重なるもの
ケーキも並べられた料理も、皿の底が見え始めた頃、ミレットが何かを思い出したのか、はっとした顔をした。
「一番、大事なことを忘れていたわ。……クロイド」
ミレットの呼びかけにクロイドは軽く頷き、そして自分の机へと向かい、何かの箱を持って席へと戻って来た。その箱には青いリボンが彩るように結ばれており、封筒が箱とリボンの間に挟まれていた。
きょとんとした顔のアイリスにクロイドは微笑みながら、箱を渡した。
「アイリス、誕生日おめでとう」
「え? あの、これは……」
「誕生日プレゼントよ。ほら、アイリス、受け取って」
苦笑しつつミレットがぽんっとアイリスの肩を軽く叩く。アイリスは視線を迷わせながらその箱を受け取った。
「……開けてもいいの?」
「ああ。……でも、手紙は後で読んでくれ」
その表情が少しだけ照れているようにも見えた。つまり、この手紙はクロイドが書いたということか。
アイリスはそっと滑らかなリボンを解き、そして手紙と一緒に机の上へと置く。包装された紙を丁寧に開き、そして箱を開けた。
その場にいる、皆がアイリスの方を見ていた。
「……」
中に入っていたのは靴だった。しかも新品で自分が履いているものの中で一番上品で、可愛らしく、そして丈夫そうな靴だ。
どういうことかとアイリスが瞳を瞬かせていると、隣のミレットが小さく笑って説明してくれた。
「アイリスが今まで使っていた疾風の靴はあなたの命を削って、魔法を発動させるものだったでしょう? そのことをクロイドが良く思っていなくてね。ああ、もちろん、私もだけれど。……この靴はクロイドが靴職人に頼んで、協力しながら作ったものなの」
「え?」
思わずクロイドの方を仰ぎ見てみると、彼は苦笑しつつ頷いた。
「性能は疾風の靴と変わらない。今までのように跳べるし、魔力もいらない魔具だ。それに……命も削れたりしない」
「……」
アイリスは手元の靴を凝視する。
茶色の革に赤い靴紐。重さはほとんど感じないほどに軽い。まるでどこかに出掛けるような、そんな靴だ。
この手元にある靴こそ、自分が必要としていた靴なのだ。魔力も命も必要ない。誰にでも使える魔具。出来るならば、そういう魔具が欲しかった。
「靴の名前は青嵐の靴。若葉の季節に吹く強い風、という意味だ」
「青嵐の靴……」
この靴に込められたのは名前だけではないはずだ。
優しさというものが目に見えるのなら、きっとこの靴のことを指すのだろう。自分の命をこれ以上削らなくてもいいように。この靴で好きに跳べるように。
どれほどの想いがこの靴に詰まっているのだろうか。
アイリスはぎゅっと靴を抱きしめる。
「……ありがとう……っ……」
我慢していなければ泣いてしまいそうなほどに嬉しかった。
「良い靴じゃないか。早速、試しに履いてみたらどうだ」
穏やかな笑みを浮かべつつ、ブレアがそう促す。
「それなら訓練場よりも屋上の方がいいんじゃない?」
「そうだな。訓練場は剣の鍛錬をしている奴が多いし、屋上なら誰もいないだろう」
同意するようにユアン達も頷く。
確かに今すぐにでもこの靴を履きたい気持ちでいっぱいだった。いいのだろうかと周りをぐるりと見てみると、皆が遠慮しなくてもいいと言っているように笑ってくれた。
それならばと立ち上がるアイリスに続いて、クロイドも立ち上がる。
「……念のために、な」
アイリスも軽く頷いた。最初に跳ぶところを見て欲しいのはクロイドだ。付いてきてくれるなら、ありがたい。
アイリスはその場にいる皆にもう一度、お礼を言ってからクロイドとともに屋上へと向かった。
・・・・・・・・・・・・・・・
屋上は殺風景で何もなく、人もいなかった。爽やかな風が颯爽と過ぎ去っていく。
アイリスは真ん中あたりに立ち、靴を履き替えた。するりと、吸い込まれるように自分の足が靴へと収まる。
