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奇跡狩り

 

 静まり返った廊下には、二人の影しかない。アイリスはもう一度、短く息を吐いてからクロイドの方へと顔を向けた。


「……それじゃあ、行くわよ」


「ああ」


 クロイドが頷いたのを確認し、アイリスは魔力反応を感知した部屋をノックもせずに思いっきりに開け放つ。


 開けた先に広がるのは、一つのランプが灯されているだけの薄暗い部屋だった。それでも、ランプによって浮かんでいる表情ははっきりと分かる。

 その場に突然、二つの見知らぬ影が入り込んだのだ。部屋の中に居た人間が驚かないはずがない。


「なっ……誰だ⁉」


 少し曇ったような怒鳴り声。間違いなくブランデル男爵だ。

 彼の隣には身なりのいい中年くらいの男性が驚いた表情でこちらを見ている。恐らく魔具の取引相手であろう。


 アイリスが流れるように、視線を移すと窓側の壁と扉の近くにはこの屋敷の執事ではなさそうな動きやすい服装をした男性二人が居た。武装しているのか、彼らが少し動いた瞬間に金属音が掠れた音が耳に残る。


「……お初にお目にかかります、ブランデル男爵。このオークションの、いえ、この取引にとって招かざる客ですわ」


 わざとらしく優雅にドレスの端を摘んでアイリスは軽く会釈する。場違いすぎるアイリスの仕草に男爵は一瞬だけたじろいだが、アイリスの言葉の意味をすぐに覚ったようだ。


「……教団の死神かっ!」


 その言葉は「奇跡狩り」を意味する隠語でもあるとブレアから教えてもらった事がある。

 つまり、奇跡狩りは昔から現代までずっと行われ続けてきたのだ。忌み嫌われるものの一つとして。


「ええ。そこにある魔具を引き取りに参りました」


 その瞬間、男爵の顔がさっと青くなるのが薄暗い中でも分かった。表情で、これは魔具だと言っているようなものだ。

 しかし、男爵の青い表情はまるで最初からなかったかのように、次に彼が息をした瞬間には消えていた。


「ふん。何の事だ」


 どうにか、この場を切り抜けようとするつもりなのか、男爵は面倒くさそうに呟いた。しかし、男爵の冷めた言葉に対してアイリスは指で示す。


「その台の上にある小さな壺……。間違いなく魔具ですよね?」


「何を言っているのか、全く意味が分からないな。それよりも二階は個人的な部屋だ。勝手な立ち入りは困る。さっさと去るがいい」


 男爵はあくまで(しら)を切るつもりだ。

 だが、こちらとしては目の前に回収するべき魔具がある以上、男爵の言葉通りに従って簡単に引くわけにはいかない。


「……ええ。そこにある魔具を頂けたら退場致しますわ」


 中々、引かないアイリス達に苛立って来たのか男爵は額に青筋を浮かべ始める。その表情は昨日、馬車の中から道に転がっていたアイリス達に向けられたものと同じだった。


「いい加減にしろ! ──おいっ、お前達! こやつ等を捕らえろ!」


 男爵の命令に従って、扉の近くに居た男がアイリスを捕らえようと手を伸ばして来る。

 しかし、アイリスは逆にその男の右腕を捕らえるとそのまま軽々と背負うようにしながら、男を床へと叩き付けた。


 投げられた男は呻くような鈍い声を上げて、自分の身に何が起きたのか分からないとでも言ったような表情をしている。


 隣のクロイドは相変わらずの無表情だが口元が少し引き攣っているのが視界の端に見えた。

 このくらいで、引いてもらっては困る。こちらは戦闘を専門とするために、今までブレアによって鍛えられてきたのだから。そこらのお嬢さんと同じではないのだ。


「……世には知られていませんが男爵の身分でしたら、魔具所有の資格をお持ちでない方や教団の入団者以外の一般人は魔具を所有してはいけない事くらいご存知のはずですよね?」


 床に叩きつけた男を掴んでいた腕を解いて、アイリスは真っ直ぐと男爵を睨む。


「――『奇跡狩り』にはこの国の王でさえ手出しどころか、口出ししてはならないと」


 まるで盗人のようなこの任務は極秘なものだ。


 それは「魔具」が国家単位で大きな影響を及ぼす可能性があるからである。教団も国もそれを恐れているのだ。強い力を個人で持つ事は武力による支配さえも容易いことを意味しているからだ。


