旦那様の実家訪問4
「お腹空いた……」
ショッピングセンターの中にあるパン屋さんから流れてくる匂いに、思わず声が零れた。
「……ふっ」
自分にしか聴こえないくらいの声だったのに、隣を歩く人は私の呟きをしっかりキャッチして、軽く肩を震わせた。
圭さんは小さく笑っただけで何も言わなかったけど、きっとこう思っているに違いない。
──あんなに豪華なランチを食ったのに?
お祖母様の食事会は、豪華でとてもおいしいものだった。
海老を使った前菜に、ローストビーフのサラダ。濃厚だけどしつこさが全くない絶妙な味わいのビシソワーズに夏野菜のグリル。コースには含まれていなかったけど、お祖母様のリクエストで別に頼んだ鮑の岩塩蒸し。添えられたブールブランソースがおいしくて……パンをおかわりしてしまった。
そして、主役の石垣牛のサーロインステーキ。口に入れた瞬間にとろける柔らかさに、程よい甘みと塩分……思い出すだけで、幸せな気持ちに浸れる。
ええ、頂きましたとも。欠片一つ残すことなく、デザートまでしっかりとね。
私以外の女性陣は時々、「私の分は少なめに……」なんてお願いしているのに、私ときたらガタイのいい男性陣と同じ量をペロリですよ。
でもね……。
「お昼の分はとっくに消化したんです!」
抗議するように隣を見上げてたら、圭さんは遠い目をした。
「……そうだよな。ごめん」
「圭さんのせいじゃないですけど」
私達がショッピングセンターにいて、圭さんが私に謝るのにはちょっとした理由がある。
今日は朝からずっと緊張していた。それに連動するかのように私の胃袋も萎縮していた。そんな状態で食欲なんて湧くわけもなく、朝も野菜ジュースを口にするのがやっとだった。
圭さんの実家に着いてから、圭さんのご家族が優しそうな人達で、ガチガチの緊張感からは解放されたけど、私の胃袋は本調子には程遠くて……。お店に向かうバスの中では、良くないことだとわかっていながらも、食べ切れない分は圭さんにお願いしようと本気で考えていた。
けれど、店に着いていざ料理を目にした途端、私の胃袋は見る見るうちに元気を取り戻していった。そして私のテンションも……。
料理が出てくる度に目をキラキラと輝かせ、あの中の誰よりも「おいしい」と「幸せ」を連呼していたと思う。次男の嫁だという自分の立場をすっかり忘れて。
おしとやかなお嫁さんを演じる自信なんてなかったから、せめて大人しくしていようと思っていた。だけど、おいしい食べ物を食した時の自分の本能には抗えなかった。我に返ったのは三皿目を過ぎた時という……思い返すだけで顔が熱くなる。
そんな残念な嫁に圭さんのご両親はさぞかし呆れていらっしゃるだろう──とビクビクしたけれど、そんなことは全くなかった。
お義父様は私を「我が家で食べるのが一番上手な子なんですよ」と、テーブルを担当してくれたシェフに紹介してくれ、お義母様は私の顔を見て「つぐみちゃんは本当に幸せそうな顔をして食べるから、こっちまで嬉しくなるのよね」と笑顔を浮かべて言ってくれた。
その言葉に救われたのはもちろんだけど、見守るような優しい表情が圭さんと通じるものがあって……何だか気持ちがほっこりした。
お祖母様のお祝いは和やかに始まり、和やかに終わった。
お祖母様はにこにこしながら料理を堪能していたけど、おいしいねと言い合うみんなの様子を見て、更に嬉しそうに笑っていた。そんなお祖母様を見ている私達も嬉しくなって……とてもいい時間だった。
けれど、それで終わりではなかった。
食事会を終えて、みんなで圭さんの実家に戻った。
私と圭さんは、軽くお茶をして実家を後にする予定だった。
ところが、晴人君を除く甥っ子君達のテンションがもの凄いことになってしまい……。
みんな圭さんから離れようとしなかった。店で大人しくしていた反動もあるだろうけど、圭さんにしばらく会っていなかったのもあるらしい。
最初は私も一緒に遊んでみたけど、わんぱくざかりの男の子四人の相手に体力が続かず、途中でギブアップした。
ぐったりしている私を待っていたのは、百合さんと美佳子さん──お兄さんの奥さんと弟さんの奥さん二人によるマシンガントークだった。
