始まりは雨 2
「疲れただろう。今日は、早めに休みなさい」
全てが終わり親戚の人間も帰って夜も八時を回った頃、自宅の居間で、父・衛が穏やかな声で言った。
いつもなら、理知的な中にも少年のような好奇心に満ちたメガネの奧の瞳も、さすがに疲れの色が隠せない。
「あ、うん……」
敬悟と二人、連係プレーで湯飲みや食器類を片付けていた茜は、自分の方がよほど疲れた顔をしている父にそう言われ、ただ、コクンと頷いた。
「敬悟も、休みなさい。食器の片付けは明日で構わないから」
「はい。そうします」
普段は、茜より遙かに片付けに意欲を燃やすタイプの敬悟も、素直に頷く。
敬悟は『風呂の用意をする』と浴室に向かい、茜は、重い足取りで二階の自室に戻った。
暗い部屋の中には、正面にベランダに面した掃き出しの窓。
右の壁際にベット。
そして、ベッドと向かい合うように机とチェストがおかれている。
いつもと何も変わらない風景。
でも、母はもういない。
この家で母・明日香が過ごした時間はそう多くはない。だが、数少ない思い出は確かに息づいていた。
この部屋で、語り合ったこともある。
でも、もう二度とそんな機会はなくなったのだ。
巡る茜の視線の先で、窓に掛かったオレンジ色のチェック柄のカーテンが、月明かりに照らされて部屋の中に格子模様を落としている。
茜は電気を付けず壁際のベットに、制服のままごろんと腹這いに倒れ込んだ。
――お父さん、一人で泣くのかな?
ふと、そんなことを思う。
「なんで、私は泣けないかな……」
自分は意外と冷たい人間だったのかもしれない。
絶対泣くだろうと確信していた収骨の時でさえ涙は出なかった。母の死を信じたくない、信じられない――というのとも違う気がする。
モヤモヤとした感情が心の奥底でくすぶっていて、気持ち悪いことこの上ない。
我知らずに、今日何度目かの長い溜息が漏れた。
母は大好きだった。
確かに、病弱で入院が多かったため、他の家庭のような親子関係ではなかったかもしれない。
でも、幼いころ病室で読み聞かせてくれた童話の本は、今でも本棚に大切にしまってあるし、年頃になってからは、学校のこと部活のこと友達のこと、何でも相談した。
どんな話しでも、母はいつも楽しそうに笑って聞いてくれた。
その母が死んだ。
死んでしまったのに、涙が出て来ない。
悲しいし寂しい。
なのに何故?
答えの出ない思いが心の中をぐるぐると巡る。
まるで出口のない迷路のようだ、と茜は思った。
トントン。
不意に響いてきたノックの音に、茜ははっとして起きあがった。
「風呂、入って寝ろよ。あ、制服着替えてちゃんと掛けとけよ。シワになるぞ」
ドアから顔を覗かせそう言って、又ドアを閉めて行こうとした、敬悟の表情が固まった――。
いや、”凍り付く”と言った方が良いかもしれない。
茜を見ているのではなく、茜の後ろにある窓辺を食い入るように凝視している。
その表情は、今まで見たことがない種類のもので、茜は意味もなく心がざわついた。
――なに? 怖い顔して……?
ちりちりと首筋の産毛が粟だつ。
「茜っ……!」
「え?」
「そのまま静かにこっちに来いっ!」
押し殺したような声とその表情にただならぬ物を感じ、茜は敬悟に言われるまま静かにベットから降りた。
この部屋で、何かが起こっている。
茜は、見るまいと思った。
『窓辺を見てはイケナイ』
そう本能が警鐘を鳴らしている。
なのに。
茜は、吸い寄せられるように敬悟が見詰めている窓の方に視線を向けた。
向けないでは居られなかった。
瞬間、息が止まる。
そこには、何かがいた。
窓は閉まっている。
なのにカーテンがゆらゆらと揺らめいている。
揺れたカーテンと窓の間にいるもの。
それは――。
「お、鬼……?」
オニ――。
驚きに見開かれた視線の先には、そう形容するしかない異形のモノが立っていた。
二メートルはあろうかという巨体に、赤黒い肌。
盛り上がった山の様な筋肉の頂上に、四角い岩の様な頭が乗っている。
そこあるのは、獲物を捕らえたら決して放さない、肉食獣を彷彿とさせる鋭く尖った犬歯。
いや、正にそれは獲物を狩る『牙』意外のモノには見えない。
まるで血の色を思わせる真っ赤に燃える双眸が、瞬きもせずに茜を睨み付けている。
そして――。
その頭上に生えているのは間違いなく『角』だった。
『一本角の赤鬼』
その姿はまるで、日本の昔話から抜け出て来たようで滑稽ですらあった。
な……に?
なんなの、これは?
「石ヲ、返セ……」
現実を把握出来ないで呆然としている茜に向かい、鬼がくぐもった声を発した。
「えっ?」
石?
鬼の言葉に、茜の思考が止まる。
次の瞬間、その鬼は茜の目の前に立っていた。
歩いて来たのではない。
瞬きをして目を開けたら、目の前に立っていたのだ。
その余りの威圧感に、恐怖すら凍り付いてしまったように茜はただ棒立ちになっていた。
「石ヲ、返セ」
そう言うと鬼は無造作に、茜の胸に手を伸ばした。
目の前に迫る、赤いグロテスクな鬼の腕。
巨大で強靱なかぎ爪。
その爪が目の前に迫っていた。
い……や。
茜は幼子が『いやいや』をするように、首を振った。
いや、実際は振ったつもりで、体は固まったまま動いてはいなかった。
逃げ出したいのに、一目散に敬悟の元へ走って行きたいのに、体が言うことを聞いてくれないのだ。
まるで、『鬼』の魔に魅入られてしまったかのように、目をそらすことも瞬きをすることすらも叶わない。
恐怖に震える茜を嘲るように、ニヤリと鬼が笑った。
大きく上がった己の口角をなぞるように、それ自体が別の生き物のような長く赤黒い舌がヌタリと蠢く。
近付くほどに強くなる生臭い匂いは、ますます茜の恐怖心を煽り立てた。
『喰われる』
それは、動物が本能で感じる『狩られる』ことへの恐怖だった。
正にその切っ先が届く瞬間、茜の呪縛が解けた。
「いっ……、いやあぁああぁぁあっっっ!」
茜はあらん限りの力で悲鳴を上げながら、そのまま胸を両手でかばい後ろにへたり込んだ。
刹那、視界が青い閃光に染まる。
全てが色を失っていく。
使い慣れたお気に入りの家具達も、チェックのカーテンも、目の前の鬼ですら色を無くしてその輪郭が溶けるように消えていく。
たすけて。
「茜っ!」
敬にぃ――。
目も眩む閃光に意識を焼かれながら、茜は、遠くで自分を呼ぶ敬悟の叫び声を聞いたような気がした。




