旦那様の実家訪問3
「はーい。今開けます」
スピーカーから女の人の声が聴こえる。
落ち着いた声のトーンから察するにお母様だろうか。カメラ付きのインターフォンだから、こっちが何も言わなくてもわかるらしい。
玄関に誰かが近づいてくる気配がする。それに反応するように私の体もビクッと震えた。普段だったら気にも留めないのに……今日の私は感覚が鋭敏になっているみたいだ。それが私を余計に緊張させる。こういう時は深呼吸だ。
大丈夫。
一人じゃない。隣に圭さんがいる。
今日のためにできることは全てやってきた。
お土産も準備してある。美味しい栗のパウンドケーキと甥っ子さん達用のクッキーとチョコレート。
ファッションも……南ちゃんにアドバイスをもらって、雰囲気良さげに見えるようにしたつもりだ。
シンプルだけどふんわりとしたシルエットのネイビーのワンピースに、パールのネックレス。いつもの私よりも少しはおしとやかに見えるはず……と信じている。
圭さんのご家族の情報は頭の中にしっかりとインプットした。
だから……落ち着け。
最初に言うべきは、“こんにちは”で、その後は“ご無沙汰しております”と続ける。間違っても“初めまして”はダメ。それはNGワードだ。
大丈夫、落ち着け、大丈夫……呪文のように心の中で唱えていたら勢いよくドアが開いた。
ドアを開けてくれたのは男の子だった。にこにこしながら私達を見ている。
「圭おじちゃんとつぐみちゃんだ」
圭さんのことはおじちゃんと呼ぶけど、私のことは名前で呼んでくれるのね。
ご家庭の教育かしら?
……ってこの子誰?
中一の子じゃないことくらいはわかるけど、目の前にいる男の子顔が私の頭の中に焼き付けていた写真の子達と一致しない。
何で?
予想外の事態に混乱してしまう。
……よく考えたら当たり前だ。
私達の結婚式は去年の七月。そして今日は、その日よりも一年以上経った日だ。
人の見た目は一年くらいじゃ変わらない。そう思っていたけれど、それは大人に限った話であって、子供相手には通用しない。
子供にとっての一年を甘く見ていた。
そうだよね……私の結婚式の時は、南ちゃんのお腹の中にいた蘭ちゃんだって、生まれてきたのはもちろんのこと、今ではつかまり立ちをしているくらいだもの。谷崎家の子供達だって絶賛成長中に決まっている。
どうしてこんな当たり前のことに気づかなかったんだろう。あなたは誰? なんて聞くわけにはいかない。圭さんのシャツを摘み、この子は誰? と目で訴えた。
「よう、海斗」
みなと……ってことは、弟さんの長男か。
察してくれた圭さんがこの子の名前を呼んでくれたので、目の前にいる男の子が海斗君だとわかった。
慣れた様子で家に上がる圭さんに続き、私もお邪魔させてもらう。
三人でリビングに向かう。廊下を歩きながら海斗君が興奮気味に25m泳げるようになったと圭さんに話しかけると、圭さんは目を細めて海斗君の頭を撫で頑張ったなと褒めている。
甥っ子さんに慕われているんだな。
二人を見ていたら私も嬉しくなってきた。ああ、私の旦那さんって素敵な人なんだなって。
「俺達で全員集合か?」
「うん、おじさん達待ちだよ」
「え? 私が準備に戸惑ったから……ごめんなさい」
時間通りに来たつもりだったけど、もっと早く着こうと思えば、いくらでもできた。何だか失敗してしまった気持ちになり思わず謝る。
「てか、当たり前じゃん。叔父さん達が一番遠くに住んでいるんだから」
「?」
しょんぼりしていたら、聞き覚えのない声が聞こえてきた。声がする方に視線を向けると、大人びた顔をした少年がいた。
圭さんよりは低いけど、私よりずっと背が高い。聞かなくても誰かわかる。
「晴人君だぁ」
今の私には面識がない子だけど、自信を持って名前を呼べることがとても嬉しい。
心細さは変わらないけど、外国で日本人を見つけた時のようなほっとした気持ちになる。
そんな私に、晴人君は眉間に皺を寄せた。
「ちょっと、つぐみさん。そんな縋るような顔で見ないで……叔父さんも何とかしてよ」
「唯一、判別がつく甥っ子なんだから、そこは勘弁してやってくれ」
圭さんのフォローに晴人君は眉間の皺を深くする。
