鬼志茂 2
砂利引きの駐車場には、先客が居た。
赤い小型の輸入乗用車が一台、駐車場を入ってすぐの所に停まっている。運転席に一人、女性が携帯電話で話している姿が見えた。
敬悟がその車のすぐ脇に車を滑り込ませてエンジンを切ると、風に乗って涼やかな声が聞こえてきた。
「分かってますって編集長、ちゃんと定時連絡は入れますよ――はい、郷土資料館は今回ってきました……はい。ええ」
え?
編集長!?
郷土資料館!?
茜は、開けていた窓から聞こえて来たお隣さんの声に、はっとして視線を向けた。
敬悟も玄鬼もそれに習う。
「締め切りには間に合わせますよ、ご心配なく」
――うわ、綺麗なひと。
茜は思わず目を見張った。
携帯電話を握る白く美しい手。その指は、まるでピアニストのように細くしなやかだ。
彫りの深いシャープな顔立ちは、どこかエキゾチックで、もしかしたらハーフなのかも知れない。
やや広めの額は、理知的な印象を与える。
その額に落ちかかる、緩やかなウェーブの掛かった柔らかそうな髪。
憂いのある瞳。
伏せられた長いまつげ。
無造作に纏めた豊かな漆黒の髪が、白い肌をより際だたせている。
やや大振りの耳には、血のように赤い小さなルビーのピアス。
形の良い赤い唇が優雅に動く様に、茜は『ぼぉっ』と見入ってしまう。
ピシャリ!
「え? あ、あれ?」
玄 鬼に尻尾で腕を叩かれて、茜は我に返った。
「おなごに見ほれて、どうするんじゃ」
「あ、あははは……」
そんなこと言っても、綺麗なんだもん。
少し顔を赤らめつつ再びお隣に視線を戻すと、電話を終えたらしい当の美女とばっちり目が合った。
「へぇ、大学の研究テーマに『鬼伝説』ねぇ」
駐車場の隅に設置されている木製のテーブルとイスだけの簡素な休憩所。
敬悟の話を聞き終えた美貌の雑誌記者・佐伯麗香は、茜が自販機で買てきたペットボトルのお茶を一口口に含み、そう言って微笑した。
その笑いは、郷土資料館の渡里老人ほど人が良くなく、明らかに疑いの成分が含まれている。
麗香はシンプルな白いカットソーに包まれた豊かな胸の前で腕を組むと、敬悟と茜をまじまじと見比べて、再び敬悟に視線を戻したあと愉快そうに口を開いた。
「それで、『キガクレノサト』のことをどうして知りたいの?」
ん?
と、麗香は形の良い弓形の眉を片方上げる。
うわ。
ずばっと核心だ。
まさか『そこに鬼に石を持ってこいと言われたから』とは言えない。
茜は固唾を飲んで、隣に座る敬悟の横顔を見上げた。
「ですから、研究テーマの一環なんです。教授から、いくつかの研究ワードが出されていて、その一つが『キリガクレノサト』なんです。でもいくら調べても、地名らしいこと以外は詳細が分からなくて……」
敬悟は、困ったように言葉を濁した。
もちろん、これは敬悟の作戦である。
こういう一筋縄では行きそうにない相手には、ひたすら低姿勢にお願いするに限る。経験から敬悟はそう判断していた。
「できれば、佐伯さんの知っていることを教えて頂ければ、有り難いんですが……」
敬悟がニコリと、人好きのする営業スマイルを浮かべる。茜は複雑な気持ちでそれを見ていた。
――敬にぃって、嘘付くの上手かったりする?
というか、女性の扱いに慣れてる?
