そんな趣味はないからな」
つまり、彼はこの魔法を使われたくなかったなら、言う事を聞いておけと言っているのだ。
「……」
この家にいれば、自分は魔法が使われなくとも、ただの人形のようにそこにいるだけの存在だ。ブルゴレッド家の欲望を叶えるためだけの、ただの駒。そこに自分の意志はない。
……こんなの、魔法をかけられようが、かけられまいが、どっちにしても同じだわ。
これ程までに選べない選択肢は初めてだ。
「……この料理、毒は入っていないでしょうね?」
「毒どころか、何も入っていない。さっき食べたが、それなりの味だぞ。何なら、俺が味見してやってもいい」
からかうような口調でシザールは肩を竦めてわざとらしく笑う。彼も自分が素直に言う事を聞くと判断したのだろう。
「さぁ、ゆっくり食べてくれ。あぁ、メイドを呼んでおくよ」
「……」
シザールがこちらに背を向けて、扉の向こうで待っているメイドを呼びに行った。
ちらりと台車に目をやる。そこに置かれているのは何かのスープが入った皿とパンと少しのおかずばかり。
……駄目だわ。スプーンしかない。
ナイフは無くても、フォークさえあれば、それなりに使える武器になりそうだと思っていたが、やはりその辺りはアイリスの性格を考慮してか、武器にならないようなスプーンしか備え付けられていない。
せめて、こんな非常時に武器にならないような物でも戦えるように訓練しておけば良かったとアイリスは表情を隠しながら溜息した。