「はあ? そんなに似てないだろ、こいつら。ごちゃまぜになる方が難しいと思うけど」
人をバカにするような棘を含んだ言い方。
……可愛くない。でも、ちょっと難しい時期だって聞いているから何てこともない。それどころか新鮮に感じる。兄みたいに教師をしていれば別だけど、会社勤めだと周りにいるのは大人ばかりだ。……時には子供みたいな困った大人もいるけどね。
あれ? 何か気持ちが落ち着いてきた。可愛らしい海斗君とちょっと生意気な晴人君のおかげで緊張がほぐれたのかも。
「つぐみちゃん、こっちだよ」
海斗君に手を引かれ、皆が集まっている居間に着いた。
「……っ」
うわぁって声に出しそうになった。
これが谷崎家の人々。
一人がけのソファーに深く腰掛けているお祖母様を中心に皆がソファーや床にそれぞれ座っている。
テレビを見ながらはしゃいでいる三人の男の子達。侑人君と睦人君と彬斗君だろう。……でも、誰が誰かはわからない。
ダイニングテーブルでお茶を飲んでいるのが、お父様とお母様。写真で見た通りの上品な感じがする。この人達が圭さんのご両親……。つまり、私の舅姑ってことで……言葉にするととても恐ろしく思える。
ソファーの周りには、二組の夫婦らしき人達。
お兄さんと弟さん夫婦だ。こっちは流石に区別がつく。お兄さんと弟さんは似ていないし、弟さんの奥さんは赤ちゃんを抱いているからね。
……ダメだ。冷静に皆さんのことを見ているつもりでも、心臓の鼓動が強くなる。大丈夫だよと言われていても、二十個の瞳で見られるとやっぱり緊張する。こればっかりは仕方ない。この緊張を打ち破るためには、先手必勝だわ。今こそ学習の成果を見せてやる。
さあ、口角を上げて……。
「こんにちは。ご無沙汰しております」
うん、いい感じだ。次は“よろしくお願いします”だ。
「柏原つぐみと申します。本日はよろしくお願い致します」
大きな声でそう言って頭を下げた。
これで大丈夫かしら?
恐る恐る頭を上げると、皆さんはきょとんとした顔で私を見ている。
え? 何でこのリアクション? 確かに就職面接っぽくなっちゃったけどさ、常識的な挨拶でしょう?
「つぐみさんも“谷崎”でしょ」
「あっ……」
呆れるような……それでいて冷静で的確な晴人君の言葉で、自分が大失態を犯してしまったことに気づく。旦那さんの実家で自分の旧姓を名乗るって……NGワードどころじゃない。これがテレビだったら、画面一杯にバツマークが表示されてブザーが鳴ってる。
「申し訳ございません」
ああ……今すぐ穴を掘って帰りたい。
おめでたい席なのに……微妙な空気にしてどうする。
「つぐみ、大丈夫だから」
温かい手が私の肩にそっと触れる。下に向けていた頭をゆっくりと上げ、その持ち主の方を見る。
「そんなに気に病まなくていい。これで気を悪くするような器の小さい人間は、ここにはいないから。……いや、一人いるか」
優しげな目で私に話しかけたと思ったら、今度は意地悪そうな目で彼に視線を送った。
「ちょっと叔父さん。俺はただ事実を告げただけだろ?」
圭さんの視線の先にいた晴人君がバツの悪そうな顔をする。
「敢えてスルーするって方もあるだろう? ……お子様にはわからないか」
「お子様?」
「晴人兄は俺らと一緒ってことだ」
「じゃあ晴にいもお子様ランチだね」
圭さんの返しにテレビの前に夢中だった男の子達が反応した。多分、俺らと一緒って言った子が侑人君だろう。後は、どっちが睦人君と彬斗君かだ。
「誰が、お子様ランチだって? 睦人?」
考えるまでもなく晴人君が睦人君を睨んだので答えがわかった。これで何とか甥っ子さん達の区別はついた。とりあえず今日一日は乗り切れそうだとほっとしていたら、バシッと頭を軽く叩く音が聞こえた。
「こら、弟を威嚇しないの。ったく、あんたって子は」
いつの間にかお兄さんの奥さんが晴人君の側まで来ていた。結構、厳しいお母様なのかしら? とぼんやり思っていたら、その視線が私の方へやってきた。目鼻立ちが整ったゴージャスな顔立ちに同姓ながらドキッとする。
「ごめんなさいね。生意気な子で」
「いえ、間違えたのは私ですから。私の方が晴人君に嫌な思いをさせてしまって……ごめんね。晴人君」
そうなのだ。