これほどの美女を目の前にしながら、顔色一つ変えるでもなく嘘を並べられる敬悟の姿に茜は少なからずショックを受けていた。
思えばここ数年来、敬悟とこうして家以外で長い時間を共に過ごすのは久しぶりだった。小学五・六年生くらいまでは、何処に行くにも敬悟に付いて回ったものだが、今はほとんどそう言うことは無くなっていた。
敬悟との微妙な距離感。
それは何となく感じてはいたが、兄妹のように育った『いとこ同士』とはいえ男と女。仕方がないことだと、幾ばくかの寂しさの中でそう思っていた。
自分は、敬悟の事を知っているようで知らない。
チクリと、胸の奥が傷むのを茜は感じた。
「う〜ん。話は良く分かったけど、そう簡単に取材のソースは教えられないわね。一応仕事だから」
ニッコリと満面の笑みで、麗香が答える。なかなかどうして、こちらも手強い。
「そこを何とかお願いできませんか? この研究レポートの成績に卒業がかかっているんですよ、僕たち」
ぶっ!
え? 私も!?
茜は、敬悟の『僕たち』のセリフに、飲みかけていたお茶を吹き出した。
確かに、高校生のいとこを連れて大学の研究レポート取材に歩いているのは不自然な話だが、どう見ても化粧っ気のない茜は高校生以上には見えない。大学生と言うのはかなり無理がある。
でも、ここは話を合わせるしかない。
「あ、あの……お願いします」
茜は、引きつり笑いでペコリと頭を下げた。
「そうねぇ」
ふふふ、と麗香が悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「君が、一日デートしてくれたら考えてもいいかな。えっと、敬悟君?」
「え!?」
さすがにこの反応は予想外だった敬悟と茜が、同時に声を上げた。
一秒。
二秒。
なんとも言いようのない沈黙が、場を包む。
「なんてね。冗談よ」
くすくす笑い出した麗香を見て茜は、誰かに似ていると思った。
ニャァ〜。
と、その本猫が、茜の膝の上で退屈そうなあくびを一つ。
「それにしても、猫を連れてなんて珍しいわね。犬なら分かるけど」
「は、はい! 寂しがり屋なんですこの子! それにとってもお利口なんですっ!」
「そうみたいね」
くすくす。
茜の反応に、麗香の笑いが止まらない。
どうやら、この美人記者は笑い上戸であるようだ。
「ああ、もうこんな時間ね。話は、歩きながらで良いかしら?」
麗香の話によると、『キガクレノサト』の出所は、匿名の投書なのだという。
『日本の何処かに今も鬼の住む町がある』
それが『鬼隠れの里』。
敬悟が予想した通り、鬼が隠れる里という文字が書かれていたそうだ。
高台にある境内に続く急な石段を登り切る少し手前で、麗香の話は済んでしまった。
「そうですか……」
敬悟は力無く呟いた。
その投書が匿名で無ければ調べようもあるが、これでは収穫は無いに等しい。
「役に立てなくて悪かったわね」
「いえ。無理を言ってすみませんでした」
旅は始まったばかり。すんなり答えが見付かると思う方が、間違いなのかも知れない。
「ところで、後ろの大きい彼氏は、君たちの知り合いなの?」
麗香が、自分たちに一歩遅れて石段を登ってくる信司をチラリと振り返る。その視線に気付いた信司が『だるまさんがころんだ状態』で、ピキッと固まった。
「あ、はあ、まあ……気にしないで下さい」
茜が引きつった笑顔で答える。
「何? 彼女のストーカーとか?」
「ち、違います! ただの同級生ですよ! たまたま来る場所が一緒になっただけですっ!」
手をブンブン振りながら、茜が最後の一段を上りきり、赤い鳥居をくぐった瞬間だった。
グニャリ――。
空間が歪んだような気がした。
「あ……れ?」
「どうした茜?」
鳥居の下で急に立ち止まった茜の顔を、怪訝そうに敬悟が覗き込む。
「何か、今、変な感じがしたの」
「え?」
「こう、何だかグニャリって世界が曲がったような感じ……」
上手く説明できない。
それに。
「気持ち悪い……」
「茜!?」
急に吐き気に襲われた茜は、その場にしゃがみこんでしまった。
尚も、ぐるぐる回る世界。
意識が遠くなる。
ニャア!
鋭い玄鬼の鳴き声が、遠くに聞こえた。
あ、この感じ、『あの時』に似ている。
『青い闇』に飛ばされた、あの時に。
ああ、だめ。
だめだよ。
どうすることも出来ずに、そのまま茜の意識は遠のいた。