驚いていると、クロイドが「オーダーメイドだから」と笑っていたが、アイリスはそのことに更に驚いてしまった。つまり、この靴は特注だということだ。
靴紐をしっかりと結び、足のずれがない事を確認してから真っすぐと立つ。
確かに疾風の靴よりも軽い。履いていると全体的に靴底から力が溢れるような感じがした。
自分に魔力は感じないはずだがと少し首を傾げつつ、アイリスはクロイドの方を見る。彼は見守るような視線で自分を見ていた。
準備は出来た。アイリスは深呼吸して、踵でコンクリートの床を三回叩く。そして思いっきり足でいつものように蹴り上げた。
「っ!」
身体はふわりと羽が生えたように軽くなり、一瞬で空中へと浮かんでいた。
……凄い。全然、身体が辛くない。
疾風の靴を履いている際と、それほど違いがないように感じられる。
いつも通りに軽やかに着地するとクロイドはどこか安堵したような顔をしていた。
「良かった……。大丈夫みたいだな」
「……凄いわ、この靴。だって、全然負荷がかからないし……。身体がとても軽く感じるの」
「色んな魔具や魔法材料を使っているからな。……ああ、でも魔具としての登録はアイリスに手間をかけてしまうが、いいだろうか」
「もちろんよ」
アイリスは返事をしてからもう一度、強く蹴り上げた。浮かび上がる身体でこの靴がいかに凄いのかを改めて思い知る。魔力は必要ないし、命だって削られない。
身体をそのまま、一回転させて、アイリスは再び着地した。
「……アイリスは凄いな。もうこの靴を使いこなせている」
肩を竦めるクロイドにどうしたのかとアイリスが首を傾げる。
「いや、この試作品を履いたんだが短時間でそこまで履き慣れていなかったから……。やっぱり、アイリスは本当に凄いんだなと思って」
何が凄いのか分からないが彼は満足しているのか笑っているばかりだ。
アイリスはぽんっと軽く蹴り上げて、そのままクロイドの前へと舞い降りる。
「……ありがとう、クロイド。凄く、嬉しいわ」
「気に入ってくれたようで何よりだ。……これからは青嵐の靴を履いてくれるか?」
「そうね。……疾風の靴は磨いて、飾っておくことにするわ」
アイリスがそう言うとクロイドは嬉しそうな笑みを浮かべて頷いた。
そこでふと、何かを思い出したようにアイリスは顔を上げる。
「ねぇ、クロイドの誕生日っていつなの? 今度は私がお祝いするわ」
だが、クロイドはそこで困ったような表情に変わった。
「実は一ヵ月前だったんだ」
「えぇ!?」
「あの頃はセド・ウィリアムズ達の件で忙しくて、それどころじゃなかったからな。俺もすっかり忘れていたんだ」
何でもない風に彼はそう言っているが、アイリスは残念だと言わんばかりに溜息を深く吐く。
「せっかく、お祝いできると思ったのに……」
「まぁ、また来年を楽しみにしているよ」
そう言ってくれるのは嬉しいがやはりお祝いはしたかった。だが、そこで一つの提案を思いつく。
「それなら、何か欲しいものはない? 今、お祝いするわ!」
ずいっとアイリスが身体をクロイドに近づける。
色々と貰いっぱなしは性に合わない。何か少しでもお返しをしないと気が済まなかった。
「そうだな……」
アイリスに迫られたクロイドは右手を顎に添えて、何かを考え始める。そして、ふっと何か思いついたのか顔を上げた。
いや、それは顔を上げたというよりも、アイリスの方を見たと言ってもいいだろう。
「……欲しいもの、一つだけあった」
「何かしら?」
今度はクロイドの方からアイリスへと一歩近づく。
「何でもいいんだな」
「ええ」
アイリスが任せろと言わんばかりに鼻を鳴らして笑うと、クロイドは安心したように微笑み、そして、右手をすっとアイリスの頬へと伸ばした。
「──君が欲しい」
それだけ告げて、彼はアイリスの額へと軽く口付けしたのだ。
「……」
まるでゆっくりと流れる景色のようにさえ見えたアイリスは一歩も動くことが出来なかった。
