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   玄鬼抄 2

 幾分欠け始めた青白い月灯りの下、茜は玄鬼の後を追って懸命に走った。

 棚田のあぜ道を抜け、小さな林を駆け抜ける。

 上がる息の下、揺れる茜の視界にやがて入ってきたのは、この村に着いた日に訪れた『鬼神さま』を奉っている『鬼押神社』のある大きな森だった。

 黒々とした木々の間。赤い鳥居が、月の光に照らし出されてポツリと浮かび上がっている。

「ここじゃ。この中に敬悟と信司は捕らえられておる」

 鳥居の前で、玄鬼が立ち止まった。

「こ……こに?」

「ああ、間違いない」

 夜の神社は、暗い森の懐に抱かれて静かに佇んでいる。その闇の深さに、茜は身震いした。

 ――怖い。

 闇の深淵。

 そこに潜む得体の知れないモノへの恐怖。

 それは、幼い頃から茜が感じていたものだ。

「ワシは、これより先には入れぬ。何があっても、助けてやることは出来ぬぞ? それでも行くのか、茜?」

 浮かび上がる玄鬼の瞳に宿る、厳しい光。

 それは、その言葉が真実であることを茜に教えた。

 何も出来ないかもしれない。

 いまだに、何なのかさえ分からない『守りの石』と、それをコントロール出来ない不安定な自分の力。茜にはそれしかない。

 怖いし、自信なんか無い。

 それでも、この中には大切な人たちが居る。

 捕らわれている。

「私、行くよ」

 茜は、決意を込めてきっぱりと言った。


 単なる監視者だと言いつつも、いつも助けてくれる小さな子猫。感謝こそすれ、恨むわけなどない。

「ここまで、ありがとう玄鬼――」

 茜は、子猫の玄鬼を抱き上げると、その鼻に自分の鼻をコツンとくっつけた。そしてそっと玄鬼を地面に下ろすと、踵を返し鳥居の中へと足を踏み入れた。

 だが、鳥居を抜けた筈の茜の姿は、鳥居の向こう側には現れなかった。

 後に残るのは、ただ静かに佇む赤い鳥居と、そこにちょこんと座る黒い子猫。

 金色の瞳が、遠くを見るように細められる。

 浮かぶのは、憧憬と悔恨の色。

「ったく、嫌になるくらい良く似てやがる……」

 その子猫の呟きを聞くものは、誰も居なかった。


『鳥居』とは、神域を象徴する一種の門。

 人と神の域を隔てる『境界線』なのだと敬悟は言っていた。

 鳥居をくぐった瞬間に茜を襲った、強烈な感覚。

 それはまるで、ピリピリと張りつめた空気が鋭い棘と化して、細胞の一つ一つに突き刺さるような、そんな痛みを伴う不快感だった。

 全身が総毛立っているのは、冷たい北の地の夜気のせいばかりでは無い。

 ――何か、とてつもなく大きな力が、この先にある。

 茜自身は気づいていない能力の高まりが、敏感にそれを感じ取っていた。

 茜は、振り返りたくなる気持ちを奮い起こして、一歩一歩急な石段を上って行く。

 力の源。

 神社の境内へと向かって。


 石段を登りきり、真っ直ぐ闇に包まれる境内に向かって足を進める。

 その時不意に、茜の視線の先で青白い炎が出現した。

 一つ、二つ、三つ。

 まるで蝋燭に炎を灯すように、それは、茜を誘い増えていく。

 その炎の導く先に、黒い大きな人影を認めて茜は思わず足を止めた。

 ポウ――。

 揺れる青い光に照らされて浮かび上がる、異形の影。

 ――鬼だ。

 赤鬼シャッキよりも更に大きな鬼。

 まるで黒い大きな岩の固まりのような巨体の上の、金色に輝く鋭い双眸が茜を見据えている。

 そのあまりの大きさに足がすくむ。

『何用だ、人間の娘。我の贄になりたいのか?』

 地の底から響いて来るような声が、ピリピリと空気が震わす。

「私の、従兄と友達を帰して」

