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16 崩落 1

 

 誰かが泣いている。

 小さな小さな女の子、あれは私だ。

 ――真っ暗は、嫌い。

 ――真っ暗は、怖いよ。

 ぎゅっと握ってくれた暖かい手。

 ――大丈夫。大丈夫だよ。僕がいつも側にいるからね。

 優しい声。

 あれは、あの声は……。

「茜! 呆けてる場合じゃない! しっかりしろ!」

「きゃっ!」

 怒鳴り声と共に強い力で腕を引かれ、茜は思わず短い悲鳴を上げた。

「え? えっ!?」

 茜は敬悟に手を引かれて、地面を駆けていた。

 背後には、唸り声を上げて迫ってくる巨大な黒い影。懸命に走りながら、今の状況を飲み込もうと必死で考えを巡らす。

 ――確か、大きな鬼に追われて、崖下に落ちなかったっけ?

「ここ、地獄じゃないよね?」

「この状況で、良くそんな冗談が言えるなっ!」

「な、何で私たち生きてるの!?」

 さすがの茜も、あの高さから落ちて命が助かると思うほど楽観的じゃない。ケガ一つしていないのが信じられなかった。

「俺に聞くな! 俺がやったんじゃない!」

 と言うことは、私がやったの?それとも、石の力?

 今、茜の目の前に広がるのは、すり鉢状になった崖下の底辺部分で、かなりの広さがある。地面は土ではなく、乳白色の人工物で大理石に似ていた。中心に直系二メートル、高さ五メートルほどの石柱が建っていて、その上に乗っている半円形のドームが青白い光を放っている。崖の上からは分からなかったが、かなり大きなものだ。

 結界の発生装置――。その足下を、二人は間断無い大鬼の攻撃をかわして、ひたすら右へ左へ逃げ回っていた。

 まるで鋭いナイフのように降り注ぐ黒い霧が、今茜が走り抜けた地面に穴を穿って、すぐさま宙に浮かぶ。渦を巻き、また一固まりになって大鬼の形に変化し、二人を追いかける。まるで、猫に弄ばれる鼠だ。際限がない。

 上総のように、生物としての『体』を持っているのならば敬悟にも勝機はある。だが、相手は、実体を持たない言うなれば『精神体』それも一つではなく、敬悟も茜も無数の個を感じていた。

 あの大鬼が精神体が複合してできあがったモノなら、その持久力の差は歴然としている。純血体だろうが混血体だろうが、肉体を持った生物が走り続けられる時間など、たかが知れているのだ。

 茜も軽口を叩いてはいるが、緊張の連続で心身共に、とうに限界点を超えているのは明らかだ。敬悟とて、大差はない。このまま、いつまでも逃げ回れるはずがない。

 逃げ切れないなら、戦うしかない――。

 敬悟は足を止めた。全身で息をしながら、茜は敬悟の足下にへたり込む。

「敬……にぃ?」

「茜、石を使え」

「え……?」

「何処でもいい、この場所から遠ざかるんだ。お前にはその力がある」

 石をつかう?

 石を使って、一人で逃げろって?

「……嫌」

 一人でなんか逃げられる筈がない。逃げるなら二人一緒だ。茜は、ぶるぶると頭を振った。

「茜!」

「嫌ったら、嫌!」

「たまには、素直に言うことを聞いてくれ!」

 大鬼から放たれる一陣の黒い影が、動きを止めた二人に狙いを定めるように、空中でピタリと静止する。

 次に動けば、やられる。敬悟は茜を背に庇い、空を睨んだまま黒い追撃者に向かい合った。

 精神を統一すると、ぎゅっと目をつぶり、強く念じる。

 ―― 一度出来たことだ、必ず出来る。

 お前は、茜を守るためにここに居るんだろう!