「アイリス、君が欲しい。俺は君が好きだ。……相棒としてでも、友達としてでもない。ただ一人、自分を変えてくれた君が……進む力をくれた君が、好きだ」
言葉を発することも出来ずにアイリスは目を見開く。
真っ直ぐと映される瞳は、潤んでいるように見えた。
彼の頬が赤く見えるのは夕暮れの色のせいではない。自分の頬に添えられている手が少し震えているのは気のせいではない。
「どうか、この先も俺の隣に居ると言って欲しい。……君の全てを俺にくれないか」
その言葉の意味は何と捉えればいいのだろうか。自分の好きなように解釈してもいいのか。それさえも、判断付かない程、アイリスの心の中は大きく波が立ったように揺らめいていた。
「……あなたが言っている『好き』という気持ちは……それは、こ……恋とか、愛とか……。恋慕の意味と同じなの?」
こくりとクロイドは頷く。その答えにアイリスは思わず、息をのみ込んだ。それじゃあ、自分と同じじゃないかと気付いたからだ。
紅潮しはじめるアイリスの頬に触れていたクロイドは穏やかに笑みを見せる。
「アイリスがそういう表情になるのは、初めて見たな」
「なっ……。当り前よっ! ……だって、あなた以外の人の前でするような顔じゃないもの」
自分の顔をアイリスは手で覆った。これ以上、赤面を見られるのは耐えられない。
だが、顔を覆っていた手はクロイドの手によって掴まれ、再び彼の真剣で紅潮した表情が目の前に現れる。
「……返事をしてほしい」
切なくも聞こえる声が身近に聞こえ、アイリスは身じろぎした。
「……こんな近くじゃ、恥ずかしくて、答えられないわっ」
訴えかけるような懇願さえ、クロイドは聞き入れてくれない。
「それなら、首を振るだけでいい。俺のことが嫌いならば横に振ってくれ。……同じ気持ちなら、縦に振って欲しい」
「そんなっ……。そんなの、ずるいじゃない」
自分が首を横になど振るわけがないのに、彼はわざとそう言ったのだ。いつもの冷静で物静かなクロイドとは違い、今日は積極的過ぎる。
「答えてくれ」
低い声がアイリスの身体を痺れさせる。もう、これ以上は無理だ。
アイリスはそのまま、クロイドから視線を逸らせずに首を縦にゆっくりと振る。
「っ……」
クロイドの瞳が大きく見開いた。その表情は大人のようにも、子どものようにも見えた。
「……本当か? 本当に……」
「だって、私も……クロイドと同じだもの」
絞り出すような声を吐いた瞬間、アイリスの身体はクロイドによって、強く抱きしめられる。
強く、ただ、強く。
それはまるで何かを求めるかのように。泣いているわけではないのに、彼の身体は震えていた。
……だから、こんなにも惹かれるのね。
自分も彼が欲しいと思う。それは決して、強くなるためだけじゃない。
今まで、人に向けられなかった感情。遥か昔に置いてきてしまった、誰かに愛されているという実感。
それを今、お互いに感じているのだ。
アイリスはそっと手を伸ばし、クロイドの背中へと伸ばす。
自分はクロイドが好きだ。彼の優しさも弱さも、寂しさも強さも。全てを含めて彼が好きだ。
今だけでなく、これから先もずっと一緒に生きていきたいと思える程、彼が好きだ。
強い恋慕は本当はずっと前から持っていた。でも、彼に告げてしまうのが怖かった。
この「相棒」としての関係が崩れてしまうのが怖かったのだ。
信頼できる、対等な人。自分にとってはクロイドしかいないから。
だから、この想いは胸に秘めておこうと思ったのに。
それなのに彼は自分に好きだと言ってくれた。それならば、もう我慢する必要はないのだ。
伝えたい。自分の言葉で、はっきりと。
アイリスはクロイドの耳元でそっと囁いた。
「……私も、クロイドが好き、だから……」
抱き締められる腕の力がふと、強くなった気がした。
「……ありがとう」
聞こえるか、聞こえないかくらいの声で彼が呟いた。
