第４９話

　あとで後悔したくない。

　それは今の私も思っていることだ。だけど……クソくらえって。

　もっと他に言い方があるでしょうよ。

　例えば、まっぴらごめんとか。あと、願い下げとか。なのに……何でよりによってそれをチョイスするかな。

　過去の自分が発した言葉に呆れて落ち込む私とは対照的に、谷崎さんは懐かしそうに目を細めて笑っている。

　まさか……。

「これですか？」

　これがあなたの琴線に触れたんですか？　

　最後まで言わなくても、谷崎さんには伝わったらしい。

「ああ」

「これのどこにそんな要素が？」

「俺を睨みつけながら言うつぐみの表情が格好良くてね。それが頭から離れなかった」

　谷崎さんの言葉にガクリと肩を落とす。

　何？　この限りなく黒に近い灰色みたいなきっかけは。

　降りしきる雨の中、傘も差さずに子犬をぎゅっと抱く姿に心を奪われた──みたいな少女マンガ的なきっかけを求めていたわけじゃないけどさ……あんまりだ。

　だけど、これは過ぎ去ってしまったこと。今更喚いたところ消せはしない。良い過去も悪い過去も、全て集まって今の私がいるのだから。

　それよりも今知るべきは、どうして私がそんなことを口走ったかだ。南ちゃんにならともかく、心を開いていなかったであろう谷崎課長に自分の本音を語るなんてあり得ない。自分から言ったというより、その当時の谷崎さんにカチンと来るようなことを言われて言い返したと考える方が自然だ。

「私に何を言ったんですか？」

　そう尋ねると谷崎さんは目を瞠った。

「どうして、俺が何か言ったって思った？」

「何となくです。私って結構、谷崎さんに乗せられてるなって思っていたので」

　仕事復帰の時だってそうだった。躊躇っている私に、できないって言うんなら無理に復帰しろとは言わないけど──と言って私に挑ませた。それは、私が単純なだけかもしれないけど、谷崎さんは策士だと思う。

　私の答えに谷崎さんはニヤリと笑った。

「俺のことがわかってきたみたいだな」

「茶化さないで。こっちは真面目なんだから」

「そうだったな……悪かった。つぐみの言うとおりだよ。つぐみが技術営業支援課から戻ってくるなり、柏原さんはとてもお人好しなんだねって言った」

　なるほど……その一言で納得した。

　あの時の私は、異動のストレスや広岡の件でかなり荒れていたはずだ。

　後悔したくないって気持ちが強かったのは確かだけど、少しはやけになっていた気もする。

　そんな状態の私にとって、お人好しという言葉は地雷でしかない。

「私も私ですけど……谷崎さんも素敵な性格してますね」

　皮肉を込めた呟きに谷崎さんは少し拗ねた顔をする。

「仕方ないだろ。あの当時の俺はひねくれてたし、上司として未熟だったんだから。普通に聞いたところで、つぐみが俺に本音を言うとは思えなかったし。それに嫌味に聞こえたかもしれないけど、人が良すぎるぞっていう忠告もあったんだからな」

「何ですか……それ」

　開き直るような言い方に呆れてみせると、その倍の呆れた顔つきをされる。

「君は他人のために自分が傷つく道を選ぶことがあるだろう。君は自分のためだって言うけどな」

「……」

　そう言われて言葉に詰まる。

　どんな言い方をされても、こればっかりは言い返せない。事故にあって谷崎さんに辛い思いをさせたのは紛れもない事実だ。

「ごめん。責めてるわけじゃないんだ。だた、あの時は一番しんどい目にあう奴が、集中砲火を浴びるという理不尽さに苛立っていたんだ。だから、ああいう場合は嘘でも姫島さんを責めないで下さいって言っておけば、つぐみの株が上がるのにと遠回しに忠告もした」

　もし谷崎さんの言う通りにしていたら……面倒を押し付けられているにも関わらず、相手を庇う優しい柏原さんになれたかもしれない。

「でも、そんな自分は嫌です」

　嘘をつくのが嫌なんじゃない。だけど、誰かを傷つけて自分を美化するような嘘は嫌だ。それこそ、く……願い下げだ。

「だろうな。バカなりに計算してやったことなので放っておいて下さいって」

　

　計算？　この私が？

　ものすごく嘘っぽい。絶対、直情的に動いたはずだ。

「信じられないって顔だな」

「だって……」

「俺も計算はしてないだろうって思ったけどな」

「でしょう？」

「でもな……」

　そう口火を切って谷崎さんは、その時の私が語ったことを教えてくれた。

　手伝ったら残業という条件にも関わらず、技術営業支援課に行ったのは山路さんが大事にしていた案件だったから。

　残業したくないという理由だけで、それを無視して山路さんの案件がダメになったら、私は自分のことをもっと大嫌いになる──と谷崎さんからしてみれば、不思議なことを口走っていたらしい。

　確かにね……だけど、今の私にはわかる。広岡に暴言を吐いた自分を悔やんでいたからだって。

　条件のことは、こんな条件を言い出してきたってことは、これを断ったところで残業させられる未来は目に見えてるのでいいです──と吐き捨てるように言ったらしい。その言い方はどうかと思うけど、間違っていないと思う。