二人とも食事会では私とは違って、料理を上品に味わっていた。おしとやかに見える人は中身もそうなのね……と密かに納得してたけど、とんでもない。彼女達はその見かけに反してパワフルでよく喋る。私はそんな二人のパワーに圧倒されっぱなしだった。
主な話題は圭さんのこと。
甥っ子さん達の面倒を見るきっかけになったラーメン事件のこと、課長昇進時にお母様から結婚相談所の資料を送られ苦笑していたこと。二人のテンションについていくのは大変だったけど、私の知らない圭さんの話は中々興味深かった。
だけど、結婚式絡みの話で私が登場しだしてからは、そうも言っていられなくなった。
私達の結婚は、同棲するなら籍を入れろと言うお互いの家族の声に従ったものだ。慌ただしく結婚を決めたのはいいものの、結婚式のことまでは頭が回らなかった。
そんな私達の助っ人として現れたのが、元ウェディングプランナーの美佳子さんだった。彼女は私達が式を挙げた式場で働いていたそうだ。そんな彼女曰く、私は面倒くさい花嫁だったらしい。
「花より団子を地で行く花嫁なんて初めて見たわ。ウェディングドレスより、料理に興味津々って……」
「ホントにね……マタニティのドレスを選ぼうとしていた理由が、体を締め付けて料理を食べられなくなるのが嫌だからって知った時は、さすがに圭を不憫に思ったわ」
「本当に頑なで……困ったわよ」
「でも、美佳子がマタニティー用は妊婦さんの胸が大きくなることを想定した作りだから、あなたの胸の大きさだと難しいわよ──って言った途端に諦めたのには笑ったけどね」
「……すみませんでした」
ため息混じりに二人からそう言われると謝るしかなかった。その件の話は南ちゃんからも聞かされていたけど、圭さん側の家族から聞かされていると破壊力が増す。でも……この件に関しては過去の私を責める気にはなれない。
「でも、今となってはあのドレスで良かったと思うわ。お色直しなんて要らないって言い出した時は、ちょっとした殺意が芽生えたけど、途中で髪を下ろして、帽子やアクセサリーでカジュアルな雰囲気に変えたのは、いいアイデアだったし。それに式で一着しか着ない分、色々試着させたからね」
「そうそう……あれは楽しかった。つぐみは小柄な分、私達が着たら微妙なドレスが似合うんだもん。最初は圭のためにって思ったけど、途中から完全に私達が楽しんでバシャバシャ写真撮ってたわ」
「……」
──三人で並んだら……私だけ異物って感じですよね。高そうなお菓子の中に混じった駄菓子みたいな。
……そう言った時の圭さんのリアクションの理由が何となくわかった気がした。
「あの二人は見かけに反して強烈だからな。悪い奴じゃないが二人揃うとな……。無理して泊まらなくてもいいぞ。適当に言い繕っておくから」
そう、日帰りで実家に行ったはずの私達は泊まることになった。
二人のトークは衰えることなく続き、気がつけば夕飯の支度をする時間になっていた。それでお開きになるかと思いきや、「続きは今夜家でね。女子会よ」と百合さんが言い出し、美佳子さんもそれに同調し……。それを聞いたお兄さんが「じゃあこっちは実家で男子会だ」と言い出し、私は圭さんのお兄さんの家に、圭さんは実家に泊まることになった。
圭さんは、泊まる想定で来てないからまた今度と言ってくれたけど、駅前のショッピングセンターで揃えられるでしょと百合さんに一蹴された。ついでに夕食用の惣菜を適当に買ってきてと頼まれ、私と圭さんはショッピングセンターで買い物をしていたのだ。
「大丈夫ですよ。確かに強いお姉さん達だけど……本当に嫌がっている人に無理強いするタイプじゃないと思うし」
次々と飛んで来る言葉達に圧倒されたけど、その言葉の端々からは優しさも感じた。耳の痛い話もあったけど、私が本気で嫌だと思う話は出てこなかった。
「まあな。あの二人にとってつぐみは可愛い妹だからな」
「……そうですね」
立場上は次男の嫁だけど、私は弟さんや美佳子さんよりも年下だ。だからなのか、谷崎家の皆さんは私のことを嫁というより、末っ子のように見ている感じがする。可愛がってくれているのは嬉しいけど、ちょっと複雑でもある。
