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07 玄鬼抄 1

 長い、長い時の中で、ただ一度、心惹かれた存在。

 触れることも叶わず、想いを告げることも叶わず、

 ただ、見詰めていた。

 それが、至上の喜びだった――。

 もしも、また生まれ変われるとしても、

 我は、見詰め続けるだろう。

 あなたを、

 あなただけを――。




 青森県、鬼押村おにおしむら

 山間に位置する緑豊かなこの小さな地には、昔ながらの、のんびりとした農村の風景が広がっていた。

 空の青。

 白い入道雲。

 様々な緑のグランデーション。

 その緑の大部分を占める、棚田の青々とした稲穂を撫でながら吹いてくる午後の風は、とてもさわやかだ。

 遠くからは、せわしない蝉の声が聞こえてくる。

 さすがに東北の地だけあって、七月といっても関東よりは大分しのぎやすい。京都の、あのうだるような蒸し暑さに比べれば、天国と地獄。涼しいくらいだ。

 ここ三日ほど借りている民宿の広い縁側には、気持ちの良い風が吹き込んでくる。

 でもそのさわやかさとは対照的に、茜の心は晴れなかった。

「結局、ここでも手がかりが無かったね……」

 縁側に腰掛けて、女将さんが出してくれた小玉のスイカを頬張りながら、茜は遠くに連なる山の峰の向こう側に消える白い飛行機雲を、ぼんやりと目で追いながら呟いた。

 茜の隣に座る敬悟と信司、そして茜の膝を昼寝の定位置と決めているらしい玄鬼。

 三人と一匹は、それぞれの思いを抱えて、同じ風景の中に身を置いていた。


 澄んだ空気。

 豊かな自然。

 素朴で温かい人たち。

 こうして、こんな風にのんびりと日常の風景に身を浸していると、自分が何をしに来たのか忘れそうになる。

 こんな事じゃいけない――。

 そう思うのに、現実には何も出来ずに時間ばかりが過ぎていく。

 鬼の文字を名前に持つこの村には、特に『鬼隠れの里』に関連する手がかりも、鬼に関する事件も無かった。

 鬼にまつわる事と言えば、『鬼神さま』と呼ばれる鬼を神様として祭る風習があって、この時期お祭りがある。それくらいだった。

 完全に、空振り。

 遠くまで来た分、収穫のない事実は焦りと疲労感を増幅させた。

 敬悟も、茜の視線の先の空を見上げて、目を細めた。

 玄鬼は、京都の一件以来、『年寄りをこき使いおって。ワシは疲れたから、しばらくは何もせんからな』そう言って眠り猫を決め込んでしまい、今も茜の膝の上で丸くなっている。本気で爆睡モードに入っているところを見ると、『年寄り発言』は、あながち冗談でもないようだ。

 根性でバイク追跡を続行中の橘信司にも、さすがに疲れの色が見え始めていた。

「ねぇ、橘君。一度家に帰ったらどうかな? 学校だって、いつまでも病欠のままって訳にもい かないし……ほら、真希のことも気になるし」

 隣で、スイカにも手を付けずにぼんやりしている信司の顔を、茜は心配げに覗き込んだ。

「……」

 信司は、茜にチラリと視線を向けるとすぐに、無言で足下に視線を落としてしまった。

 確かに、鬼志茂でも鬼が淵でも茜や敬悟のように直接事に関わっていない分、信司にとってはただのツーリング旅行になっているのが現状だ。

 茜以上の焦りと何も出来ない自分への苛立ちを、信司は抱えていた。

「もしも、何か『鬼隠れの里』の情報が分かったら、必ず連絡するから。だから……ね?」

「う……ん」

 信司自身も、正直そう思わないでもない。

 学校の事はさほど気に掛けてはいないが、入院中の真希の事は気がかりだった。

 これ以上我を張っても、足手まといになるだけで何の足しにもならないだろう。

 引くべき時は引く。その方が、いいのかもしれない――。

 ――それでいいよな? 真希。

『そう言うことは、自分で決めなよ信ちゃん。男でしょ!』

 信司の脳裏に、この場に居れば腰に手を当てきっぱり言い放つだろう、ちょっと気が強い恋人の姿が過ぎる。

 ふう。

 一つ大きく息を吐くと、信司は力の無い笑みを浮かべた。

「……神津の言う通り、一度帰ることにするよ。でも、何か分かったら必ず連絡してくれよな? 俺に出来ることなら、何でもするから」

「うん。もちろんだよ!」

 もしも信司に何かあったら、真希に顔向けできなくなってしまう。

 エゴかもしれないが、出来るなら近しい人間を巻き込みたくはない。

 良かった――。

 茜は、ほっと胸を撫で下ろした。


 明日は次の目的地向かおうと決めた、その日の夜半。変化は起こった。

「茜、起きろ、茜!」

 一人、六畳の和室に布団を敷いて眠っていた茜は、自分を呼ぶ玄鬼の声で目を覚ました。

「う……ん。どうしたの、玄鬼?」

「どうも様子がおかしいぞ。鬼の気配がする」

「え!?」

 半分寝ぼけていた茜は、『鬼』という単語に驚いて跳ね起きた。

「鬼って、ここには鬼のおの字も痕跡が無いって言ってたじゃない!?」

 薄闇の中、浮かび上がる玄鬼の金色の瞳を呆然と見下ろす。

「状況が変わったのだ。恐らく、その石に引かれて来たのであろう」

 石が鬼を引き寄せている?

「そんな……」

 茜は、胸のペンダントを握りしめた。


「のんびりしては居られぬぞ。早くここを離れた方が良い」

「うん、分かった!」

 何がどうなっているか分からないが、今までの経験から玄鬼の言うことに従った方が良い。

 そう判断した茜は、すぐに隣の部屋に寝ている敬悟と信司を起こしに向かった。

「敬にぃ、起きて!」

 勢いよく襖を開け、一歩足を踏み入れた。

 そして、目に飛び込んで来た光景に、その場で思わず棒立ちになってしまう。

「な……に、これ?」

 声が震える。

 薄暗い部屋の中に灯る、スタンドの灯り。

 そこに照らし出されたのは、乱暴にはぎ取られた布団と一面に広がる赤黒い染み。

「敬にぃ……? 橘くん……?」

 二人の姿は何処にもない。

「遅かったか」

「玄鬼! 敬にぃは、二人は何処に行ったの!? あなたなら、分かるんでしょう!?」

「行ってどうする? おぬし一人では敵わぬぞ?」

 玄鬼が、ジロリと茜を見上げる視線を強める。

 言外に『今回は手出しはしない』そう言っているのが、茜にも分かった。

 でも、それでも。

「そんなの、やってみなくちゃ分からないじゃない! いいから案内して玄鬼!」



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