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   玄鬼抄 4

 結界の中の建物は、外から見た時と何ら変わりがなかった。

 だが、大きな違いは生活感があることだ。そこに、人の暮らしている気配がする。

 茜は、明日香と玄鬼の後を付いていきながら、キョロキョロと周りを見渡した。

 昔ながらの農家造りの建物は、思いの外手入れがされていて清潔だった。広い土間のある玄関に入り、広い縁側を部屋三つ分奥に進んだところ。

 そこで、明日香が膝をついて、障子の向こうに声を掛けた。

まもるさん。明日香です」

 相手も来る頃合いだと待っていたのか、すぐに返事が来た。

「はい。どうぞ」

 聞き慣れた穏やかな声が、茜の耳に心地よく響く。

 静かに障子を開けると、明日香は嬉しそうな笑みを浮かべた。

「お加減は、どうですか?」

「ええ。今日は痛みも無いし、大分良いです。その、不思議なおちびさんのおかげですね」

 明日香の問いに、布団の上で半身を起こした青年は、柔らかい笑みを浮かべる。

「こんにちは。おちびさんたち」

 布団の上に座って、白黒兄妹子猫を見詰める理知的な瞳をした優しそうな青年。

 それは間違いなく、茜の父・神津衛かみつまもるだった。


 布団の上に横たわった浴衣の下の父の体は、正に満身創痍状態で、目にした茜は思わず息を呑んだ。

 白鬼ビャッキの治療で大分状態は良くなっているが、体全体に広がる無惨な傷跡は、命の危機にあったことを容易に窺わせる。特に右足が酷く、大腿部にぐるりと残る傷跡が生々しい。

 茜は、白鬼の力を使って衛を丁寧に治療した。

 治療と言っても、『治れ』と念じるだけだったが、衛の顔色が良くなった所を見ると、効果はあったようだ。

「ありがとう、おちびさん」

 治療が済んだ後、衛はそう言って白鬼の頭を優しく撫でた。

 気持ちよさに、思わず喉がゴロゴロと鳴る。

 傍らにいた玄鬼がそれを見て、不機嫌に鼻を鳴らす。

「今日は、とても良いお天気ですよ。少し、外をお散歩しましょうか?」

 明日香が甲斐甲斐しく衛の身繕いに手を貸しながら、そう提案した。

 仲むつまじく、寄り添いながら庭を散策する二人が惹かれあっていることは、茜にも一目瞭然だった。

 玄鬼の話を聞く限りでは、二人は出会ってまだ二週間の筈だが、人が惹かれ合う度合いは、流れる時間の長さとは関係がないらしい。

 仲の良い両親の姿を目で追いながら茜は、同じく傍らで二人の姿を面白くなさそうに見詰めている玄鬼に、全てを打ち明けて助けを乞う事を決意した。

 こうしている間も、敬悟と信司は危機に瀕しているのだ。

 玄鬼なら、きっと助けてくれる――。

 そんな確信めいたものが、茜の中に存在した。

「あの、玄――」

 声を掛けようとした茜は、背筋を這い上がってきた強烈な感覚に、全身が総毛立った。


 この感覚には覚えがある。

 あの日。

 赤鬼シャツキに襲われた日に感じた、圧倒的な力に対する恐怖の念。

 明日香もそれを感じたのか、不安げに足を止めた。

「明日香さん?」

 普通の人間である衛には、そんな感覚は備わっているはずもなく、傍らで急に怯えたように表情を硬くした命の恩人の少女の顔を、ただ気遣わしげに覗き込んだ。

『ちっ!』っと、玄鬼が舌打ちをして、足を止めた恋人達に向かって叫び声を上げる。

「明日香! 赤鬼が帰ってきた。一度屋敷に戻った方が良いぞ!」

「ええ、分かっているわ」

 青ざめてはいるが、明日香は気丈に頷いて白鬼に視線を移す。

「白鬼は、衛さんとここにいて」

え!?

「で、でもっ」

「お願い。必ず戻るから、それまでお願い!」

 ――彼を守って。

 明日香の心の声が、白鬼の能力を介して茜に届く。

 必死な明日香の様子に、茜は事態が切迫していることを悟った。

 恐らく、赤鬼にここが見つかれば、父は命を奪われる――。

「分かりました!」

 茜は、しっかりと頷いた。


 なんてこと。

 何だって、こんな最悪のタイミングでここに来たの?

 何のために?


