旦那様の実家訪問1
電車に乗るのは好き。
車内の広告で情報を仕入れたり、人間観察をしてみたり、路線図に記載されている駅名を見ては色々な想像を巡らせてみたり。浦和美園って美人が多そうだ……とか、お花茶屋は美味しい甘味処がありそう……とか、実際に降りたことがないからこそ、好き勝手に一人でイメージする。今だったらスマホを片手に目的地までの時間をやり過ごせるだろうけど、私は敢えてアナログな感じで過ごす。
だけど、今日はそんな気分にはなれない。
広告も電車に乗っている人達も電車の路線図も何ひとつ私の視界に入ってこない。入ってくるのは、駅名の看板くらいだ。それを見る度に、「ああ……また一つ近づいてしまったんだ」と私の心臓がドキンドキンと大きくて嫌な音を立てる。その度に体がビクついて背筋がピンと伸びる。
ああ、この胃が痛くなりそうな感じ……就職活動で面接を受けに行っていた時以来だわ。
あの頃も緊張でガチガチだったけど、会社に着く直前まで前向きソングを聴いて、負けるものかって気合を入れていたっけ。でも、今日はそんなわけにもいかない。電車に乗っているのは私だけじゃないもの。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だから」
隣から聞こえる圭さんの声。
今日、この人は何回同じ台詞を言っているのだろう。言わせているのは私なんだけど。
二人でお出かけするからドキドキしているのではない。これから私達が行く場所が私を緊張させているのだ。
事の発端は、夏休み。
うちの会社の夏季休暇は七月から九月の好きな期間に取得する方式だ。記憶喪失のゴタゴタで私はその存在をすっかり忘れていた。ちなみに今までは試験があるお盆明けに取得していた。
八月に入る前に夏休みのことを切り出され、ようやくその存在を思い出した。
「つぐみ、夏休みのことだけど」
「夏休み? そうだ……すっかり忘れてた。そうですよね、夫婦なんだから一緒の時期に取りますよね」
「ああ、お盆の時期でいいか?」
お盆。まあ、普通に考えればそうだろうって思う。いくら好きな時期に取ってもいいと言っても、営業の仕事をしている圭さんの場合は、客先の夏季休業日と合わせた方が都合がいい。
「大丈夫ですよ」
技術営業支援課もこの時期は暇な方だから、取得するのに問題はないはずだ。
そう言えば……去年はどうやって過ごしていたのだろう。
確か七月に結婚式と披露宴をして、そのまま新婚旅行に行ったんだっけ?
「去年は新婚旅行の時期に取ってたんですか?」
「いや、あれは結婚休暇。夏休みは別に取った。つぐみは契約社員だから全部有給だったけどな」
「そうなんですか……ちなみに去年ってどんな感じだったんですか?」
結婚して初めての夏休み。
二人で旅行に出かけたのかな?
それとも遠出はせずに、夜景のキレイなレストランでディナーとか?
「……土日の延長みたいな普通の休暇だった。悪い」
私が想像に目を輝かせていたせいか、後ろめたそうな答えが返ってきた。そうだろうなと薄々わかっていたけどね……。
「いえ……ちょっと想像しただけなんで。それに……特別なことをしていたら、それはそれで悔しいし」
私には三年と少しの記憶がない。
ここ数年、私の中では夏休みと言えば試験だった。失っている記憶のことは割り切れていないけど、久々に試験のことを意識しなくていい、夏休みらしい夏休みを過ごせると思うと心が弾む。旅行もいいけれど、ここで過ごすのだって悪くない。映画を見に行くもよし、マッサージに行くもよし……遠出しなくても楽しく過ごせる方法はたくさんある。
「今年はどうしますか?」
「それなんだけど……今年は実家でばあちゃんの米寿のお祝いをする予定なんだ。いいかな?」
お祖母ちゃん。
久々に聞く言葉だ。うちの両親の親は既に鬼籍に入っているからお祖父ちゃんとかお祖母ちゃんと口にする機会がない。蘭ちゃんが生まれたから、両親がそう呼ばれるのを聞くようにはなったけど。
米寿ってことは……八十八歳か。凄いなぁって思うけど、本人からしてみれば意外とあっという間だったりするのかも。何はともあれ素晴らしいことだ。
「おめでとうございます」
心から言ったけれど、何かが引っかかる。大切なことを忘れているような……。
「ありがとう」
いいことなのに何でそんな神妙な顔をしているのだろう。……私の祖父母のことを慮って? でも、それはかなり前のことだ。その時はとても悲しくてたくさん泣いたけど、今は和やかに思い出話をすることだってできる。だから、私側のことは気にせずに喜んで行けばいいのに……って違う!
