玄鬼抄 3
幾分慣れてきた、意識の覚醒の瞬間。
それでも、気持ちの良い物ではない。
くらくらと世界が回る感覚に、三半規管が悲鳴を上げている。
ううっ。吐きそう……。
「白鬼?」
その時、茜は懐かしい声を聞いた。
耳に心地良い澄んだ声。
「白鬼、どうしたの?」
ビャッキ?
それが自分への呼びかけだとは、茜は、すぐに気付かなかった。
「どうしたんじゃ、白鬼?」
「え?」
この声にも、聞き覚えがある。
ハイトーンの子供のような声。
視神経がようやく正常に活動し始めて、最初に目に入ったのは『玄鬼』の姿だった。
人型のではなく、黒猫の玄鬼だ。
「玄……鬼?」
あれ? 何か変。
茜は、自分と玄鬼の目線が同じ高さにあることに気付いた。
ぐるりと周りを顔を巡らせると、目の前に大木のような巨大な足が二本あった。
呆然と、作務衣のようなデザインの紺色の服を上に辿っていくと、その人物の顔に辿り着いた。
抜けるように白い肌。
腰まで伸びた、ふんわりとウエーブの掛かった柔らかそうな、栗色の髪。
少し珍しい色合いの鳶色の大きな瞳が、心配げに茜を見詰めている。
「そ……んな」
茜は、驚きのあまり、言葉を飲み込んだ。
お母さん!?
それは、死んだはずの茜の母・明日香だった。
ただ、年が大分若い。茜には、自分とそう違わない年齢に見えた。
どういうこと?
また、過去にタイム・スリップしたの?
「あ……明日香?」
恐る恐る、名前を呼んでみる。
「なぁに、白鬼?」
やっぱり、間違いない。
名を呼ばれ、ニコリと浮かべた少女の笑顔は、間違いなく母のものだ。
「ここ……、どこだっけ?」
あははは、と引きつり笑いで聞いてみる。
「どこって、鬼隠れの里でしょ? 本当、なんだか変よ、大丈夫白鬼?」
「大方、食い過ぎでもしたのであろう?」
ニヒヒと玄鬼が、からかい混じりのヤジを飛ばすが、茜の耳には届かない。
「鬼隠れの里……?」
ポツリと呟き、ゆっくりと視線を巡らせる。
緑の木々。
木々の集まった森。
その向こうの、青い山の峰。
青い空と、浮かぶ白い入道雲。
そして見えないが、海が近いのだろうか? 微かな磯の匂いがする。ポツリポツリと、まばらながら人家の屋根も見える。
そこにあるのは、緑深い、ごく普通の田舎町の風景だった。
ここが、鬼隠れの里――?
どこかに似ている。
そう。
つい最近、これと似たような風景を見た。
青い空と、白い入道雲。
空を貫く白い飛行機雲。
「……あっ!?」
敬にぃ! 橘君!
茜は、意識を失う前に自分が置かれていた状況を、思い出した。
惚けている場合じゃない。
早く、元の場所に戻らなきゃ!
茜は、いつもの癖で、胸のペンダントを握りしめようとした。
が――。
ペンダントが無い。
それ以前に、ペンダントを握れる手が無かった。
いや、手は一応ある。
ただそれは、白く毛むくじゃらで、手のひらにはプニプニとした肌色の肉球が付いていた。
ええっ!?
これは、もしかして!?
茜は、慌てて自分の体を見回した。そして知った衝撃の事実。
茜は、人では無かった。
玄鬼と瓜二つの、色違いの白い子猫。
それが、茜の今の姿、『白鬼』だった。
どうしよう!
どうしよう!
どうすればいいの!?
『守りの石』があれば何とか帰れる望みもあるが、肝心なその石が無い。玄鬼に助けて貰いたくても、この玄鬼は茜の知っている彼ではないのだ。
他に、何か方法はないのか。
「またあそこに行くのか、明日香?」
玄鬼の声に、茜はハッと我に返った。
「ええ、もう大分ケガも良くなったのよ。これも白鬼の治療のお陰ね」
「え?」
明日香のセリフに茜はぎょっとする。
白鬼っていうことは、私のこと!?
「今日もお願いね白鬼。赤鬼が帰ってくる前に、衛さんに、ここを出て貰わないと大変だから……」
『マモル』!?
って、まさか。
思いも寄らない聞き覚えのある名前が母の口から飛び出して、茜は目を丸くした。
「ふん。神津なんて大層な名だが、疫病神も良いところだ。早いところ出て行って貰いたいものだの」
玄鬼は、その人物が嫌いなのか、憎々しげにそう言って眉を寄せた。
「うそ……」
神津衛――。
それは、茜の父の名前だった。
衛のかくまわれている里外れの空き家に向かう道すがら、玄鬼に訝しがられながらも、茜は、今の状況をおおむね聞き出すことに成功した。
二週間ほど前に、大学の考古学チームが、この『鬼隠れの里の近くの洞窟』へ遺跡発掘にやってきた。それは以前から予定されていた事だったが、何をどうしたか通常は起こりえない事故が発生した。
『結界』を破って、その一行が鬼隠れの里のエリアに入り込んでしまったのだ。
そこで『防御システム』が働き、一行は落盤事故に見舞われた。
全員が死亡したかに思われたが、一人だけ生存者がいた。
それが、教授の助手として発掘に参加していた神津衛。
つまりが、茜の父だった。
それを、里の者に内緒で助けたのが、一族の総領の娘で茜の母親。
木部明日香。
理由は分からないが、茜は、父と母の出会った時代に飛ばされてしまったようだ。
何か関係があるとすれば、思い当たるのは、最後に聞いた玄鬼の声――。
『そうだ。それで良い、茜』
確かに、あれは玄鬼の声だった。
結界の中に入れないと言いながら、やはり助けに来てくれたのだろうか?
いっそ、ここの玄鬼に事情を話して――。
「どうした白鬼? 本当に、お前おかしいぞ。まだボケルには早いぞ妹よ」
「うん……え!?」
妹!?
白鬼って、玄鬼の妹なの!?
「お……兄さん?」
「なんだ妹よ」
「……」
白黒子猫コンビが兄妹の絆を確かめ合っているうちに、一行は目的地に到着した。
林の奥にひっそりと隠れるように建つ大きな屋敷は、空き家というよりは廃屋に近かった。当たり前だが、人の気配は全くない。
先頭を歩いていた明日香は、建物の玄関の前で立ち止まると、スッと両手を頭の上にかざした。
手のひらを建物に向けて、精神を統一するように静かに目を瞑り、口のなかで何か呪文のようなものを唱える。
別に変化は無い。
が、茜はそれが結界を解いているのだと分かった。
もしかしたら、白鬼本来の記憶が、茜に知識を伝えているのかもしれない。
茜はそう思った。
「さあ、行きましょう」
『ここに来るのが嬉しくてしょうがない』
明日香が、そんな笑顔を浮かべて、建物へと入っていく。
玄鬼と、茜の心が入った白鬼がその後を追って、結界の中へと足を踏み入れた。




