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   プロローグ 2

 茜の母・明日香は体が弱く、特に茜が生まれてからは病院で過ごすことが多かった。現に今も、入院中である。そのため茜は、幼稚園から母の入院する病院に寄って、夕飯までの時間を過ごすのが日課になっている。

 今日もいつものように、迎えに来た家政婦の山田さんに手を引かれ、茜は母の病室に向かっていた。病院独特の消毒薬の匂いがほのかに漂う中、ぺたんぺたんとスリッパの鳴る音が、静かな入院病棟の廊下に響く。

 一日一度の大好きな『お母さん』との面会。

 甘えたい盛りの茜にとっては、かけがえのない大切な楽しい時間だった。なのに、今日は幼稚園で真希に言われたことが、どうしても頭を離れない。

 どうしよう。

 元気な顔じゃないと、お母さん心配しちゃう。

 見慣れた母の病室の白いスライドドアの少し手前で、茜は思わず足を止めてうつむいた。

「茜ちゃん? どうしたの?」

 元気な姿を見慣れている山田さんは、いつになく暗い茜の様子に小首を傾げた。腰を屈めて、茜の顔を覗き込んでくる。だが茜には、上手く説明ができなかった。

 お母さんに会いたい。

 会って、いつものようにお話しをしたい。

 絵本を読んで貰いたい。

 でもきっと、いつのもようには笑えない。

 心配をかけたくない。

 でも、会いたい。

 そんな想いの狭間で、幼い心が、風に吹かれる木の葉のように揺れていた。

「茜? どうしたの?」

 不意に、茜を呼ぶ声が、閉ざされたままの病室のドアの向こうから飛んできた。

 少しトーンの高い、優しい声音。『大好きなお母さん』の声。茜の鼓動がドキドキと、ステップを踏む。

「ほら、お母さんがお待ちかねですよ」

 山田さんに手を引かれ、茜はおずおずと病室に足を踏み入れた。

「こっちにいらっしゃい、茜」

「茜ちゃん、お母さんが呼んでいるわよ?」

 トントン。

 山田さんに励ますように背中を叩かれ、茜はゆっくりと顔を上げた。

 病室は個室で少し手狭だが、茜の絵本やオモチャが、味気ない室内にカラフルな色彩を添えている。大きな窓には白いカーテン。その窓を背にしてベッドの上で微笑む母・明日香の瞳は、茜のそれと良く似ていた。

 少し珍しい色合いの鳶色の瞳。そして、色素の薄い栗色の髪は、間違いなく母親から受け継いだモノだった。

 明日香に優しく手招きをされ、茜はおずおずとベットサイドに歩み寄った。だが、顔が上げられない。自分の足下、ピンクの子供用のスリッパのつま先をただじっと見詰める。

「今日はお母さんに、『ただいま』をしてくれないのかな?」

 いつもなら茜は病室に飛び込むように入ってきて、すぐに明日香に抱きつき『ただいま』をする。一緒に暮らせない母娘の唯一のスキンシップの瞬間。茜にとっても、母の体温を感じられる一日で一番嬉しい時間だったのに、今日はそれすら忘れていた。

 母を心配させまいとして、余計に心配させていることを感じた茜は、母の言葉にハッとして顔を上げた。

 茜の顔を覗き込む明日香の瞳は、『何でもお見通しよ』と言うように、穏やかで澄んだ色合いをしている。

 白いカーテン越しに入ってくる夏の午後の強い日差しが、首の後ろで束ねた自然なウェーブの栗色の長い髪を、金色に縁取った。それは、神々しいまでの美しさ。

 お母さんにウソは付けない――。

 茜は、意を決して口を開いた。

「お母さん……」

「なあに?」

 茜の言葉を待つ明日香の瞳には、どこか楽し気な光が揺れている。

「どうして、このペンダントを付けてなくっちゃイケナイの? お友達は、こんなのしてないもん。幼稚園にして来ちゃダメだって先生にも言われたもんっ!」

 茜は、自分の襟元からペンダントを引き出すと、勢い込んでまくし立てた。言葉にしているうちに感情が高ぶってきて、思わず涙が滲んできてしまう。その頬に、そっと優しい母の白い華奢な手が伸びて来た。フンワリとした柔らかい匂いが、茜の鼻をくすぐる。

「このペンダントの青い石は”守りの石”なのよ」

 穏やかだが強い意志のこもったその声に何かを感じて、茜は母の顔を見詰め直した。

「守りの……石?」

「そう。あなたを守ってくれているの。だから、外さないでいましょうね」

 母の顔に浮かんだ透き通るような微笑み。

 それはとても綺麗で、そして儚い。

『守りの石』

『自分を守ってくれる石』

 幼い茜に、その言葉の意味が分かった訳ではなかった。だが、ペンダントを外してしまうと、母を悲しませるような気がした。

 ――お母さんが喜んでくれるなら、このペンダントを付けていよう。

 茜はこの時、幼い胸の中でそう心に決めた。



 そして――。

 いつしか、ペンダントは違和感なく茜の一部となり、その胸で静かにひっそりと輝いていた。




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