 茜は、胸のペンダントを握りしめながら、鬼の目を真っ直ぐ睨み返した。

 張り詰める空気。

 少しでも身動きしようものなら、瞬時にその強靱なかぎ爪でなぎ倒される。目を逸らしたら、そこで全てが終わってしまう。

 それは、動物としての本能が抱く、狩られる事への恐怖。

「私の、従兄と友達を帰して!」

 ともすれば、逃げ出したくなる恐怖心と戦いながら、茜は真っ直ぐ鬼の双眸を睨んで再び静かに言い放った。

 数瞬後、茜は『ふうっ』と、張り詰めていた空気が緩むのを感じた。

 鬼が、笑ったのだ。

『気の強い娘よの――。そんなに、この者たちが大事か? 人間の男など、吐いて捨てるほどいように』

 ポウッ――。

 まるで、別の空間から現れたように、鬼の足下に横たわる二つの人影が浮かび上がった。

 ボロボロに引き裂かれた寝間着に滲む赤い色彩に、茜は息を呑む。

 薄闇でもそれと分かる、蒼白な顔色。

 閉ざされた瞳。

 茜の脳裏に、倒れたまま目を覚まさなかった真希の姿がフラッシュバックする。

 背筋に、冷たい戦慄が走り抜けた。

「敬にぃ! 橘君!」

力無く横たわる二人の名を呼び駆け寄ろうとするが、何かの力に阻まれて進めない。

「な……に、これ……っ」

 鋭い破裂音を上げて、放射状に広がった青い炎が茜を押し戻す。

 渾身の力を込めているのに、スニーカーの靴底が後ろにズルズルと滑って行く。

『去れ、人間の娘よ。今なら、その無謀な勇気に免じて見逃してやろう。だが、あくまでも我に逆らうならば――』

 再び張り詰める空気に、茜は一瞬ひるんだ。

『お前も、こやつらと共に、喰ろうてくれるわ』

 喰らう――。

 鬼が、人を喰らう――。

 冗談じゃ、ない。

 こんな所で、訳のわからない鬼になんか、食べられてたまるもんですか!

 茜は、胸のペンダントの石を、ぎゅっと右手に握り込んだ。

 ヒンヤリとした冷たい感触が、手のひらに伝わる。

 ――お願い、力を貸して。

 敬にぃと、橘君を助けて。

 一心に、願いを込める。

 すると、微かに石が熱を帯びてきたような気がした。

 いける!?

 力を、コントロール出来る!?

 希望の光が射したかに思えた。

 だが、そこまでだった。それ以上、なんの変化も起こらない。

 ほのかに熱を帯びた石が、緊張と寒さで冷たくなった茜の手の平を温めただけだ。

 そんな……。

 愕然とする茜の耳に、鬼の非情な声が届く。

『聞かぬか……。ならば――』

 鬼が、足下に横たわる一人の首に手を掛けて、片手で無造作に掴み上げた。

「橘くんっ!」

 信司は、ぴくりとも動かない。

 だた鬼の成すがままに、力無くぶら下がっている。

「やめて! お願いだから、橘君を放して!」

 ゴキリ――。

 茜は、自分の叫び声に重なって響く、骨の砕ける鈍い音を聞いた。

 そ……んな。

 そんな、ばかなこと、起こるわけ、ない。

「だ……め」

 震える声が、喉から絞り出される。

『次は、こやつか』

 ゴトリ。

 信司の体を投げ捨てると、鬼は、次の獲物へ、敬悟へと手を伸ばした。

 だめ。

 茜は、ゆっくりと首を振った。

 まるでその反応を楽しむかのように、鬼は目を細める。

 だめだよ!

 敬悟の首に、鬼の巨大な手が届く。

 だめぇーーーっ!!

 茜の感情が爆発する瞬間、それに呼応するかのように、手のひらの中の石が急激に熱を帯びた。

 走る青い閃光。

 全ての色が、光の中に溶けていく。


『そうだ。それで良い、茜』


 意識を手放す間際。

 茜はそう呟く、玄鬼の声を聞いた気がした。





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