一番特別だと思っている人に好きだと想われることが、これほど温かいものだとは知らなかったアイリスは、緩んでいく涙腺を必死に押しとどめる。
ふっと腕の力が弱まり、クロイドが腕を放した。だが、その表情はどこか気まずそうにも、照れているようにも見える。
「……ふふっ。クロイドだって同じような顔、しているわよ」
「……」
それを隠すように彼は顔を背ける。先程までの積極的な態度はどこにいったのだろうか。一度、言葉で伝えてしまえば、あとは気持ちが楽だった。
アイリスはからかうように、クロイドの顔を下から覗き見る。
「……あまり、見るな」
そう言って、顔の下半分を手で覆うクロイドの姿がさらに愛おしく思えて、アイリスはまだ紅潮したままの頬で小さく笑った。
「……皆のところには、しばらくしてから戻ろう。お互いにこの顔のままだと……ミレット辺りにからかわれそうだ」
「そうね。それは同感だわ」
同意しつつアイリスは沈みゆく夕陽を振り返るようにしながら、眺める。
誕生日だった、今日が終わる。今まで、誕生日というものはそれほど意識したことはなかったが、今日は忘れられない一日として、ずっと心に刻まれるだろう。
「……でも、本当に驚いたわ。クロイドが……私のことを好きだと想ってくれていたなんて……。想像もしていなかったもの」
「……多分、ずっと前から、君に対して恋慕の感情は抱いていたんだと思う」
「え?」
クロイドがアイリスの横へとすっと並ぶ。その視線は同じ、夕焼けへと向けられていた。
「でも、この気持ちがはっきりと君への恋慕だって気付いたのは最近だった。……自分のことだというのに、分からないこともあるんだな」
「……そうね。……きっと、そうだわ」
「……このことはブレアさん達には言うのか?」
「実は……ブレアさんには、私がクロイドに恋慕の感情を抱いていたことは伝えているの。……でも、ブレアさん達ならすぐ気づくんじゃない?」
自分達が両想いになったことは、わざわざ報告しなくても、彼らのことなのですぐに気付きそうだ。特にミレット辺りは。
「それもそうだな。いちいち、恋人になりました、なんて報告しなくてもいいか」
「恋人っ……」
その言葉にアイリスは悶絶してしまう。これからの関係を相棒だけではなく、別の言葉で表現するならばその言葉で合っていると思うが、やはり実際に耳にすると少し照れてしまう。
だが、そんなアイリスをお見通しなのか、クロイドは余裕の笑みを浮かべている。
「……今度、二人でどこかに出掛けるか」
「え?」
「約束していただろう。次は俺が出掛ける場所を探しておくって」
「それって……」
世間一般に言う、「デート」のことだろうか。
「次の休み、空けておいてくれ」
「え、ええ……。分かったわ」
先日、一緒に出掛けた際はそれほどまで意識しなかったが、今回は緊張してしまいそうだ。
「……そろそろ戻るか?」
「……もう少し、待って頂戴。せめて、あと10分……」
「本当だ。まだ、顔が赤いな」
「もう、そうやってからかわないでっ」
アイリスの顔を見て、クロイドが楽しげに笑っていた。
……あの頃とは、本当に変わったわ。
最初に会った時、彼は自分に関わるなと言った。無表情で、無感情で、何も話せないと言ったような、そんな雰囲気を醸し出しながら。
だが、それは少しずつ変わっていった。
前よりも心配性になっているし、自分が無茶をすれば怒ってくれる。そして、日に日に優しさと笑顔が増していったのだ。
……きっと、今の彼が本当のクロイドなのね。
これからは自分しか知らないクロイドを見ることが出来るのだ。それは結構、楽しみだったりもする。
「……顔が緩んでいるぞ」
「えっ、嘘……」
「冗談だ」
「っ! もう……っ」
声を立てて笑うクロイドの隣でつられるようにアイリスも笑った。日がすっかり隠れたというのに、二人の周りだけは朝の風のように柔らかく、涼やかな風が吹いていた。
青嵐編 完