 次の瞬間、再び開かれたその双眸は赤く、炎のごとく燃えていた。

 三日月型の金色の虹彩が、大鬼をめ付ける。

 ユラリ。

 息をのむ茜の目の前で、敬悟の身体の輪郭がゆっくりと、ぶれて行く。その全身から陽炎のように深紅のオーラが立ち上った。

 ボキボキボキ――。ゴキリ。

 筋肉が隆起し、骨格が変化する。

 強靱なかぎ爪、鋭い犬歯。

 そしてその力を誇示するかのような、大きな角が頭蓋から天に向かい伸びていく。

 やがて茜の目の前に現れたのは、異形の赤い鬼の姿だった。

 敬にぃ……。

 茜は声もなく、大きな鬼の背をただ見詰める。

「行け、茜!」

 赤い鬼が、黒い大きな影に向かって跳躍した。

 嘘のように体が軽い。体中を巡る膨大なエネルギーが鬼の本能を揺り起こしていくのを、敬悟はひしひしと感じていた。それは、逆らいがたいほどに強烈な、闘争本能だ。

 支配せよ。王者となれ。

 強大な敵を屠れと、本能が命ずる。

 これが、鬼の血を持つ者のサガであるなら、人の世を支配しようとした上総の行動も分かるような気がする。

 ――そうだ、支配してしまえばいい。

 モゾリ。

 どす黒い感情が、渦を巻き、鎌首をもたげる。

『邪魔者は全て消し去ってしまえ。そうすれば、全ては思いのまま、茜を傷つける者など居なくなる』

「くそっ!」

 何を考えているんだ俺は!

 鬼の血に、その本能に翻弄されている自分にカツを入れて、敬悟は目前の敵を見据えた。今倒すべきは、目の前にそびえ立つ、この巨大な鬼であるはずだ。

 ヒュン。

 鋭い風切り音を上げて、鬼本体から飛び出してくる黒い刃を右に左に交わしながら、敬悟は倒す方法を模索する。

 この大鬼が、おそらく『肉体を持たない複数の精神体の塊』だろうという見当はつく。

 人身よりはまだ戦いようがあるはずの鬼の姿に変化出来たのは良いが、力任せに殴りつけてみても、霧のよう感触がなく散ってしまってすぐ又元に戻ってしまう。それでいて、その黒い霧の形作る鋭い刃は実体を持つらしく、敬悟の体を斬りつけていくのだ。

 これでは攻撃を回避できる時間が延びただけで、実質、変化前と何も変わらない。鬼に変化しているとはいえ、その力は無限ではないのだ。

 このままでは、勝てない。

 どうしたら倒せる?

 逡巡する敬悟をあざ笑うかのように、大鬼が二つに分裂して敬悟の周りを高速でぐるぐると旋回し始めた。

「な……に?」

 ピュン、ピュンと、鋭い音が上がるたび、無数の黒い刃が飛びだし、敬悟の体を斬りつけていく。全てを避けきれずに体をかすめ、あちこちで血しぶきが上がる。

「くっ!」

 考えろ。考えるんだ。

 攻撃をかわしながら敬悟は、必死に記憶の糸を辿る。赤鬼から教えられた鬼隠れの里に関する全てのデータ。ここに来るまでに体験した事の中に、こいつを倒す為のヒントが有りはしないか?

『まぁた、泣いているのか?』

 不意に、微かな記憶の断片が蘇る。

 遠い幼い日。あれは、鬼隠れの里に連れてこられたばかりの頃。気付けば、いつも一人で泣いていた。

 母が恋しいと。母の元へ帰りたいと、泣いていた幼い自分。まるで敬悟を恐れるかのように、関わろうとしない里の大人達。そんな中、何かと気に掛けてくれた、陽気な色黒の青年がある時教えてくれた。

『なあ坊主。力ってのはココで使うもんなんだ』

 そう言って、敬悟の胸をツンと指さし、形の良い黒い瞳を細めて愉快そうに笑った。

『むねで、つかうの?』

『ハートだよ、ハート』

『はーと?』

『そう、心からそうしたいと念じること。そうすれば、それが力になる』

「は……」

 思わず、口の端が上がる。

 あれは、あんただったのか、玄鬼。

 あの時、鬼が淵での一件の時。玄鬼に、一時的に力を覚醒させられた時に体感したエネルギーの流れ。

 あれだ。あれを、思い出せ。

 すう。

 息を吸い込み、精神を統一する。

 動きを止めた敬悟の体を、黒い刃が斬りつけていく。

 それでも構うことなく、敬悟は続ける。

『無理に逆らうな。力の流れるまま、受け入れるんだ』

 額から入り、首、胸、鳩尾を巡り全身を駆けめぐるあの時の灼熱感が、玄鬼の言葉と共に蘇る。

 ああ、これだ。

 胸の前で両の手のひらを合わせ、エネルギーを集中させる。ポッと、手のひらの間に赤い光が生まれた。それは徐々に光を強め、大きくなっていく。

 分かったよ、玄鬼。

 力のコントロールの仕方が、分かった。

 敬悟は、手中の光の玉を大鬼目がけ全身全霊を込めて、投げ放った。



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