「ちっ……! 魔力があるだけの能無し集団が……!」


「ブ、ブランデル男爵……! この取引は誰も知らないはずでは⁉」


「知らんっ! わしに聞くな!」


 やっと自分の今の状況が理解出来たのか男爵は焦りを見せ始める。


「教団の目を甘く見ないで欲しいわ」


 教団には国家単位の秘密まで見抜いてしまう情報収集の専門家だっているのだ。そう簡単に網目をくぐることが出来るのは力のある魔法使いだけだろう。


 動揺する男爵達を見据えながら、アイリスはクロイドに小さく耳打ちした。


「……あなたはあの壺の魔具を回収して」


 男爵の憤慨している様子から見て、こちらに魔具を素直に引き渡す気はないのだろう。それは穏やかな交渉が決裂したことを意味する。


「何?」


「私が奴らを引き付けるわ。回収したら形振り構わずその窓から逃げて」


 クロイドの答えを聞く前に、アイリスは乱入した自分達にどのような対応をしようかと鋭い視線を向けて来ていたもう一人の男に向かって跳び蹴りする。


 腹部にアイリスの右足が直撃した男はそのまま壁に身体を打ち付けられ、その場に仰向けの状態で倒れた。少々強く蹴り過ぎたが、男はアイリスの一撃によって白目を剥いて気絶したようだ。


 男の気絶を確認してからアイリスはクロイドの方へと振り返って叫んだ。


「急いでっ!」


「くそっ……!」


 初任務であるクロイドにとっては酷だと思われるかもしれないが、アイリスに言われるがまま、彼は魔具に向かって走り出す。

 だが、クロイドの目の前に立ちはだかるのは拳銃を持ったブランデル男爵だった。


「――ここで死んで、全て忘れてしまえっ!」


 バンッと一発の乾いた音がその場に響いた。その乾いた音があまりにも白々しく聞こえて、同時にアイリスの背中に冷たいものがさっと流れていく。

 拳銃の弾に当たれば、負傷しないわけがない。青ざめそうになるアイリスはすぐにクロイドの方へと視線を動かした。


「ク……っ⁉」


 任務中であるにも関わらず、つい名前を呼んでしまいそうになったがそこにクロイドの姿は無い。


 しかし、銃弾を避けるように空中を跳んでいたのは黒い犬だった。まるで銃弾の軌道を見切っているように、華麗に避ける姿にアイリスは目を見開く。


「何っ⁉」


 魔具が置いてある台の横にその黒い犬は優雅に降り立った。物音一つ立てずに、着地した犬はすぐに向きを変える。

 黒い犬は台の上に置いてあった壺の取っ手に装飾として巻いてある縄紐をくわえると、男爵と取引相手の横を素早く通り抜けていく。その動きは黒い弾丸のようだ。


「ひぃっ!」


 取引相手の男が突然の黒い犬の登場に驚いて思いっ切りに腰を抜かしていた。

 男爵も銃弾を向けた相手が突然消えて、何故かそこに黒い犬が出現したことに対して理解出来ていないと言った表情で暫く固まっていた。


「う……おぉっ!」


 その静寂を切り裂くように、アイリスが先程投げ飛ばした男が腰に下げていた剣を抜いて襲い掛かってくる。


 だが、不意打ちの攻撃に臆することなくアイリスはドレスの下の太もも辺りに下げていた、ヴィルから買った短剣を素早く引き抜き、自分に向けられる刃を軽々と片手で受け止めた。


「く、そっ!」


 男は何度も剣を振り下ろしては荒っぽい金属音を立てていく。耳障りに思える音にアイリスは溜息を吐いた。


 次々と自分に向けて振り下ろされる鋭い剣筋。

 しかし、アイリスはそれを優雅に交わし続ける。


「……そんな扱い方じゃ、剣が可哀想だわ」


 アイリスは困ったように呟き、自分の脳天へと向けられた剣を振り払うように短剣で横に薙ぐ。その反動により、男の持っていた剣は彼の頭上へ打ち上がるほどに大きく弾かれた。その勢いによって彼の手から剣が離れていく。


「っ……!」


 追い討ちを掛けるようにアイリスは男の鳩尾に右肘を迷わず入れた。


「ぐ、ぁ……」


 男は苦しそうに呻くと、身体を半分に折り、数歩後ろへと下がる。さすがに抵抗出来なくなったのか男は崩れ落ちるように膝を着いてから、床の上へと倒れた。


 アイリスは振り返らないまま黒い犬に向かって叫んだ。


「早く行って!」


 もう分かっている。あの黒い犬がクロイドなのだと。

 あの犬の姿こそが、彼が「呪われた男」と呼ばれている理由なのだと。

 