晴人君が責められているけど、私が柏原つぐみですなんて口走らなければ、こんなことにならなかった。
「そんなことないわ。あなたの旦那が言う通りスルーしとけばいいことなのよ。こんな子だけどつぐみさんのこと大好きっ子だから、嫌わないであげてね」
「ちょっと、母さん。変なこと言うなよ。叔母さん相手に好きも嫌いもないだろっ」
そう言って慌てる晴人君の様子が可愛くて、思わず笑ってしまう。それは隣にいる圭さんも同じみたいだ。元々なのか一緒に生活していく中でなのかわからないけど、私と圭さんは笑いのツボが結構似ている。
「ちょっと……二人の世界を作って笑い合わないでくれる? ここ、イチャつく場所じゃないから」
「!」
そんなつもりは全くないのに、晴人君に指摘されてボンっと一気に顔が熱くなる。だけど圭さんは平然としている。
「悪かったな。そうだ。これ、お土産」
そう言って圭さんは紙袋をお母様に渡した。
「あら、気を使わなくてもよかったのに」
何かしら? と言った感じでお母様が紙袋を覗く。
「まあ、こんなにたくさん。あら、クッキーとチョコレートまで? つぐみさんのチョイスかしら?」
上品な笑みを浮かべながら、お母様が私の方を見た。
「は、はいっ。クッキーとチョコレートはお子様用で……パウンドケーキはお酒が入っているので」
「どれもこれも美味しそうね。帰って来てから頂きましょうか」
「え?」
帰ってからってどういうこと? 不思議に思い圭さんの方を見やる。
「そうだった。ごめん、言い忘れていた。今日の婆ちゃんのお祝いはレストランでやることになってるんだ」
聞かされてはいなかったけど、別に大したことではない。これだけの大家族の料理を準備することを考えたら、お店を予約している方が自然だと思う。
「そうなんですね」
「そうだよ。ここからバスに乗っていくんだよ。迎えに来てくれるんだよ。すごいでしょう」
人懐っこい笑顔を浮かべながら、海斗君が教えてくれる。
「へぇ、それは凄いね。どこのお店に行くの?」
どこ? と聞きつつも、私の頭の中では二つの店が浮かんでいる。この辺りでお祝い事の食事が出来る店でバスの送迎があるのは、かに料理の店か日本料理の店のどちらかだ。お祖母様の年齢を考えてもいい選択だと思う。
「鉄板焼きの店! ステーキ食べるんだ」
「え? ステーキ?」
予想外の答えに大きなクエスチョンマーク浮かんだ。
この辺りで鉄板焼きの店? ステーキ?
……まさか、あそこ? 私の頭の中に一つの店が浮かぶ。あそこでもそういうお祝い事の食事会はできるだろうけど、バス送迎サービスはなかったはずだ。
「つぐみが考えている店で合っていると思うよ」
「え?」
「つぐみの二十歳の誕生日にご両親が連れて行ってくれた店だよ。そこでの食事がきっかけで、肉貯金を始めたんだよな」
「……」
圭さんの言葉でどこのお店かはわかった。けどね、過去の私に言いたい。旦那さんに色々なことを喋りすぎ。
「でも、あそこって送迎サービスはないですよね」
気を取り直して疑問に思ったことを口にする。あの店は駅からちょっと歩くから、この辺りだと車かタクシーで行くのが定石なはずだ。
「ああ、だから貸切バスを頼んだんだ。……みんなで行った方が色々楽だし」
甥っ子さん達の方を一瞥して圭さんが言ったので、貸切バスを頼んだ事情がわかった気がする。いい子だといってもわんぱくざかりな年頃の子達がいるものね。
現に侑人君と睦人君と彬斗君はテンションが上がっているのか、スーパーの精肉コーナーで流れている歌を口ずさみながら踊っている。これから行くのは牛の店なのに、歌っているのが豚の歌なのが何とも言えない。
「確かにそうですね……楽しみだね、海斗君」
「うん、すごく楽しみ。でも一番楽しみにしているのは、ひいばあちゃんだよ。ねっ?」
海斗君の問いかけにお祖母様は、ふわりとした笑みを浮かべた。
「そうね。……おばあはお肉大好きだから。つぐみちゃんとおんなじ」
「……はい」
何だろう。覚えていないのに……初対面なのに……こみ上げてくるこの感じ。
柔らかくてゆったりとした口調に、今は遠い場所にいるお祖母ちゃん達が頭の中に浮かんできて少し切なくなる。だけど、それはどこか懐かしくて私の心をじんわりとさせてくれた。




