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   鬼志茂 6


「何……それ?」

 どういう意味なのか問おうとした茜は、玄鬼に腕を掴まれた。その意外に強い力に、軽い痛みを感じて眉を寄せる。

「良いか、『外に出たいと』心から念じるんだ。行くぞ」

 ね、念じる!?

 ぐいぐいと腕を引かれて、茜は焦った。

「ちょっと、玄鬼!?」

 いつもあれほど傍若無人な玄鬼が、見たこともないほど険しい表情をしている。

 訳は分からない。でもとにかく、玄鬼の言う通りにした方がいい。そんな気がした。

 茜は、ペンダントを握りしめ、『外に出たい』と念じながら裏門を抜けた。が、案の定、何の変化も起こらない。

 いや。変化はあった。

 今、裏門を抜けて、家の外に出たはずだ。<KBR>なのに、茜の目の前には、見えるはずの田園風景は無かった。

 そこに広がっているのは、今出てきたはずのお香の屋敷。色とりどりの花が、柔らかな日の光を浴びながら、そよそよと風に吹かれて揺れている。佇む笑顔のお香の姿も、そのままだ。

「あ……れ?」

 思わず、間の抜けた声が茜の口を突いて出る。

「ちっ、やはりまだ無理か」

 まだ、無理?

「お帰りなさい……」

 すぐ耳もとで、声が聞こえて茜は固まった。

 お香は先ほどと同じ場所で、微笑みをたたえて佇んでいる。耳元で、声が聞こえる筈などないのに。

「夕げの用意ができていますよ」

 また、耳元で声が響く。お香の曼珠沙華の花のような赤い唇が、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。

「さあ、いらっしゃい」

 しなやかで白い腕が、『おいでおいで』と二人を手招く。まるで、万華鏡のような赤と白の乱舞――。それは何処か蠱惑的に、見る者を誘う。

「いらっしゃい」

 甘い声に、意識が遠のいていく。茜は、誘蛾灯に引き寄せられる蝶のように、ふらふらと歩き出した。

「しっかりせんか! 取って喰われたいのか茜!」

「きゃっ!?」

 すかさず玄鬼に引き戻されて、茜は我に返った。

「なぜ、来ませぬ?」

「行かぬ。我らは、ぬしの贄ではないからな!」

 優雅に長い首を傾げるお香に、玄鬼が鋭く言い放つ。ゆっくりと、だが確実に、空気が張りつめていく。

「なぜ……来ませぬ?」

 お香の口の端から、笑みが消え、

「な……ぜ、キマセ……ヌ?」

 澄んだ涼やかな声音が、野太くしわがれたものに変化していく。

 ニヤリ。

 そして再び、お香が笑う。

 白い、大きすぎる鋭い犬歯を、むき出しながら――。

 鬼女は、すでに生まれていた。茜と玄鬼は、その鬼女の作り出した空間に捕らわれていたのだ。

 茜たちは、動いていない。<KBR>お香も、歩いて来ているわけではない。それなのに、距離が近くなる。

「ミナ、喰ロウテクレル……」

 すうっ――と、音も無く、お香であった鬼女が近づいてくる。邪悪さをたたえた血の色の双眼に、狂気の炎が、ゆらゆらと揺らめく。

 逃げなくては。

 そう思うのに、茜の足は、地面に縫いつけられてしまったかのように、微動だにしない。

 このままでは、捕まってしまう。目的も果たせず、知る人のいないこんな場所で、鬼の餌食になってしまう。

「そんな……」

 恐怖の呟きが、茜の口を突いて出る。

「そんなもこんなもない! 死にたく無かったら、石を使え茜!」

 鬼女が、正に茜たちの所に到達しようとする瞬間、玄鬼が叫びながら、茜を抱えて空を飛んだ。

 鬼の頭上を飛び越え、そのまま茜もろとも地面に転がり落ちる。だが、すぐに鬼女は向きを変え、また音もなく近づいてくる。

 逃げられない――。

「茜、今の俺は、本体が無い魂だけの状態で、ろくに力が使えん」

「え!?」

 驚く茜の目の前で、苦しそうに言う玄鬼の姿が一瞬、蜻蛉のように揺らいだ。

「げ、玄鬼!?」

「生きて敬悟の元へ帰りたかったら、お前が石を使うんだ!」

 近づく鬼女をくい止めるように、玄鬼が両手を前に突き出す。

 そこに張られた目に見えぬ力に、鬼女の近づく速度が遅くなる。だが、玄鬼の言う通り、力が発揮できないのか完全にくい止めることができない。このままでは、鬼女の手に掛かるのは時間の問題だった。

 私が、石を使う?

