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   旅立ち 3

 結局、

 真希は、そのまま目を覚まさなかった――。


 救急車で運んだ病院で下された診断は、原因不明の昏睡状態。

 原因が不明なだけに、手の施しようがないのだと言う。

 真希の両親に何があったのか問いつめられても、茜には答えることが出来なかった。

 ただ『突然倒れた』と、それだけを伝えるしかなかった。

 誰が信じるだろう、真希のあの変化を。

 どうして言えるだろう、『あなた達の娘が鬼に変化した』と。

 それに、例え真実を告げたとて、茜には真希が回復するとは思えなかった。

『石を、返しに来い。さもなくば、この娘は鬼人と化し、死ぬ』

 あの声はそう言ったのだ。

 それが嫌ならば『キガクレノサト』に、石を持って来いと。

 茜にはもうその石が、母から貰ったペンダントであることが分かっていた。

 あの時、部屋に現れた赤鬼は、このペンダントを取ろうとしたのだ。

 あの母の顔をした鬼女。

 そして、真希。

 茜は、胸元から青い石ペンダントを引き出して手のひらに乗せると、答えを求めるようにじっと見詰めた。

 これは『守りの石』だから外さないようにと、母から渡されたものだ。

 その石を『鬼』が返しに来いと言う。

 それは、自分が正当な持ち主だからと。

 ――なら、その石に守られている私は、何なの?

 診療時間が終わり、人気のなくなった病院の待合室。

 隅のイスに一人座りペンダントを握りしめた茜は、リノリウムの白い床を見詰めながら、答えの出るはずもない事を、身じろぎもせずに考えていた。


「茜!」

 不意に、静かな待合室に聞き慣れた声が響いた。

 敬にぃ……?

 ゆっくりと声のした病院の入り口の方に視線を巡らせると、茜の予想通りの声の主が慌てた様子て駆けてくる姿が見えた。

 茜は、パタパタと忙しない足音が近づいてくるのを、ただ座ったままで聞いていた。

「茜、大丈夫か!?」

 弾む息の下、敬悟が腰を屈めて茜の顔を覗き込む。

 心配げに自分を見詰める、優しい眼差し。

 その眼差しを感じて、茜は鼻の奥にツンと熱いものがこみ上げるのを感じた。

 凍り付いてしまっていた感情が一気に溶け出していく。

「どうしたんだ? 一体何があった?」

 息を整えながら問いかける敬悟の声音は、幼子に話しかけるように穏やかだ。

 決して詰問するようなことはしない。

 穏やかで優しい。

 それが、茜の従兄・神津敬悟という青年の人となりだった。

 ――敬にぃなら、分かってくれる?

 信じてくれる?

「敬にぃ……」

 でも、何をどう言えばいいの?

