06 鬼が淵 1
暗闇の中で、誰かが泣いている。
小さな、女の子。
闇が怖いと。
そこに潜む何かが怖いと、泣いている。
「大丈夫だよ。ほら、僕が手を繋いでいてあげる」
少年は、少女に優しい眼差しを向けると、恐怖に震える小さな手をぎゅっと握った。
小さな、小さな手。
この手を、この温もりを、決して離すまいと、
必ず、守ってあげると、
そう、心に堅く誓いながら――。
京都府・鬼が淵。
東京よりは南に位置するためか、気温は大分高くじっとりと汗ばむような陽気だ。からっと晴れた空には、白い入道雲がモクモクと広がっていた。
「敬にぃ、敬にぃってば!」
コンビニの駐車場に停めた車の運転席で、店内から出てきた幼い兄妹をボーっと目で追っていた敬悟は、茜の声に我に返った。コンビニから昼食の買い出しをして戻ってきた茜が、助手席で白いビニール袋をガサガサと振ってみせる。
「え? ああ、買い出し、すんだのか」
「どうしたの? ボーっとして」
「いや、別になんでもない」
幼い兄妹に自分たちのことを重ね合わせて、センチメンタルになっている自分に、敬悟は少し自嘲気味な笑みを向けた。
「誰かみたいに、助手席で眠りこけて居られないからの。疲れもするじゃろうて。あ。ワシはツナマヨが良いぞ」
玄鬼のセリフは、敬悟を庇うと言うよりは明らかに茜をからかって遊んでいる節がある。それを敏感に察知した茜は、後部座席から自分の膝の上にちゃっかり移動してきた黒い子猫に、冷たい視線を向けた。
あんたに言われたくない!
茜はそう思ったが、鬼志茂で玄鬼に助けられたこともあって、そこは少し遠慮した。が、心を読むことができるこの猫マタ君にはすべてお見通しなのか、当の玄鬼は顔に ニヤニヤ笑いを貼り付けている。
子供の頃に母親に良く読んで貰った童話『不思議の国のアリス』。あれに出てくるチェシャ猫の笑いって、きっとこんなふうに違いない。
茜は、ツナマヨのおにぎりを美味しそうに、ハグハグ言いながらぱくつき始めた黒い子猫をまじまじと見下ろした。
ほんっと、変なヤツ。
でも、何となく憎めないのよねぇ……。
鬼志茂での一件を、茜は敬悟にありのまま伝えた。
鬼志茂神社の鳥居をくぐった瞬間に、鬼女伝説の舞台である江戸時代に飛ばされたこと。
雑誌記者・佐伯麗香と同じ魂を持つ鬼女『お香』との戦い。
そこで自分が『守りの石』の力を使ったらしいこと。
そして、人型の玄鬼に助けられたことも全て。
たとえば、あれが熱射病で倒れている間に見た夢だと考えることもできる。もしも、玄鬼という同行者が居なかったら、茜自信もそう思っていたかもしれない。
だが、現実に玄鬼と茜の話は完全に一致していた。
話を聞き終えた敬悟は少し考え込んでいたが、さして特別何も言わなかった。
「あれ? そう言えば橘君は?」
ずっとバイクで付いてきていた橘信司の姿が、バイクもろとも見えない。
さすがに疲れて帰ったのだろうか。
「帰れと言っても無駄そうだから、仕事を頼んだんだ」
「仕事?」
苦笑いする敬悟の言葉に、茜は首をかしげる。
「ああ。佐伯さんに教えて貰った『例の投書の事件』について資料収集をしに、図書館に行って貰った」
「へぇ」
バリバリ体育会系の橘信司と図書館で情報収集。似合わない組み合わせに、茜はちょっと笑ってしまった。
『例の投書の事件』
それは、ここ鬼が淵で最近頻発している殺傷事件のことで、それが実は、『鬼』による犯行だと言うものだった。
次の目的地が鬼が淵だと言ったら、麗香が『内緒よ』と教えてくれたのだ。
事件の内容は、深夜、一人で外出中の女性が何者かに鋭い刃物状の凶器で斬りつけられると言うもので、そのほとんどが失血死しているのだという。
かろうじて一命を取り留めた被害者が一人。その被害者が犯人は『鬼』だったと証言している――。
だが、麗香が調べたところによると、そう言う警察発表はされていないのだ。
ただの噂か、それともそこになにがしかの真実が含まれているのか?
「れも、鬼が犯人って、本当なのはな?」
野菜サンドを口に運びながら、もごもごしゃべり出した茜に、敬悟が『メッ』と釘を指す。
へへへへっ。
茜は、引きつり笑いをしながら、紙パックのミルクティーで口の中のサンドイッチを胃に流し込んだ。
「ねぇ玄鬼。鬼が人間を襲うなんてことがあるの?」
ニュースにしろ、噂にしろ、今までそんな話を茜は耳にしたことがない。
「別に鬼に限らず、人間だって人間を襲うだろうが?」
「そ、それはそうだけど、今までそんな話聞いたことないから……」
鬼と言われて茜が思い出すのは、せいぜい昔話の『桃太郎』くらいしかない。現実に赤鬼や、鬼女と化したお香を目の当たりにしていても、未だに実感がわかないのだ。
「鬼というのは、人間の心の中におるのさ」
ぽつりと呟くと、ツナマヨおにぎりを完食した玄鬼は、茜の膝の上で丸くなった。
やはり、玄鬼はあくまで『監視者』に徹して、核心部分を教えるつもりは無いらしい。茜は、玄鬼から答えを得ること諦めた。
「ねぇ、敬にぃ、鬼っていったい、なんなのかな?」
「そうだな……」
無糖のアイス缶コーヒーを不味そうに飲んでいた敬悟は、記憶を辿るように目を細めた。
「鬼の語源は、『隠』が転じたものだそうだ」
「オヌ?」
「ああ、『隠れる』のオヌだ」
「隠れる……」
「人知れず存在する人知を超えた異端の存在を『鬼』と呼んだのが始まりかもしれないな」
人知れず存在していた『鬼』が、何故『今』急に自分の周りに出現しだしたのだろう?
それも疑問の一つだが、もっと大きな疑問は他にある。
「なんで赤鬼は、『鬼隠れの里』の場所を教えないのかなぁ……」
民話の中にしか存在しないと思っていた『鬼』。
その鬼が返しに来いと言う『守りの石』。
でも、返しに来いと言う割に、肝心なその場所を教えない不可解さ。
『監視者』の玄鬼が付いているのだから、赤鬼は茜たちの居所を知っているはずだ。
それなのに、何も音沙汰がない。
文字通り、監視しているだけだ。
「ああ、なんだか分からないことだらけ!」
茜は、自分の膝の上で気持ちよさそうに丸くなっている『監視者』を、恨めしげに見下ろした。