　そして、私が悪者になってまで姫島さんを庇った理由。それは姫島さんのことをきちんと社員教育していない会社の被害者だと思っていたから。

　そんな彼女を仕事を使って陥れようとした女性社員達のやり方に苛立っていたけど、それ以上に気に食わなかったのは、自分を持ち上げることで姫島さんを突き落とそうという彼女達の魂胆。

　気持ちはわかるけど、私らしいとは思うけど……。

「正直というか……何というか。オブラートに包めなかったんですかね」

「いや、俺は普通にコイツいい奴じゃんって感心したよ。だけど、その後の一言はキツかった」

「……何を言ったんですか？」

「私と姫島さんの違いは、いい上司がいたか、いないかだけですから──って」

　谷崎さんの言葉に、背中がすうっと寒くなった。

　言い過ぎだ。それは……いくら腹立たしかったとしても。暗に谷崎さんはダメな上司だって言っているようなものじゃない。　

「……派遣社員ごときが生意気を申し上げて、本当に申し訳ございません」

　たまらず頭を下げた。

　

「いや、つぐみが気にすることじゃない。言われてキツかったのはそれが事実だったからだ。そう言われて悔しくて、その上司以上の存在になってやるって奮起できた。だけど……今思うと、ちょっと妬けるな」

「え？」

「その上司って、つぐみが言ってた椎名さんのことだろ？」

「……っ」

　

　今度は背中が一気に熱くなった。

　はいって言わなくても、隣にいる人には答えがわかっているだろう。

「元々、つぐみの仕事ぶりを見ていて、前の上司に興味があったんだ」

「椎名さんに？」

「つぐみ自身の素質もあるだろうけど、しっかりした上司に鍛えられていたように見えたから」

　やっぱり谷崎さんは鋭い。

　その通りだ。椎名さんと出会えたから、社会人の柏原つぐみはできたと言っても過言ではない。

　もし、私が椎名さんの下で働いていなかったら……谷崎さんは姫島さんの後任に私を選ばなかったかもしれない。そうしたら今は無かったわけで……辛かった恋だけど、私には必要な出会いだったんだ。

「参考がてらに聞いても、鬼のように怖い人でしたの一言でさ。それじゃ参考にならないって思っても、語りたそうじゃなかったから。つぐみの話を聞いて、色々納得したよ」

　ちょっと待って。何か変な勘違いをされてない？

「違いますからね。確かに恋心もありましたけど……仕事とそれは切り離してましたからね」

　慌てて説明すると、谷崎さんはふっと柔らかに笑った。

「わかってるよ。俺はつぐみと付き合ってたんだから」

　その一言ではっとした。

　そうだ。すっかり忘れていたけど、谷崎さんと私は社内恋愛をしていたのだった。

　椎名さん、大路さん、そして谷崎さん。……よく考えたら、みんな社内の相手だ。気づかなかったけど、社内恋愛に憧れていたのだろうか。

　そう考えると、私にとって谷崎さんは三度目の正直の相手？　いや、想うより想われた方が先だから違うか。

　私が社内恋愛。

　なんか……イメージできない。

　椎名さんや大路さんの時は、叶わないことを前提にしていたから、社内恋愛している自分なんて想像もしなかった。

「どんな感じでした？」

　会社では恋人の顔を見せてくれなかったって言われたから、いい予感はしないけれど、やっと叶えた？　社内恋愛を私がどうしていたかは気になる。

「さっきも言ったけど、つぐみは会社では俺のことを完全に谷崎課長として見ていた。付き合う前よりもガツガツして仕事をするようになったし、男気が溢れるようになったというか……」

　そこまで言って谷崎さんは言い淀んだ。どこかで耳にしたことのある話だ。

「色気なんて無かったってことですよね」

「……ああ」

「ふっ……」

　谷崎さんの返事を聞いて笑ってしまった。

　何となく想像できた。多分、椎名さんに片想いしていたみたいな感じだったんだろう。悟られてはいけない片想いと、周囲には伏せないといけない両想いとでは事情は違うけど。

「つぐみ？」

「すみません。私らしいなって思ってしまって」

「そうは言うけどな……結構寂しいもんだぞ。周囲に隠す必要があったのはわかるけど、社内で二人きりになった時くらいは、恋人の時の顔を見せろって思ったよ。そこまで警戒しなくてもいいのにって」

　ため息混じりに言われ、申し訳ない気持ちになる。だけどこればっかりは私の性格上、絶対に無理。

　谷崎さんだったら、その辺りのコントロールは上手くできるのかもしれないけど。

「ごめんなさい。でも、私には無理だったと思います。下手に緩めたら締まらなくなるというか……不器用ですから」

「それもそうだな」

　あっさり納得されると、それはそれで切ない。

　

「今の私でもそうなると思います。バレちゃいけないというのもあるけど、それ以上に二人の関係を大切に思うから。……仕事に支障をきたしたらダメだって。谷崎課長にふさわしい自分でいなきゃって」

「……ふっ。やっぱり、つぐみはつぐみだ」

　そう言って谷崎さんは声を上げて笑う。この反応から察するに、同じことを過去の私に言われたんだろう。

　それにしても……話が逸れている気がする。していたのは、谷崎さんが私を意識するきっかけになる話であって、二人が付き合ってからの話ではない。

「で、あの日からどうなったんですか？」

　軌道修正するべく、谷崎さんが落ち着いたのを見計らって尋ねた。