 私の意志で、コントロールする?

 そんなことが可能なの!?

 迷いながらも、茜は、ペンダントの石を右手に握りしめた。

『目を閉じろ。精神を統一するんだ』

 音声ではなく、心にダイレクトに流れ込んでくる玄鬼の言葉に、茜はペンダントの石を握りしめたまま目を閉じた。

 ふうっと、息を吐き、精神を統一する。

 『帰りたい場所を、会いたい人間を、心に思い描け。強く念じろ』

 帰りたい場所?

 あそこだ。

 みんなが居る、鬼志茂神社。

 そして、会いたい人間は――。

 従兄の優しい黒い瞳が、真希の明るい笑顔が、心配げな父の顔が、次々と茜の脳裏に浮かんだ。

 そうだ、こんな所で諦めちゃ駄目だ。私には、まだやらなくちゃならないことがあるんだから!

 茜の心に反応するかのように、手のひらの中のペンダントが、ほのかに熱を帯びてくる。

 それが、灼熱感に変わるその時、

『飛べ、茜!』

 玄鬼のかけ声と共に、青い閃光が走り全てが色をなくす。

 白い。

 白い光の中。

 薄れ行く意識の片隅で茜は、美しい女が、幸せそうに微笑むのを、見たような気がした。

 赤い唇が、スローモーションのように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

『わたしを――』

 そして、すべてが光に溶けていく。


 次に意識が戻ったとき、茜は、神社の社務所に寝かされていた。

「大丈夫か、茜?」

 自分を見つめる従兄の心配げな眼差しに、茜は、自分が居るべき世界に戻ってきたことを知った。

「敬にぃ……」

「軽い熱射病だろうって。少し日差しが強かったからかしらね。でも、すぐに気が付いて良かったわ」

 そう言って、心配そうに覗き込んで来た麗香の優しい眼差しに、茜は言葉が出なかった。

 お香さん……。

 最後の時、一瞬正気に返ったお香はこう言ったのだ。

『私を殺して』

『あの人の元に、逝かせて』と。

 愛する者を殺されて。愛していると思っていた者に裏切られて。<KBR>鬼になり果て、最後に望んだもの。それが、死だったなんて悲しすぎる――。

 茜には、あの時、自分が何をどうしたのかは分からない。ただ、あのお香という鬼女がこの世から消えた。それだけは分かった。

 そして、それを成したのが自分であることも理解していた。

「あららら。涙腺も壊れちゃったのかな? あ、そこの大きい君、飲み物買ってきたんでしょ?」

 麗香の後ろで、ペットボトルのスポーツドリンクを両手に抱えてオロオロと見つめていた橘信司が、自分の出番が来たとばかりに、慌ててその一本を差し出した。

「大丈夫か、神津?」

「うん、ありがと橘君……」

 あ!?

 肝心なことを忘れていた!

「敬にぃ、玄鬼は!?」

 茜は思わず跳ね起きた。

「玄鬼?」

 敬悟が、嫌そうに眉を寄せる。

 まさか、あのままお香と一緒に、消えちゃったなんてことないでしょうね!?

 自分が何をしたのかイマイチ良く分からない茜は、青くなった。

「猫ちゃんなら、そこで寝てるけど?」

「え?」

 麗香の指の先。茜の枕元で丸くなって寝ていた玄鬼が、ぴくぴくとヒゲを揺らした。どうやら、鬼女と一緒に消滅は免れたらしい。茜は、ほっと胸を撫で下ろした。

「それにしても、猫でも熱射病になるのねぇ。一緒に倒れるなんて、仲の良い飼い主と飼い猫だこと」

 楽しそうな麗香の笑い声が、社務所の中に響いた。


 まだだ。

 まだ、足りない――。

 茜たちを、いや茜を、遠くで見つめる鋭い眼差し。

 実体の無いその眼差しが在ることを、茜は知る由もなかった。



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