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迷子のネムリヒメ  作者: 燕尾
本編
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第50話

 私の問いにそうだったなと軽く相槌を打って、谷崎さんはあの事件の後のことを教えてくれた。

 あの後、谷崎さんは約束通り、私の業務量を大幅に増やした。

 

「少しは手加減してやろう……って」


 やり方はどうあれ、会社の大切な案件と姫島さんを守ったんだし、谷崎さん自身が責任を感じているなら……。


「それと仕事は別だ」


 思わなかったんですか? と言い切る前にバッサリと切り捨てられた。ダメ押しとばかりに谷崎さんはクールな口調で続ける。


「俺の思いやつぐみの真意がどうあれ、約束は約束だろう」

「……そうですね」


 容赦なく言われてしまうと、言い返せない。

 南ちゃんから聞かされていたことだから、大して驚きはしないけど……この人も鬼上司だ。椎名さんが炎のタイプの鬼なら、谷崎さんは氷タイプの鬼だ。

 

「で、私はどんな感じでしたか?」

「そうだな……」


 尋ねると谷崎さんは思い出すように天井を見上げた。


「鬼気迫る感じだった」


 あの日を堺に職場での私の雰囲気は一気に変わったそうだ。

 それまでの覇気の無さはなりを潜めたけど、その代わり常にピリピリして、安易に声をかけるなオーラを放つようになったらしい。

 仕事が増えた分、スピードを上げて一秒でも早く退社しようと必死だったようだ。


「そんな相手に仕事の指示を出すって……ストレス溜まりそうですね」

「いや、こちらが求めていた以上のことをしてくれたから助かった。だけど……常に全力疾走しているみたいで、見ているこっちが息切れしそうだった。たまには歩けって言いたかったけど、つぐみには急ぐ事情があったんだよな」


 そう言って谷崎さんは視線を落とした。 

 谷崎さんの言う事情。……それは、公認会計士試験のことだ。


「電車で見られてたんですよね」

「俺には知られたくなかっただろうけどな……」


 それは偶然の出来事だった。

 自宅の最寄り駅から会社まで二駅ということもあり、谷崎さんは普段はドア付近に立っていたらしいけど、その日は思わぬ混雑で中に押し込まれ、私の目の前に立った。谷崎さんはすぐに私に気がついたみたいだけど、私はガン無視……というか、周囲のことなど眼中になかったらしい。私の視線は読んでる本だけに注がれていた。


「何の本かを探る気は無かったんだ。だけど、満員電車だったから目に入ってしまって。それで……その本に見覚えがあって、つぐみが公認会計士を目指しているってわかったんだ」


 谷崎さんの口調から思うに、これは知りたくなくなかったけど、知ってしまったことなんだろう。


「鬱陶しいし、普通の人にはわかるまいってカバーしてなかったんですよね。そう言えば、谷崎さんのお兄さんって公認会計士さんですよね……いいなあ」


 私の中で終わった夢だけど、やっぱり叶えている人が身近にいると思うと、ちょっとだけ心がざわっとする。そこに辿り着く困難さを知っているから、やっかんだりはしないけど。


「頭はいいけど……俺以上にだらしない男だぞ。靴下は脱ぎ捨てたままにするし、家ではゴロゴロしてるし、文字も汚いし」


 フォローなのか、焼きもちなのか……谷崎さんのお兄さんに対するコメントに苦笑する。

 谷崎さん以上にだらしないって……一人でも家の中をピカピカにできる人と比べるのは、ハードルが高すぎる。


「奴は学生時代に試験に受かったけど、俺の記憶にある大学時代の兄貴はいつも勉強していた。特に三年になってからは、大学よりも予備校にいる時間の方が長かったくらいだし。だから、あの頃のつぐみの目指しているものが、どんなに険しいものか容易にわかった。さすがに申し訳なく思った」


 申し訳ないって……谷崎課長らしくない言葉だ。そう言えば、私が公認会計士を目指していると知って落ち込んだって南ちゃんが言ってたな。


「それでどうしたんです?」

「正直、動揺したし迷った。兄貴につぐみの話をしたら、殺されなかっただけマシだと思えって切り捨てられるし」


 随分な言い方だけど……わかってらっしゃる。


「それで事情を知っていそうな南に相談した。そしたら、つぐみは増えた仕事と勉強の両立を必死でやってる。その状態で俺に介入されても迷惑なだけだって言われて、悪いと思うのなら飯でも奢ってやれってアドバイスされた」

「それで連れてってくれたのが、あの中華料理屋さん?」


 仕事復帰した日に連れて行ってもらった店。

 初めて一緒に飯を食ったところだって教えられて、気まずい気分になったっけ。


「そうだよ。前にも言ったけど、最初はちょっと不機嫌そうだった。だけど……」


 その時のことが頭に浮かんだのか、谷崎さんは顔をほころばせた。


「出てきた料理を口にした途端、目を大きく開けて旨いって一気に表情が緩んで……飯が絡むとこんなに素直になる奴なのかって驚いた。初めて可愛いって思った」

「……大げさですよ」


 自覚していることだけど、目を細めて言われると、真っ赤になってしまう。


「いや、あんなに幸せそうな顔で麺を啜る女なんていないぞ。俺も幸せな気持ちになれた。それで、ちょっとだけ打ち解けてくれて」


 ああ……記憶はないけど、その時の様子が手に取るようにわかる。確かにあの鶏そばは感動的だった。丁度いい塩味であっさりしたスープにしっかりした麺があって、そこに柔らかい鶏肉がどんって乗っかっていて、付け合せのチンゲンサイの苦味との相性が絶妙で……って考えるだけで涎が垂れそうだ。味を知っている今の私でさえこうなんだから、初めて味わった私は一気に心を緩めてしまったに違いない。


「……公認会計士を目指しているとか言っちゃいました?」


 諦めつつ尋ねると、谷崎さんはゆっくりと首を振った。


「いや、さすがにそこまでは。好きな食べ物の話とか、お互いの兄弟の話とか……本当に他愛のない話しかしなかったよ。それに勉強があるってわかっていたから、適当なところで切り上げたし。けど、また一緒に飯を食いたくて……時々、誘うようになった」

「私が断るって思わなかったんですか?」

「思ったよ。だから、会社の近くに旨いとんかつ屋があるけど行かない? とか、最上級の肉を使ったハンバーグに興味ない? って感じで声をかけるようにした」


 旨いとんかつに最上級のお肉のハンバーグ。何だ……この私の心を揺さぶるラインナップは。

 肉大好き人間として……断れないじゃない。


「……見事に私の胃袋をつかんだってことですね」


 自嘲気味に言うと、谷崎さんは「俺も胃袋をつかむ側になるとは夢にも思わなかったよ」と軽く笑った。

 こうして谷崎さんは、私にご飯を奢ってやれという南ちゃんのアドバイスを実践し、少しずつ私の心を開いていった。

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