鉄錆
アイリスは静かに剣を水平に構える。
「くそっ……」
ジュモリオンは足元にしがみ付くように形成されていく氷を上手く割ることが出来ないのか、四苦八苦しているようだ。
それもそうだろう。クロイドの魔法が簡単に破れるわけがない。
氷はジュモリオンの腰辺りを縄が伝うように形成されていく。完全にジュモリオンは捕らわれた身だ。
アイリスはすっと息を吐き、そして靴の踵を三回鳴らす。すぐに身体の重さが感じられなくなったアイリスは地面を強く蹴り上げた。
放たれた弾丸のように身体は真っすぐと飛んでいき、ジュモリオンの胸辺りに剣で狙いを定め、そして──貫いた。
「ぐ……ぁっ……」
ジュモリオンが重たく曇った声を上げたが、構わないままアイリスはまた一歩、踏み出すように剣で突き刺していく。
柄を両手で支える剣からは生々しい感触が伝わって来ていた。魔物討伐課に属していた時のことを思い出すような懐かしい感覚だが、そう思ってしまうことに嫌悪を感じてしまう。
瞬間、目の前にいるジュモリオンが血を吐いた。
彼の姿は魔犬だけでなく、マティや知らない人、恐ろしい獣の姿へと本のページを捲るように変わっていく。幻を完全に作る事が出来なくなったのか、姿が安定していないようだ。
アイリスはジュモリオンの身体へ突き刺した剣をそのまま、右斜めへと振り払った。
「っ……!」
耳を塞ぎたいほどの声がその場に響く。その声は魔物としての叫びか、それとも幻の姿を取っている人間としての叫びか一体どちらだろうか。
剣を下ろしたアイリスは後ろへと素早く下がった。
「クロイド!」
アイリスは軽く後ろを振り向いて、クロイドに封印を施すようにと叫んだ。
「ルオン、一度結界を解いてくれないか。このままだと魔法陣が描きにくい」
「分かった。……でも、本当に一発で仕留めるとは……恐れ入ったぜ」
ルオンは地面に突き刺していた剣に向けて何か呪文を唱え、そしてそれを素早く抜いた。
瞬間、アイリス達を囲っていた光る結界が解けて、向こう側にいたルオンとの隔たりが消え去った。
冷たかった空気が外へと逃げいき、アイリスは久しぶりに呼吸した感覚になった。
「相手が動けない状況なら、あなたも一振りで仕留められるはずよ」
「でも、さすがにアイリスみたいな動きは出来ないぜ。自分の目が追いつかないくらいの速さだったからな」
和らげた表情のルオンがこちらに向かってくる。村長達を襲っていた元凶を無事に仕留めることが出来て、安堵しているのだろう。
これで村長やマティ達だけでなく、支部の人間も助かるはずだ。あとは朝日を待てばいい。
アイリスはその場に倒れているジュモリオンの姿を眺めながら、ポケットから取り出したハンカチで剣に付着したジュモリオンの血を拭き取った。
いまだに持続しているクロイドの氷の魔法が効いているのか、ジュモリオンの身体を覆うように氷が侵食していっている。
これなら、あとは彼を囲むように魔法陣を描き、そして──。
「ねぇ、そういえば鏡はどこにあるの? 彼は鏡に封印されていたなら、それに封印しなおさなきゃ……」
「そういえば……。おい、ジュモリオン。お前の本体の鏡はどこへやったんだ」
クロイドが一歩前に出て、ジュモリオンを見下す。アイリスの一撃によって深い傷を負ったジュモリオンは何とか息をしている状態だったが、それでも姿は定まらない。
「……はっ……。やっぱり、人間は愚かだ。……あの鏡が本体だって、自分で……言っているのに、気付かないの?」
氷に囲まれているからなのか、それとも息が荒くなっているだけなのか、ジュモリオンの吐息は濃く、白かった。
「何だと……?」
「言っているだろう、あれが本体だって……。僕自身が鏡なんだよ」
つまり、ジュモリオンの実体ある身体こそ、封印されていた鏡だというのか。それは彼を傷付けるという行為が、鏡本体を傷付けるという意味だったことにやっと気付く。
「もう、封印は難しいじゃないかなぁ。だって、僕の身体に傷を付けちゃったんだもの! ……あぁ、感じるよ。僕の鏡面が、大きくひび割れている。この身は魔具でもあるのに……魔具を壊したら、上手く封印出来ないだろうねぇ!」
そう言って、歪んだ表情を浮かべながら笑い声を上げているジュモリオンに対して、アイリス達は顔を顰めた。ジュモリオンはわざと封印させないために、その情報をこちら側にあえて伝えなかったのだろう。
封印されなければ、いくらでも回復し、逃げる機会はあるのだと言わんばかりに。
「それなのに、君達は本当に馬鹿だ。……マティだって、言っていただろう。……鏡はもう一枚、あるんだよ」
それを聞いた瞬間、すっと背筋が寒くなった気がした。
強い風のようなものが道の奥から吹いてくる。その時、鋭い音と一つの声が重なった。
「──アイリス!」
クロイドが自分の名前を叫んだと同時に彼の腕によって、後方へと強く突き飛ばされ、立っていたはずの身体が斜めに揺れる。
持っていた剣が地面に接触したことで軽い音を立てて、落ちた。
その時、何故か鈍い音が耳の奥に残り、やがて鉄錆のような匂いが鼻をかすめた気がした。
「クロイドっ!?」
ルオンがクロイドを呼ぶ。駆け寄ってくる足音を遠くに聞きながら、アイリスは地面へと投げ出された身体をすぐに起こした。
そして、後ろを振り返り、目を見開いてしまう。
「……え?」
ルオンがクロイドの身体を支えるようにしながら、地面に足を付けている。そして、ルオンの身体に寄りかかるように、ぐったりしたクロイドがそこにいた。
暗くても分かる。彼が着ている白いシャツが異常な速さで別の色に染まっていく。
「おい、クロイド! しっかりしろ! クロイド!」
焦った表情でルオンが名前を呼び続けているが、クロイドの表情は暗く、そして色を失ったように白く見えた。
それでも、この状況が現実だと認識するのが遅かったアイリスは幻ではないかと自分の目を疑う。
「な……んで。だって、さっき、そこで……」
言い訳をするようにアイリスは首をゆっくりと横に振った。
「うそ……。そんな……」
這い寄る様にアイリスはクロイドへと手を伸ばしていく。
「クロイド……。クロイド……? ねぇ……」
返事はない。支えているルオンの手が目に見える程、赤く染まっていく。クロイドは目を閉じたままだ。指先一つ、動かない。
投げ出されたクロイドの手に、アイリスは縋るように自分のものを重ねる。自分の手に彼の血がべったりと付いた。
この手の冷たさも、血の感触も、鉄錆びのような匂いも現実だ。
これは幻ではない。
「いやっ……。クロイド……っ。クロイド──!!」
返事が返って来なくても、心臓が破けそうな想いでアイリスはその名前を呼んだ。