 色々な感情があふれすぎて、声が震えてしまう。

 結局、茜は敬悟にありのままを話した。

 自分の部屋で赤鬼に襲われたこと。

 その時、何処か分からない場所に飛ばされたこと。

 そこで会った母そっくりの鬼女。

 一緒に鬼を目撃したはずの敬悟が、何も覚えていなかったこと。

 そして今日、真希の身に降りかかったこと。

 その全てを。


 今まであったことすべてを茜が話し終わると、敬悟は「そうか……」と、それだけを呟いた。

 ポンポン、と茜の頭に手をやると「それで、茜はどうしたいんだ?」と問うた。

 その瞳には、疑心も揶揄も無い。

 いつもの穏やかで優しい色をたたえている。

「信じてくれるの? こんなムチャクチャな話……」

 絶対信じてもらえないと思っていた茜は、正直、敬悟の反応に驚きを隠せない。

 自分が敬悟の立場だったら、到底信じられないだろう。

 そもそも『鬼に襲われた』と聞いたところでアウトだ。

 はっきり言って正気を疑う。

 それを信じようと言うのか、この人は。

 茜は、穴があくほど敬悟を見詰めた。

 その視線の先で、ふっと、敬悟の表情が和んだ。

「俺の大事な従妹は、ドジでおっちょこちょいだけど、嘘つきじゃないからな」 

 そう言って、茜の髪をくしゃくしゃっとかき回す。

 温かい、大きな手。

 それは、幼い時からいつも変わらずに茜を守って来てくれた、掛け替えのない手だった。

 敬悟は、茜に『すべきこと』ではなく『したいこと』を問うた。

 義務を押しつけるのではなく、権利を尊重するその物言いが茜にはありがたかった。

『私が、したいこと』

 茜は静かに目を閉じると、自分の心に問いかけた。

『茜は、直情型のわりに奥手だからなぁ。もっと素直になりなよ』

 いつだか、真希が言った言葉が胸を過ぎる。

 好きな人の話題で盛り上がっていたときだ。

『彼氏なんていらないよ! 私には弓道が恋人だもん』

 色気の欠片もなく言い切る茜に、真希は口調は以外と真剣なものだった。

 私。

 私がしたいのは――。

 そんなこと決まっている。

 茜は決意をこめて、真っ直ぐ敬悟を見上げた。

「私……」

「うん?」

「私、キガクレノサトに、行く」

 きっぱり言い切る茜のセリフに敬悟は驚く様子もなく、少しだけ眉をひそめた。

「行ってどうするんだ? その石を返すのか?」

「分からない……。分からないけど」

 このままでいいはずがない。

 真希は自分のせいで巻き込まれた。

 そしてあの声の言うことが真実ならば、待っているのは「死」なのだ。

 そんなのは絶対嫌だった。

「探す当てはあるのか? それとも、当てもなくただ探し回るのか? 学校はどうするんだ?」

 微妙に険のある敬悟の言葉に、茜の元来きかん気の強い性格が刺激される。

「私は! 私は、この石がなんなのか知りたいだけ。敬にぃは関係ないんだから放っといてよ!」

 ふてくされて『ぷうっ』と頬を膨らます茜をの反応を予測していたように、敬悟は、目を細めた。

 その瞳には、悪巧みが成功して得意満面の悪戯小僧のような、少年めいた光が踊っている。

「仕方ないな、俺も付き合うよ。お前一人で行かせたら、親父さんの胃に穴があくの確実だからな」

 ニコニコ笑顔の敬悟に額を『こつん』と指で弾かれて、茜の感情メーターは一気に上昇した。

「敬にぃは、そんなお節介ばっかり焼いてるから、いい年して彼女の一人もできないのよ!」

 完全に頭に血が上ってる茜は、思ってもいないことを口にする。

「そうかもな」

 茜の渾身の一撃をさらりと受け流し、愉快そうに笑う敬悟の態度が面白くない茜は、更にふてくされて、頬をいっそう膨らました。

 翌日。

 父宛の置き手紙を残し、二人は家を後にした。

 手がかりは鬼が言い残した『キガクレノサト』という地名だけ。

 その地がどこにあるのか、

 そこで何が待ち受けているのか、

 何一つ分からないまま――。


『お父さんへ

「キガクレノサト」に行って来ます。

 心配掛けてごめんなさい。

 必ず帰ります。

  茜


 茜一人では心配なので、一緒に行きます。

   敬悟』


 早朝の食卓の上に、その短い置き手紙を見付けた茜の父、まもるは、驚きと言うよりは、来るべき時が来たかと言うような半ば諦めにも似た表情を浮かべた。

 メガネの奧の理知的な瞳に、苦悩の影がよぎる。

 それは、遠い昔を懐かしむようでもあり、悲しんでいるようでもあった。

「明日香……。子供たちが、行ったよ」

 サイドボードの上に置かれた妻の遺影を見つめると、ゆっくりと静かに目を瞑る。

「守ってやってくれ……」


 それは、祈りにも似た呟きだった――。




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