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17 終焉

 チリン――。

 何の音だろう? 鈴の音?

 チリン――。

 ああ、そうだ。ペンダントがチェーンにぶつかる音だ。

 あれ?

 でも、ペンダント壊れちゃったんじゃなかったっけ?


 そこは白い空間だった。何も無い、ただ白い空間。そこに、茜と敬悟は、手を繋いだまま横たわっていた。

 満身創痍で、二人とも生きているのが不思議なくらいだったが、不思議と痛みは感じない。繋いだ、互いの手の温もりだけを、感じていた。

 ここは……?

 私、生きてるの?

ぼんやりとした意識の下、閉じた瞼の向こうの白い光を感じて、茜は目を開けようとした。でも、どうしても開かない。

 ただ、とても懐かしい波動を感じ取っていた。

 優しい、温かな心地よい波動。

 そう、まるで――。

「お母さん……」

 

 フワリ――。

 まるで茜の呟きに答えるように、傷だらけの二人の身体を、白い華奢な手が優しく撫でる。

 すると不思議なことに、最初から無かったかのように、傷がキレイに掻き消えて行く。

 ――茜。

 ――敬悟。

 良く頑張ったね。

 偉かったね。

 もう、良いのよ。

 もう、全て終わったの。

 さあ、お帰りなさい。

 あなた達の生きるべき世界へ。

 待っている人たちの元へ。

 チリィーン。

 無限の白い空間に、澄んだ音色が染み入るように響き渡った。


「おったぞ! 捜索中の二人だ」

「タンカだ、タンカを早く!」

 茜が、近付いてくる大勢の人の気配と、慌ただしい雰囲気に包まれて目を覚ましたとき、倒れていたのは洞窟の外、入り口を出てすぐの所だった。

 目を開けて最初に視界に入ってきたのは、傍らに横たわる敬悟の顔だ。茜を真っ直ぐに見詰め返す敬悟の瞳には、穏やかな光が揺れている。

 夜明けが近いのか、東の空が白み始めていた。

 耳に届く、遠くで響いている波の音。

 少し冷たく感じる湿気を含んだ潮風が、大地に横たわる二人の体を撫でながら吹き抜けて行く。

 繋いだ手から伝わる体温が、これが夢ではなく現実だと教えてくれる。

「生きてる……ね」

「ああ」

 生きている。

 茜の呟きに、敬悟が目元を綻ばせる。

 二人とも、死を覚悟した。

 力を使い果たしたあの状態で、助かる可能性があるとは思えなかった。

 それでも、二人はこうして生きている。かすり傷一つ負うことなく。

 その訳を、茜は分かる気がした。

「……お母さん」

 ――お母さんが、助けてくれたんだよね?

 静かに目を閉じると、以前と同じように胸に輝いている青いペンダントを、茜はぎゅっと握りしめた。

「もう大丈夫じゃ、心配はいらんよ」

 タンカに乗せられた茜に、消防団のロゴ入りの上着を羽織った五十代前半位の厳つい顔の男が、励ますように声をかけてきた。訛りのきつい尻上がりのイントネーションと、自己主張のある眉毛。この顔には、見覚えがある。確か渡瀬と言ったか。鬼珂島の話を聞いた、あの漁師だ。

「あんた達、洞窟から出てきたんか? 他に一緒のもんはおるんか?」

 渡瀬の問いに、茜は一瞬、何と答えて良いか分からず答えに詰まった。

 洞窟の中には、上総の亡骸が残されている。でも、そのことは、たぶん言わない方がいい。そんな気がした。

 あの男も、それを望みはしないだろう。

 茜は、『いいえ』と首を振った。

 里の入り口。石柱のある高台で野営をしていた捜索隊は、突然の大きな地響きで叩き起こされた。

 大地震かと慌てふためいてテントの外に出た一行が目にしたのは、石柱の向こうに突如現れた崩落する洞窟と、洞窟の前に倒れている茜と敬悟の姿だった。

 結界の発生装置が破壊されたことにより、鬼隠れの里への道が開かれ、分かたれていた二つの空間は、今完全に一つに融合していた。

「茜! 敬悟!」

 お……父さん?

 聞き覚えのある声に名を呼ばれ、茜が視線を巡らせると、人垣をかき分けて来る懐かしい父の顔が見えた。

家を出てからそう長い日数が経っている訳ではないのに、まるで何年も離れていたような、そんな気がする。

 茜と敬悟が運ばれるタンカを、代わる代わる心配気に覗き込んだ衛の表情が、二人の無事を確認して安心したように、ふっと和んだ。

「仕方の無い子供達だ。あまり心配をかけさせないでくれ。胃に穴があきそうだったよ、私は」

 自分の胃の辺りを右手で押さえるジェスチャーをして、二人を見詰めるメガネの奥の瞳は、どこまでも穏やかな色をたたえている。それはきっと、決して運命に屈しなかった者だけが持つことの出来る、強くて優しい色。

「お父さん……」

「親父さん……」

 帰ってきたんだ――。

 居るべき場所へ。

 生きるべき、場所へ。

「二人とも、お帰り。でもまずは、保護者としての権利を行使させて貰おうかな」

 衛はニコニコ笑顔でそう言うと、右手でグーを作り、『ハー』っと拳に息を吹きかけた。

 そして、悪戯をした幼い頃の二人を叱る時に良くしていたように、『ごちん、ごちん』と、軽い『げんこつ』をお見舞いしたのだ。


 数日後の昼下がり。

 茜と敬悟は、担ぎ込まれた地元の病院で『健康体』のお墨付きを貰い、退院することになった。元々、かすり傷一つ無かったのだから当然ではあった。

 無人島だと思われていた鬼珂島に人が住んでいたことや、今まで誰にも知られずに来たことが、数々の憶測を呼んだ。

『伝説の鬼ヶ島に住民発見!』などと、地元の新聞や週刊誌を賑わせているようだったが、住民の中に真実を語る者が居るわけもなく、『鬼隠れの里』の実体が明るみに出ることは無いだろう。