「マイペースな家族でごめん。……色々消耗させたよな」
「いえ、圭さんが圭さんな理由がわかったので、良かったです」
「……どういうことだ?」
圭さんは不思議そうな顔をして私を見たけど、ふふっと笑ってごまかした。
確かに谷崎家の人達はマイペースだ。
甥っ子君達の声が響くリビングでも、お義父さんと弟さんは将棋を指していて、二人で静寂の世界を作っていたし、お祖母様とお義母様とお兄さんは優雅にお茶を飲みながら、世界経済について語り合っていたし、晴人君は一人熟睡していた。
百合さんと美佳子さんに関しては言うまでもないけど、圭さんがいるから大丈夫とばかりににトークに花を咲かせていた。
だけど、あの中で一番マイペースなのは圭さんな気がする。
甥っ子君達の遊びに付き合いつつも、彼らのパワーに振り回されることなく、夏休みの宿題をさせたりして上手に力を抜いていた。彼らに付き合ってヘトヘトになった私とは違って、程よく体力と頭を使わせて夢の世界に送り込んでしまうのだからお見事としか言いようがない。
百合さんや美佳子さんに言い負かされていたけれど、敢えて負けていたように思えた。言うなれば、負けて勝ちを取りに行く的な? 圭さんは私が使えない高度な技をいくつも持っている。
お義母様曰く、圭さんは性格が真逆な兄と弟の間に挟まれて育ったせいか、大抵のことは要領よく器用にこなしてしまうらしい。不器用な私からすれば羨ましい話だけど、だからこそ周囲から頼られて、しんどい思いをしてきたんじゃないかなと思う。
仕事でもそうだ。大きな案件を取ってきたり、最年少で課長になったり……優秀だとは思うけど、必要以上の責任を背負ってしまっている気がする。
でも、圭さんはそれを経験値にして自分の力に変えている。それが圭さんを人間的に大きくしている気がする。
本当にすごい人と結婚してしまったんだなと改めて思った。
それだけに百合さんが何気なく言った言葉が刺さった。
──あれはいい父親になるわよ。
圭さんが子供の面倒を見るのが上手なのは、器用だからだけじゃない。子供が好きだからだ。だから、甥っ子君達も蘭ちゃんも圭さんに懐いている。そんな人が自分の子供を欲しくないわけがない。
それなのに……私は圭さんに隠れてピルを飲んでいた。
「ごめんなさい」
「何でつぐみが謝るの?」
「……子供のこと」
圭さんに自分の気持ちを伝えてから、何でも話してきたつもりだけど、この話題だけは避けてきた。事故からそんなに経っていないこともあるので、今は圭さんに避妊してもらっているけど……。
「圭さんに内緒で避妊薬を飲んでた。それって旦那さんの立場からしたら、冗談じゃないって感じですよね……本当にごめんなさい」
ごめんなさいと言ってはみたものの……記憶がないので正直、どう謝ればいいのかわからない。
多分、広岡のことがあったからだとは思うけど、こればっかりは記憶を取り戻さないときちんと説明できない。
「何で今?」
唐突な謝罪に圭さんはちょっと困惑しているようだ。確かに何で今それを言う? って感じだよね。
「実家で甥っ子君の面倒を見ている圭さんを見ていたら、言わずにいられなかった。ちゃんとした理由も説明できないのに……謝られても困るって感じだと思いますけど」
「そうだな……」
そう口にした後、圭さんは黙ったまま天井を見上げた。
今、言うべきじゃなかったかも……だけど、今を逃したら曖昧にしたまま時が流れていくような気もした。それは絶対にしてはいけないことだ。
考えさせてしまって悪いなって思うけど、その代わり圭さんが何を言ってきてもきちんと受け止めたい。
「正直に言ってもいいか?」
緊張しながら圭さんの言葉を待っていたら、圭さんが私の方を見て口を開いた。
「はい」
どこか重めな圭さんの口調に、ごくりと息を呑み頷いた。
「初めて知らされた時は……ショックだった」
「ですよね」
「薬を飲んでいたことより、それを話してくれなかった方が痛かった。子供のことは二人で考える問題だからね。知ってしまったきっかけが事故じゃなかったら……険悪なムードにはなっていただろうね」