 だが、今の自分には気にしている余裕など無い。


 クロイドが窓へと向かうが彼はそこで立ち止まった。それは開かない種類の窓だったのだ。


 いち早く気付いたアイリスはまたもやドレスの中に隠していた小さなナイフを四本取り出し、大きな窓に向かって投げる。


 それなりに威力が大きかったのか、ナイフが窓に直撃すると大きなヒビが白い線を描くように出来ていた。それでも窓はまだ割れてはいない。


 しかし、アイリスの意図に気付いたクロイドは犬の姿のままで、窓のヒビに向かって体当たりするも、窓に少し白い線が入っただけで完全に割れることはない。


 ――その時だ。


 バンッと乾いた音と共にクロイドの傍を銃弾が通り抜けていったのだ。銃弾の威力は壁を貫通させる程のものだった。その威力にさすがのアイリスも一瞬だけ冷や汗を掻いてしまう。  

 クロイドの身体を掠めなかったから良かったものの、直撃していたならば即死だろう。


 アイリスはばっと視線を男爵の方へと向ける。彼はまだ魔具を諦めていなかったのだ。諦めるどころか先程よりも、その怒りは大きいものになっている。


「ま、待てっ! 逃がさぬぞ……! それはわしが買った物だ……。誰にもやらん……!」


 男爵が持つ拳銃の銃口がクロイドの方へと向けられる。


「さぁ、持って来い。その壺を返せば、命は助けてやるぞ……」


 男爵は黒い笑みを浮かべる。


 ――ああ、自分はこの笑みを知っている。叔父と同じだ。

 金に目が眩んだ、意地汚くて信用出来ない瞳。


 しかし、標的となっているクロイドは拳銃に対して抗う術を知らないため、射程から逃れることが出来なかった。彼はまだ魔法を知らないからだ。

 

 ――それならば。


「……あなた、本当に撃てるの?」


 アイリスは剣先をブランデル男爵に向けて、不敵な笑みをわざとらしく浮かべ始める。


「何、だと?」


「その拳銃、最近販売されている型の中で一番新しい物よね。でも、さっきあなたが撃った弾の壁へのめり込み具合から想定して、今までの型のものと比べて遥かに銃弾の威力が大きかった。……つまり、改造銃ね?」


 アイリスの指摘に男爵は眉を大きく寄せて、悔しそうに唇を噛んでいた。


「だっ、だから、何だと言うんだっ⁉」


「別に私には関係の無い事だもの。でも、改造してまでその拳銃の威力を高くしているんでしょう? しかもこの近距離。当てられなかったら無様だわ。結局、良い物を持っていても本人の腕次第って事よねぇ?」


 アイリスは男爵を挑発しつつ、自身が履いている靴の踵を男爵に気付かれないように三回鳴らした。


「き、貴様ぁ……! わしを愚弄する気かぁっ⁉」


 標的がクロイドからアイリスへと代わり、銃口が向けられる。そして、男爵の右手が少しずつ拳銃の引き金を引いていく。

 でも、怖くはなかった。


 その瞬間、クロイドが自分の名を呼んだようにも聞こえたが、あまりにも一瞬だった。

 男爵の拳銃から放たれた銃弾がアイリスに向けて迷いなく、突き進んでくる。


「……」


 だが、まるでその弾丸の軌道が分かっているかのようにアイリスは優雅に避けた。

 アイリスが銃弾を避けたことで、男爵が放った銃弾は部屋の壁へとめり込むように突き通っていく。


「くそっ……!」


 アイリスが弾道を避けたのは偶然だと思ったのだろう。恨めしい表情のまま、男爵は再び引き金を引く。


 だが、何度やっても結果は同じだった。迫る銃弾をアイリスは舞うように避ける。

 そして、残り二発となった時、男爵は初めて焦りの表情を表した。


「何故だっ⁉ 何故、見えるんだっ……!」


 もう一発をアイリスに向けて撃つがそれさえもアイリスはほんの少し頭を横にずらしただけで、身体の重心は動いてはいなかった。


「だから、言っているでしょ。結局は本人の腕次第だって」


 早くこの無意味な争いを終わらせなければ今、倒れている護衛達の目が覚めてしまう。そして別の護衛を呼ばれるだろう。


 それではこちらとしてはかなり都合が悪い状況になってしまう。

 「奇跡狩り」はあくまで隠密行動だ。


 その対象となった人間も決して関わった事を他言してはならない。なぜなら「魔具」に関する事について話すのはこの国の法律で表向きには禁止されているからだ。


 そして世間の法律だけではなく、特に厳しく取り締まっているのが教団の魔的審査課である。ここには一般人が魔具や魔法に関わった場合、それに関する記憶を消すことが許されている対人専門の魔法使いだって存在している。