「それって……私も圭さんの実家に行くってこと?」
聞くまでもないことだ。当たり前だ、私はこの人の妻なんだから。
圭さんはやっと気づいたかという顔をしつつも、更に表情を曇らせていた。
「記憶喪失という状況を考えると、俺一人で行った方がいいかと思ったけど、ばあちゃんがつぐみに会いたがってて。人生で一度きりの米寿だから来て欲しいって。だから……一緒に行って欲しい」
すっかり忘れていた。
というか、今まで考えたこともなかった。
圭さんの家族のこと。
自分達や自分の息子の記憶がない嫁って……かなり感じ悪い。
どうしてその辺りのことを考えなかったんだろう。私のバカっ!
「あの……怒っていらっしゃいますよね。今回のこと」
「大丈夫だよ。事故や記憶喪失のことで心配していたのは確かだけど、大きなケガもせず仕事にも復帰して、つぐみと仲良く暮らしていると話したら、安心したって言ってたから」
そうは言うけど……。
無理だ。心の準備ができていない。
「ごめん。いきなりだったな。気持ちの整理とかもあるだろうし、ちょっと考えておいて欲しい。無理はしなくていいから」
その言葉に甘えてしまいたかった。
だけど、お祖母様の米寿という慶事を嫁として無視するわけにはいかない。行かなきゃ行かないで、記憶が戻った時にものすごく後悔する気がする。
ここ数ヶ月の間、私は圭さんに迷惑かけっぱなしだった。圭さんの言葉に甘えるなんて私の選択肢はない。
腹を括るのよ! つぐみ。
圭さんをたくさん喜ばせて笑顔にしたいって思っているんでしょ。だったらまずはここからだ。
義理の両親……ちょっと怖い響きだけど、圭さんのようなできた人の親なんだもの、良い方達に決まっている……と信じよう。
それに圭さんの実家って山形でしょう? 行ったことのない(三年間の間は除く)場所に行けるなんて、ラッキーじゃない。
「大丈夫です。おめでたい、せっかくの機会ですもの。喜んで行きますよ」
「そう言ってもらえると助かる……ありがとう。ばあちゃんも喜ぶよ」
私の返事に圭さんは表情を綻ばせた。よかった……だけど、大変なのはこれからだ。
「じゃあ準備しないとですね。何日間ぐらい泊まりますか」
「え?」
当たり前のことを尋ねたはずなのに、不思議な顔をされた。
「……泊まる? わざわざ泊まることはないと思うけど……どうしても泊まりたいんだったら、頼んでみるけど」
そんなに変なことを言った?
山形だったら普通は泊まりだと思うんだけど、何だ? この泊まるのが変みたいな空気。
私が思うほど、山形は遠くないってこと?
新幹線や飛行機があるから、日帰りでも行けなくもない?
うーん、わからない。でも、泊まらなくていいならそれに越したことはない。
「大丈夫です」
移動時間を考えたら、そんなに滞在しなくてもいいのかも。密かに胸を撫で下ろす。
「お祖母様へのプレゼントは?」
「ああ、それは大丈夫。孫一同ってことで兄貴に頼んである」
「そうですか。でも、おみやげとかは準備しないといけないですよね」
「いや、そんな気は使わなくていい」
「そうはいかないですよ。ああ、でもフルーツ系やケーキ類は避けたほうが無難ですね。うーん、難しいな」
山形だったら……さくらんぼとか、桃とか、ラ・フランスが有名なはず。何気にハードルが高い? あっ……京都のあれはどうだろう。この間、母に送ってもらった栗のパウンドケーキ。あれは美味しかった。
「この間の栗のパウンドケーキにしましょうか? 銀座のデパートに出店してるらしいので、今度の休みに行きましょう。ん……ちょっと待って。あれってお酒入ってるから、子供は無理か。じゃあ、甥っ子さん達用にはクッキーやチョコレートを買いましょうか」
「いや、そこまでする必要はないぞ。確かに美味かったけど……あれは結構いい値段するし、うちの家族は飲むように食う奴ばかりだから、商店街の和菓子屋のどら焼きで十分だと思うぞ」
「飲むって……あのどら焼きも美味しいですけど……身近なところで楽はダメですよ。今の私にとっては、初めての場所なんだから」
「まあ、つぐみがそう言うなら……」
「そう言えば……初めてだ」
「何が?」
「山形ですよ。過去の私は行っているんでしょうけど。そう考えると楽しみになってきた。山形って……お米が美味しいのはもちろんとして、今だったら桃とぶどう? そして米沢牛!」
「……」
米沢牛というワードに心が踊る。そんな私に圭さんが呆れているのがわかる。だけど仕方ない。試練の先に美味しいものが待ってると思うと、頑張ろうって気持ちになるんだもの。
「ごめんなさい。自分で米沢牛って言って気が緩んじゃった。でも、ちょっとワクワクしてきました。時間があったら、圭さんが遊んだ場所とか案内してくださいね。でも、チケットは大丈夫? 飛行機? 新幹線? あ、でも車でも行けるか」
「つぐみ」
「はい?」
「……大変盛り上がってるとこ悪いが、俺の実家は山形ではない」