「……ごもっともだと思います」
落ち着いた語り口だけど、どこか苦々しそうなその表情から、その当時の圭さんの憤りを感じる。
そうだよね……怒らない人なんていない。
「今更隠してもしょうがないから言うけど、腹立たしかったよ。でも、それは一瞬だけだった」
「え?」
予想外な言葉に目を見開く。圭さんはそんな私に軽く微笑み、視線を落とした。
「事故の知らせを聞いて、君を失うかもしれない恐怖を味わったことに比べたら、どうでもいいことのように思えた。それに……君は記憶を失ってしまった。思わぬハンデを抱えてしまった君を前に、それに拘っている場合じゃないと思った」
「……」
圭さんの言葉に返す言葉が見つからない。
怒りたくても怒れなかった……あの時の圭さんの立場で考えたらそうだ。私は残酷なことを聞いてしまったのかもしれない。
「ごめん……責めてるわけじゃないんだ」
「謝らないで。あなたは何も悪くないんだから……私のこと、もっと責めていい」
私を責めてもどうにもならないって圭さんは知っている。だから、私に優しく笑ってみせるんだ。この人の大人で温かいところに何度も救われてきたけれど、今はそれが歯痒くてたまらない。
「責められないよ。つぐみが自分本位な理由だけでそうしていたなら別だけど……そうじゃないってわかっているから」
「……私を信用しすぎです」
「そうかな? でも、自分のことだけ考えて避妊薬を飲んでいたなら、妊婦さんを庇って車に跳ねられたりしないし、スタミナ切れになるほど本気で子供と遊んだりしない」
それって……私が本気で子供ってこと?
「つぐみが本気で子供って意味じゃないから誤解しないように」
微妙な気持ちになりかけていたら、畳み掛けるように冷静な声が降ってきた。
「じゃあ、どういう意味ですか」
「つぐみはあいつらのことを子供じゃなくて、一人の人間として真剣に相手をしている。だから、ゲームでも下手な手加減はしないし、負けたら本気で悔しがる。かと言って……あいつらに大人気ない態度は取らない。大人の目線を持ったまま、ひとりひとりの目線に合わせている。バテるのも無理はない」
中々、難しいことを言う。まあ、圭さんの表情を見ていれば、褒めてくれているのだとわかるけど。
「それは記憶を失う前のつぐみも同じだよ。だから、うちの大人達は今日のつぐみをみて安心していたんだよ。晴人だって……今日のつぐみを見て、“記憶がなくても心で覚えてるじゃん”って嬉しそうだった」
「え、晴人君が?」
意外な人物の名前に驚く。
「百合さんも言ってただろ? あれはかなりのつぐみっ子だ」
「眉間に皺寄せてばっかりだったのに?」
「あいつは天の邪鬼な奴だからな。あいつと海斗は俺達が付き合う前に、つぐみと会っているから特別なんだよ」
「え?」
それって純然たる上司と部下時代ってこと?
会社の上司の甥っ子に会うってどんなシチュエーションだ。頭の中に疑問符が次々と出てくる。
「それって……」
「これ話すと長くなるから後でね」
どういうこと? と聞く前に先手を打たれた。
「……はい」
真面目な顔で言われてしまうと、素直に頷くしかない。気になるけど、先にするべき話がある。
「話がそれたけど……つぐみが黙っていたのは、友達のことがあったからなんじゃないのか?」
「……多分そうだと思います。だから、言えなかった。私だけの問題じゃなかったから」
「そうだよな。デリケートな問題だしな」
「はい、少なくても広岡の赤ちゃんが無事に生まれてくるまでは、言うべきことではないと思います」
「同感だな」
圭さんも私の意見に同調してくれている。だけど、これで終わりにしてはいけない。私が黙っていたのは、広岡のためじゃない。
「でも……私はずっと黙っていたと思います」
今の私が椎名さんと広岡のことを圭さんに話したのは、自分が記憶喪失という状況にあったからだ。
もし……記憶を失っていなかったら?
私はきっと話さなかった……というより、話せなかった。
「どういうことだ?」
「知られたくなかった……圭さんには。過去の……広岡のことを妬んで傷つけた醜い私のことを」




