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10 裏切りの夜 1

 どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 とうに日も沈み、広過ぎる和室は薄闇の中、静寂に包まれていた。

 一人部屋に残された茜は、部屋の隅で膝を抱えそこに顔を埋めて、上総かずさの言葉をひたすら反芻はんすうしていた。

『その男は、貴方を助けてはくれませんよ』

 ――うそ。

『本当の神津敬悟は、十六年前の事故で母親と共に死んでいます』

 ――うそだ。

『ああ、貴方の親友の高田真希。彼女を鬼人化させたのは、彼ですよ』

 ――うそだよ!

 否定して欲しいと必死に掴んだ茜の手は、静かに外された。

 そして、覗き込んだ瞳に映ったのは、赤く禍々しく光る双眸――。

 あれは、紛れもなく『鬼』の眼だ。

『何があっても、俺は、お前の味方だ。それを忘れるな』

 敬悟の言葉が、茜の胸をぎる。

 何があっても?

 味方?

 誰が、誰の味方?

『茜ちゃん、大丈夫だよ。僕がいつも側にいるからね……』 

 遠い幼い日から絶え間なく注がれていた、優しい眼差し。

 いつだって自分の味方だった大好きな従兄。

 ――あれが、全部偽りのものだったの?

 茜は、抱えた膝に顔を埋めたまま、叫び出したい衝動をじっとこらえていた。

 

 スッと音もなく襖が開き、部屋の電気が付けられた。

 急に明るくなった室内にまぶしげに目を細めながら、茜は、入ってきた人物の方にゆっくりと視線を巡らす。

 夕食用のお膳を持った敬悟が静かに近付いてくるのを、茜は死んでしまったような光の無い瞳で見上げた。

 その茜の顔にチラリと視線を送った敬悟は、無表情で座卓の上にお膳を置くと静かに口を開いた。

「食べておけ……」

「……いらない」

 本当は話すのも嫌だったが、これ以上話しかけられたくなくて、茜は膝の上で組んだ自分の指先に視線を移して、ポツリとささやく。

「食べておかないと、いざと言う時に何も出来ないぞ?」

 その声はごく穏やかだ。

 いつもと変わらないその穏やかさが、茜の癇に障った。

「い……ざ?」

 押さえていた感情の留め金が、ぷつんと音を立てて吹き飛んでしまう。

「いざって、何!?」

 茜は、畳を蹴るように立ち上がると、敬悟に詰め寄り、その表情のない顔を睨み付けるように見据えた。

「今以上に、いざって言う時なんかあるのっ!?」

 心の中で渦を巻いて吹き出す場所を求めていた感情が一気に溢れ出す。 

「今まで、ずっと騙して来たの!?」

 高ぶりすぎた感情のせいで、声が震えてしまう。

「……」

「全部、嘘だったの!?」

 黙ったままの敬悟の両腕を掴んで揺さぶる。

 何かの間違いだと、全部嘘だったと否定して欲しかった。

 だが敬悟は何も答えず、茜の為すがまま、ただその様子を見詰ているだけだ。

 手のひらに伝わる温もりは何一つ変わりがないのに、今はこんなにも遠いその存在。

 ――私は、いったい、この人の何を見てきたの?

「答えてよっ!」

 茜の瞳から、つうっと一筋涙がこぼれ落ちる。それを目にした敬悟の表情が初めて動いた。眉をひそめ曇る表情は、どこか悲しげにも見える。

「木部……上総の言ったことは、みんな事実だ。……俺は神津敬悟ではないし、高田真希を操ったのも、俺だ」 

 バシッ!!

 言い終わるや否や、茜は思いっきり敬悟の頬をひっぱたいた。

 生まれて初めて人を叩いた手の痛みよりも、心の方が何倍も痛いのだと言うことを初めて知った。

 無言でペンダントを首から外す。

「これが、欲しかったんでしょう?」 

 ポンと、敬悟の足下に放った。

「あげるよ!」

 最初から全部仕組まれていたのだ。

 茜は『鬼隠れの里(ここ)』に来るべく、導かれた。それも信じて疑いもしなかったこの男の手によって――。

 悔しさと憤り。そして、哀しみ。

 渦巻く感情が、涙となってポロポロとあふれ出した。



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