 宇宙船もエイリアンのテクノロジーも、全てはあの洞窟の下、上総の亡骸と共に永遠に闇の中へと封印されたのだ。

 長い時の流れの中、守られてきたエイリアンの血脈も、緩やかに人に交わり、やがて薄れていく。

 その求めてやまない、望郷の念と共に――。


「さあ、家に帰ろうか」

 病院の駐車場で、車に乗るように促す衛の言葉に、『否』と、敬悟が首を振った。

「敬悟?」

 衛は訝しげに、メガネの奥の瞳を瞬かせた。

「俺は、一緒には行けません……」

「敬にぃ!?」

 思いがけない敬悟の言葉に、茜が驚きの声を上げる。

 ジリジリと強い夏の日差しを照り返すアスファルトの地面に視線を落として、言葉を詰まらせた敬悟の表情は苦しげに歪んだ。

 ――もう、戻れない。何も知らなかった頃には、戻れはしない。

 大鬼との戦いの最中、心の奥底に鎌首をもたげた、どす黒い感情。

 あれは、紛れもなく、敬悟の中に存在するものだ。あの感情に負けて、もしかしたら、茜を傷つけてしまうかも知れない。

 それは、恐怖以外の何物でもなかった。

『だから、俺はこの人達の側に居ない方がいい――』

 それが、敬悟なりに出した答えだった。

「理由は、茜に聞いて下さい。今までお世話になりました」

「なっ? 何言ってるの、敬にぃ!」

 深々と頭を下げた後、踵を返して一人で行こうとする敬悟の腕を衛が掴んだ。 

 その力は、強くも弱くもない。だが、振り払って行く事が敬悟には出来なかった。

「お前が本当の『神津敬悟』ではないことは、最初から分かっていたよ」

「ええっ!?」

 まるで世間話をするような気楽さで、サラリと重大事項を言った父のセリフに、茜が驚きの声を上げてその場に固まる。ニコやかな父の顔と、茜同様やはり驚いてに固まっている敬悟の顔を、交互に覗き込む。

 当の敬悟は言葉もなく、信じられないと言う面持ちで、ただじっと衛の顔を凝視していた。

「敬悟が家に来たとき、明日香が言ったんだよ」

 在りし日の妻との思い出を懐かしむように目を細めて、衛は穏やかな笑みを浮かべる。

『ねえ、あなた。この子は本当の敬悟君じゃないけれど、きっと茜の良いお兄ちゃんになってくれるわ。これは私の予言。だから、この子は神津敬悟として育てましょう』

 スヤスヤと眠る敬悟のあどけない寝顔を見詰めながら、まるで最高の悪戯を思いついたように、楽しげに笑った妻。最愛の女性の言葉に、衛が異を唱えるはずもなかった。

「お前は、神津敬悟だよ。今も昔もね。育てた私が言うんだから間違いないさ」

 その笑顔は、敬悟に衛と初めて出会った時のことを思い起こさせた。

『今日から、私が君のお父さんだ。

 明日香が、お母さん。

 茜が、妹。

 これから、私たちが君の家族なんだよ、敬悟』

 幼い日。

 交通事故で唯一の身内の母が死に、天涯孤独になった敬悟を施設に迎えに来た、母の兄だという、『衛おじさん』は、そう言って今と変わらぬ穏やかで優しい笑みをくれた。

 それは、上総によって仕組まれた出会いではあった。だが、『家族の一員』としての生活は、確かに、敬悟の中で人間として大切な何かを育んで来た。

 だからこそ、今の敬悟が存在するのだ。

 ――この人は……。

 きっと、全部お見通しなのだ。

 俺の迷いも、苦しみも。

 それでも、戻ってこいと、一緒に行こうと手を差し延べてくれる。

 俺は、この人のようになれるだろうか?

 敬悟の胸の奥に、熱い想いが込み上げる。

『はい』と頷くその瞳から一筋、光の粒がこぼれ落ちた。

「そう、そう。育てた私が言うんだから間違いない!」

 茜が敬悟の顔を覗き込み、ニヒヒと、明るい声を上げる。

「……俺は、お前に育てて貰った覚えは無いぞ」

 そう言って顔を上げた敬悟の目に、もう涙の影は見えない。

「茜の『オムツを替えた』覚えはあるけどなっ!」

 まるで悪戯小僧のように『ニカッ』と満面の笑顔でそう言い放つと、敬悟は車に向かって駆け出した。

「敬にぃっっ!!」

 茜が、ふくれっ面をしてそれを追って行く。

「やれやれ。茜も少しは、大人になったと思ったんだが……」

 器用なようでいて、実はかなり不器用な甥っ子のこれからの苦労を思い量り、衛はため息混じりに呟いた。

 遠くでアブラゼミが一斉に鳴き始める。

 優しい風が、三人を包み込むように吹き抜けていく。

 振り仰いだ青い空には白い入道雲。

 七月。

 夏は、まだ始まったばかり。

 今日も暑い一日になりそうだった。



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