 もし魔具を使用したり、魔法を使ったことを魔的審査課が知れば、場合によっては記憶を消しにくることだってあるのだ。


 そのため一般人が魔具の取引や使用に関わっていたとしても彼らは誰に対しても口を噤むのだと昔ブレアに聞いた事があった。


 アイリスの冷ややかな言葉にブランデル男爵はさらに激高する。


「ここで死ねぇっ!」


 最後の弾丸がアイリスの脳天に向かって撃たれた。


 一つの犬の鳴き声。

 クロイドが自分を心配しているのだ。


 ……大丈夫。私は大丈夫。


 約束は守る。これは自分にとっては全く危ない事ではない。

 だから、そんな心配そうな顔をしないで欲しい。


 だって、自分には魔力が無くてもそれを引け目に感じさせない剣術がある。        

 そして、必ずのように付いているのだ。――幸運の女神が。


 アイリスは短剣を強く握り締め、刀身の平らな部分で自分に向かってくる銃弾の横っ腹を叩くように薙いだ。


 目に留まらぬ弾丸はアイリスによって軌道を変えられ、そのまま窓ガラスへと突っ込んだのである。


 弾丸が突き刺さった場所から白い大きな亀裂が窓全体に入り、乾いた音と一緒に輝きながら砕け散った。


 そう、全てはこのためだ。ナイフ程度では傷しか付けられないが重なるように銃弾を撃ちこめば窓ガラスは大破すると読んでいた。


「今よっ! 急いで!」


 その言葉にはっとしたのかクロイドは魔具を落とさないようにしながら窓枠へと上り、アイリスの方を見て、一度頷いてから外へと飛び降りた。


「……あなたの負けよ、ブランデル男爵。あなたは『奇跡狩り』に対して武力を行使した。その場合、あなたが送られる場所は魔的審査課の裁判所よ。最悪の場合、記憶だって消されるかもしれないわね。……何も抵抗さえしなければ穏やかに済んだかもしれないのに残念だわ。それと取引相手も同じ罪が科されるから覚えておいて」


 アイリスは同情するような笑みを浮かべることなく、無感情のまま淡々と告げた。

 その言葉に取引相手だった男も顔を青くする。


「では、ブランデル男爵。ご機嫌よう」


「なっ、ま、待てっ!」


 アイリスはナイフを一本取り出し、素早く投げた。それは真っ直ぐに軌道を描き、光を灯していたランプへと直撃する。


 一瞬にして闇の中へと陥る部屋の中で、男爵と取引相手の男はお互いを責め合うように騒ぎ立て始める。 


 しかし、アイリスはそんな事はお構い無しに窓へと飛び込むように身を投げ出した。空中を白いドレスが三日月の光に照らされて、ふわりと輝く。

 だが、悠長な事を考えている暇などアイリス達にはなかった。


 どんっと鈍い音を立てつつもアイリスは綺麗に着地する。


「っくぅ……」


 さすがにドレス姿だと動きづらいので着地しにくかったが、ドレスの下は動きが鈍くなるヒールの高い靴などではなく、任務の際にいつも使用している魔法靴を履いていた。それでも裾の長いドレスのおかげであまり目立つ事はない。


