玄鬼抄 5
衛の足は、ほぼ元取りに治療出来たが、その分、白鬼の消耗は激しかった。
体が、泥のように重く、立ち上がるのがやっとだ。
たぶん、今までこんなに精神エネルギーを消耗したことはないのだろう。
白鬼の中の茜にも、それがはっきりと分かった。
「これで、足はもう大丈夫です。では、行きましょう」
「ありがとう。大分無理をさせてしまったようだ……大丈夫かい?」
明らかに具合の悪そうな白鬼の様子に、衛が心配気に顔を覗き込む。
「私は平気です。私のことよりも、ご自分のことを心配して下さい。これから、何をしようとしているのか分かっていますか? もしかしたら……」
そこに有るのは、死かもしれないのに。
「分かっている……つもりだけど。その、君の治療が無駄にならないように頑張るよ」
本気が冗談か分からない衛の言葉と表情に、白鬼は口の端を少しだけ上げた。
「なら、行きましょう」
二人は、明日香の張った結界を抜けて歩き出した。
何の変哲もない、のんびりとした田舎町の風景。
でも、歩くほど張り詰めていく重い空気は、痛いくらいに心と体に突き刺さる。膨らんでいく恐怖心は、茜と、そして白鬼のものでもあった。
たどり着いたのは、大きな日本家屋だった。
家と言うよりもはや『お屋敷』と呼ぶにふさわしいその重厚な門構えに茜は、修学旅行で見学した武家屋敷を思い出した。
家の周りをぐるりと囲う板塀。その中心にある茅葺きの大きな棟門をくぐり、手入れの行き届いた庭木の間をしばらく歩くとやっと玄関に到着する。玄関には、顔色を無くして腰を抜かしたように座り込んだ家人の女性がいた。
「何があったの? 明日香が戻ってきたでしょう? 兄さんは、玄鬼は何処にいるの?」
「白鬼さま! そ、それがっ……」
ただならぬ雰囲気に、白鬼は矢継ぎ早に質問を浴びせかける。女性は、堰を切ったようにしゃべり出した。
女性の話を聞き終わるやいなや、白鬼は屋敷の外へと駆けだした。
その後を、衛が必死で付いていく。ここしばらく病人生活が続いていた衛には、かなりきつい。
「いったい、どういうことなんだ!?」
上がる息の下で、やっとのことで衛は前を走る白鬼に質問を投げた。
「密告者がいたの! あなたを匿っていたことが、赤鬼に全部筒抜けになっていた」
だから予定よりも早く、赤鬼は帰ってきたのだ。
「それで、明日香さんは!?」
衛の問いに、白鬼が足を止めた。通常なら何のことはない運動も、今の彼女には大分負担になっている。白鬼の肩も、衛に負けず劣らず大きく上下していた。
――もしかしたら、もう間に合わないかもしれない。
それでもこの人は、明日香と共にこの里を出ようと、彼女を助けたいと思うのだろうか?
焦燥感と複雑な想いが、白鬼の中でせめぎ合う。
「いいですか。今から私の言うことを良く聞いて下さい。理解出来ても出来なくても構いません。でも、決断して下さい。これからどうするか」
出来るなら、このままこの里を出ていって欲しい。
微かな願いを込めて言った白鬼の言葉に衛は少し考え深げな表情をしたが、すぐにこう答えた。
「決断なら、とうに出来ているよ」
ありふれた日常の風景の中で、明らかに『そこ』だけが異質だった。
岬の切り立った崖に、ぽっかり空いた大きな洞窟。入り口には小さな赤い鳥居が、ポツリと立っている。
渡されたしめ縄が、海風になぶられて激しく揺れていた。
白鬼と衛がそこに着いたとき、鳥居の下で片膝を付いて洞窟を睨んでいる人物がいた。
浅黒い肌。
長めの黒髪。
少しつり加減な、大きな黒い瞳。
精悍な顔立ちの青年は、人型の玄鬼だ。
脇腹から左足にかけて、出血しているらしく、濃紺の作務衣が黒く濡れている。
白鬼は、慌てて駆け寄った。
「兄さん! 何があったの!?」
「油断した。まさか、赤鬼が、ここまで苛烈に反応するとは思わなかった……」
玄鬼の顔が苦痛で歪む。
「ちょっと傷を見せて」
「つっ!」
脇腹の傷はかなり深い。人間なら、とうの昔に失血死していてもおかしくはない。
白鬼は迷わず、兄の傷に手をかざした。