 家で赤鬼に襲われた時は、たぶん命の危険を感じたから、無意識によそに逃げたんだと茜は思っている。鬼志茂の時は、同情したから鬼女の思いに引かれたのだと玄鬼が言っていた。

 そして、鬼が淵の時は、不用意に石を使おうとしてコントロールが効かずに、鬼に結界の中に引き込まれた。

 でも、今度は……?

 確かに、敬悟と信司を助けたい一心で石の力を使った。

 どこかに飛ばされるのは予想できる。

 でも何故『ここ』なんだろう?

「君にも迷惑をかけるね、おちびさん」

 衛が、白鬼をそっと抱き上げる。

 その時、白鬼の気持ちが茜に流れ込んできた。

 愛しい。

 愛しい。

 それは、淡く一途な恋心。

 ――白鬼は、衛を、お父さんのことを好きだったの?


「今まで、ありがとう」

 衛は、笑顔でそう言うと、白い子猫をそっと地面に降ろした。そのまま、完治しきれていない右足を若干引きずりながら、家の中に入っていく。

 ちょっ、ちょっとお父さん!

 何をする気なの!?

 茜は、慌て後を追う。

 部屋に戻った衛は、明日香が用意して置いたのだろう濃紺の作務衣に着替えると、寝ていた布団をきちんと畳み、八畳ばかりの部屋を見渡した。

「もう、ここに戻ることはないと思うと、淋しい気がするな……」

 もう、戻らないって……。

 お父さん、まさか赤鬼の所に行くつもりじゃ無いでしょうね!?

 だ、だめだよ!

 ここに居なくちゃ、だめっ!

 次の瞬間、茜の目線が一気に高くなった。

 目の前、頭一つ分高いところに、衛の驚いた顔がある。

「……驚いたな」

 至極妥当な言葉が、衛の口からこぼれ落ちる。

「あ、あれ?」

 茜は恐る恐る、壁に掛かっている古い大きな丸鏡を覗き込んだ。

 透き通るような、白い肌。

 額に浮かぶ、金色の紋様。

 純白に輝く、長く豊かで真っ直ぐな髪。

 そこに映っているのは、野生の豹を思わせるしなやかな肢体を濃紺の作務衣に包んだ、美しい少女。人型の玄鬼によく似た、少しつり加減の大きな琥珀色の瞳が、驚いたように茜を見詰めていた。

 これが白鬼の本来の姿なんだ――。

「おちびさん、悪いけど、明日香さんの所まで案内してくれるかな?」

「え?」

 既に驚きの波が去ったのか、それともある程度予想したことだったのか、とんでもないことをごく穏やかに言う衛の顔を、茜は呆然と見上げる。

「彼女には、命を助けて貰った。今度は、私が彼女を助ける番だ」

「明日香を……助ける?」

 ゆっくり、衛は頷く。

「彼女は、ここから、鬼隠れの里から出たがっているんだ。だから、そのために私が出来ることをしようと思う――。手伝ってくれるかい?」

 口調は柔らかいが、真っ直ぐな瞳には固い決意が垣間見えた。

 茜は、この瞳を良く知っている。

 自分の意志を貫こうとするときの父の瞳。

 穏やかだが、こうと決めたときの頑固さは、一七年間娘として暮らしてきた茜自身が一番良く知っていた。


「……その右足、今、無理に動かしたら一生引きずりますよ? それでも行くんですか?」

「はい」

 白鬼のせいいっぱいの制止の言葉に、衛はそれまでと変わらない穏やかな笑みを浮かべる。

 ふう。

 白鬼は己の想いを吐き出すように大きなため息を一つついて衛の前に跪くと、右大腿部に手のひらをかざした。

 そのまま目を閉じて、静かに念じる。

 傷つき壊れた細胞の一つ一つをつなぎ合わせ、再生する。その作業は、膨大な量の精神エネルギーを消費してしまう。極端な精神エネルギーの損失は、彼ら鬼の一族にとっては致命的で、悪くすれば肉体の崩壊を招く恐れがあった。だからこそ、毎日少しずつ時間を分けて治療をしてきたのだ。

 既に今日は治療が済んでいる。これ以上は完全に許容外だったが、それでも白鬼は治療を続けた。

 彼女が、白鬼が衛に対して今出来ることは、それしかなかったから。

 ――行かないで。

 ――ここにいて。

 白鬼の心とシンクロしている状態の茜は、その切ない思いに、胸が痛んだ。




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