 アイリスはそのまま月が昇る方向へと走り出した。すると隣ですぐさま足音が聞こえ始める。


「あら、クロイド。無事で良かったわ」


 アイリスはクロイドから先程、奪取した魔具を受け取った。壺型の魔具はそれなりの重さで、手から離せば割れてしまうような陶器にしか見えない。


「おいっ! 大丈夫なのか⁉」


 黒い犬の姿のままで駆け寄ってくるクロイドが不安そうに黒い瞳を潤ませていた。恐らくブランデル男爵の拳銃について言っているのだろう。


「大丈夫よ」


「君って奴は……」


「お説教は後にして。……その状態でも話す事が出来たのね」


「……ああ。さっきは人前だから控えていたんだが……」


 だが、クロイドは鼻をくいっと上に向けて何かを探すように嗅ぎ始める。


「どうしたの?」


「……上に居た奴らが応援を呼んだみたいだ。人が集まり始めてきている」


 さすがに犬並みの嗅覚と聴覚を持っているだけの事はある。


「それじゃあ、見つかる前にお暇しないとね」


 アイリスはさらに走力を上げる。一方、クロイドは犬の姿だからなのか、まだ体力に余裕があるようだ。


「それだけじゃない」


「え?」


「奴らだ」


 クロイドが低い唸り声を上げたため、アイリスは耳を澄ませてみた。

 聞こえてくるのは、人の喧騒の他に犬の鳴き声。


「もしかしてっ⁉」


「昨日の昼間に見た犬小屋の犬だろうな。この屋敷の番犬として飼われているんだろう。……かなり殺気立っているようだ」


 つまり、自分達を追ってきているということだ。

 後方から聞こえて来る鳴き声は恐らく一、二匹程度ではないだろうと、アイリスは唾を飲み込んだ。


 ここから鉄柵まで約五十メートル程ある。普通に走ったとしても犬の足の速さに勝つ事は出来ないかもしれない。


「普通に走れば追いつかれるが今の君なら平気だろう。履いている靴、魔具じゃないのか?」


「あら、ご名答。疾風の靴(ラファル・ブーツ)と言う魔具なの。走る速度を上げたり、軽々と跳んだり出来る優れものよ。しかも足に負荷が掛かりにくいの」


 先程のブランデル男爵の銃弾もこの靴のおかげで避けられたようなものだ。

 反射神経までぐいっと上がって便利であるため重宝している魔具の一つである。


 だが、魔力の無いアイリスにとってこれを使う事は簡単な事ではない。この靴に備わっている魔法の性能の発動条件は踵を連続で三回鳴らすことだ。


 疾風の靴(ラファル・ブーツ)の性能を発動さえしなければ普通の靴と同じだが、先程のような戦闘の際にこの靴の力を使用すれば削られていくのは自分の命だ。 


 魔力が無い者だと大きい力を発揮させる事は出来ないが使用するくらいなら出来る魔具もある。


 また、魔具を使うことは己の魔力を操ることでもある。魔力を身の内に戻すことに時間が掛かっても、命までが削られることはない。

 それを踏まえた上で、アイリスが使っているこの魔法靴はある意味、特殊なものだった。


 ……クロイドはきっとまだ知らないのね。


 魔具が人を魅了し、操る事がどんなに恐ろしい事かを。


「……まぁ、これを使えば簡単に柵なんて越えられるわ。――あら、もう番犬さんが追いついて来たみたいね」


 真後ろ十メートルくらいに迫ってくる大型犬は五匹である。これに襲われたら一溜まりもないだろう。


「クロイドはあの柵を越える事は出来るかしら? 出来ないなら抱きかかえて跳んであげても良いわよ」


 悪戯っぽく笑うアイリスにクロイドは犬の姿でも分かる程の大きな溜息を吐く。


「遠慮させてもらう。それにそこらの犬と同じではないからな。跳躍力くらいはある」


「あら、残念。それじゃあ、行くわよっ」


 アイリスは近づいてくる鉄柵を前にして地面を思いっきりに蹴り上げる。ふわっと浮かぶその身体は、空中で一回転してから、鉄柵の向こう側へと舞う蝶のように綺麗に着地した。


 だが、アイリスはその場でよろけてしまい、片足を地面に着かせてしまう。


「っ……」


 一瞬、胸の奥が強く脈打つ。

 いつもこうなのだ。


 魔力が無い人間は自らの命を使う。その度に身体の節々が痛む時がある。

 恐らく自らの命が削られている前兆だ。


「おい、どうした?」


 駆け寄るクロイドに向けてアイリスは無理やり笑みを浮かべる。


「ちょっと、よろけちゃっただけよ。行くわよ」


 アイリスは何事もなかったかのようにすぐさま立ち上がり、走り始める。


「……全く」


 クロイドは犬の姿のままで溜息を吐きながら、アイリスの後ろを付いてくる。


 二つの影は狭い路地裏の暗闇の中へと消えていき、空に浮かぶ月だけが二人の行方を眺めていた。

  

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