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迷子のネムリヒメ  作者: 燕尾
本編
44/64

第44話

 時間が止まったみたい。

 そう錯覚してしまいそうになるくらい、ゆっくりと静かに時が流れている。

 いくら心地良くても、そろそろ谷崎さんの腕から抜け出さないと……そう思うけど、もう少しだけと私の腕は谷崎さんを離すのを拒む。

 どうしようと迷っていたら、呟くような谷崎さんの声が聞こえてきた。


「今度は俺の番だ」

「え?」

「つぐみは俺に色々打ち明けてくれたのに……俺が黙っているのはフェアじゃない」


 その言葉は私にじゃなくて、谷崎さん自身に向けられている気がする。何度か深呼吸をした後に、谷崎さんはゆっくりと私を抱きしめていた腕を解いていった。それに従うように私も谷崎さんの背中から腕を離した。

 久しぶりに谷崎さんの顔が視界に映る。

 私の目が谷崎さんの目を捕らえたけど、それと同時にさっきまでの自分の言動を思いっきり反芻してしまい、反射的に顔を逸らした。

 好きだと伝えて抱き合ったのに、私の中にはまだまだぎこちなさが残っている。

 谷崎さんはそんな私をフッと笑い、ローテーブルの方に視線をやった。


「そう言えば、グラスが空だったな」

「そうでした」

「さっきと同じのでいい?」


 そう言って谷崎さんが立ち上がろうとするから、慌てて遮る。


「いえ、今度は私が。誕生日の人にやらせるわけには」


 そう言うとソファーに押しやられた。


「いいから、待ってて。誕生日プレゼントなら、もう充分すぎるくらいもらったから」


 谷崎さんの言うプレゼントが財布だけを指しているわけじゃないのは、その表情が物語っている。


「……っ」


 谷崎さんは大きな手で二つのグラスをひょいとつかみ、顔を赤くしている私に軽い微笑みを残して、台所の方へ向かって行った。

 心臓がドクンと大きく跳ねる。

 ……意識し過ぎ。

 ただ、微笑んだだけじゃない。

 そうやって自分につっこみを入れるけど、心の中から溢れ出してしまった気持ちは簡単に制御できそうにない。

 少し経った後、谷崎さんが戻ってきた。

 さっきと同じようにローテーブルにグラスを置いて、私の隣に腰掛ける。

 それは今までと同じ光景。

 指を絡ませなければ、肩にもたれ掛かったりもしない。

 ただ、並んで座っているだけ。

 だけど、一つだけ変わったものがある。それは二人の間にあったクッション一個分の距離だ。

 どっちかが意識的に縮めたというより、二人とも無意識のうちに半分づつ距離を詰めていった感じ。何となくっていう感じが、私達らしくて少しおかしかった。

「いただきます」と短く言って、差し出されたグラスに口をつける。

 冷たいお茶が喉を通り抜けていく。その冷たい感触は喉を潤すだけじゃなく、熱に浮かされていた私を冷静にさせてくれた。

 今度は俺の番だ──谷崎さんはそう言ったけれど、それは私にも言えることだ。

 今度は私が谷崎さんの思いを受け止める番。

 どんな話が出てくるのだろう。

 本当は不安だし……少し怖い。だけど、私がそれを口に出したら、谷崎さんに我慢を強いることになる。谷崎さんが何を言っても、谷崎さんみたいにはできないかもしれないけれど、私なりにちゃんと受け止めたい。

 だから何でも言って──そういう気持ちで谷崎さんに念を送ってみた。それが届いたのかわからないけれど、谷崎さんはアイスコーヒーを軽く啜り、「さてと」と言ってグラスをローテーブルに置いた。


「何から話そうか……そうだ、最初にこれだけは言っておく」

「はい」


 最初から核心かと緊張するけれど、何でも来いと言うようにはっきりと頷く。


「つぐみは誤解しているみたいだけど、俺も幸せだったから。……今のつぐみとの生活」

「え?」


 予想外の言葉に戸惑う。

 幸せだった?

 記憶喪失の私との生活が?

 ……そんなはずない。


「嘘だと思う? だったら俺の顔を見て。嘘をついているように見えるか?」


 そう言った谷崎さんの顔は、とても穏やかな笑みを浮かべている。谷崎さんの言葉に嘘偽りがないことは一目でわかる。

 それでも……。疑うような顔をしている私を諭すように谷崎さんは話を続ける。


「確かに……交通事故に遭って、意識不明の状態だって聞かれた時には心が凍りついたし、記憶喪失だと告げられた時には途方に暮れた」

「それは……本当にごめんなさい」


 旦那の立場だったらやりきれないぞ──椎名さんに言われたことを思い出す。誰かを助けるためだとしても、谷崎さんが同じことをしたら……私は絶対に怒る。


「それはもういい。あんな思いは二度とご免だが、つぐみは俺の誕生日に戻ってきてくれて、こうして俺の隣にいる。俺はその現実を大切にしたい」


 どうしてこの人は甘い言葉をさらりと言えるのだろう。おかげでこっちは治まりかけていた熱がまた上がりそうだ。


「辛くなかったと言えば……嘘になる。だけど信じていた。記憶がなくてもつぐみはつぐみだ、と」

「だから、私が他の男と不倫しているって言っても冷静だったんですね」

「あり得ないってわかってたからな」

「だったら、そう言ってくれれば良かったのに……」


 口を尖らせてそう言うと、谷崎さんは苦笑した。

 わかっている。

 あの時の私は、谷崎さんが否定してくれてもその言葉を信じなかったと。


「悪かったなとは思う。だけど、それをどう説明すべきか……言葉が出てこなかった」

「説明?」

「あの時のつぐみには、そう言い切る理由が必要だっただろ? だけど、それを言うのはちょっと……」

 

 珍しく歯切れが悪い。恥ずかしい理由でもあるのだろうか。


「何ですか? 口に出すのが辛いことなら、聞きませんけど。そうじゃないなら、言って下さい」


 心に溜めておくのは良くないと思い軽く問いただすと、谷崎さんはつぐみがそう言うならと、前置きをした上で話し始めた。


「つぐみが不倫なんて想像したくはないけど……もしそういう相手がいたのなら、つぐみは真っ先に俺に別れて欲しいって言うはずだと思ったのが一つ。それとこっちの理由の方がデカイけど、俺に隠れて、しかも俺に気づかれずに不倫する器用さをつぐみは持ち合わせていない……って、これをそのまま伝えるわけにもいかないだろ?」

「……」


 的確かつ冷静な言い分に言葉が出てこない。

 南ちゃんにも似たようなことを言われたっけ。

 その時は、大切な存在のためなら騙すよって返したけど、三年後の自分を何だと思ってるんだと瞬殺された。だからわかっているけど、念のため聞いてみる。

 

「谷崎つぐみさんも器用じゃないってことですよね」

「……」


 無言の答えってやつだ。

 谷崎さんがそう言うなら……きっとそうなんだろう。複雑だけど、ある意味で私より谷崎つぐみさんのことを知っている人だから。


「言っておくけど、貶しているわけじゃないから。その不器用さがつぐみの魅力だから」


 遠い目をしている私に谷崎さんが慰めるように言葉をかけてくれるけど、不器用さが魅力って……フォローになってない。


「大丈夫です。南ちゃんにも言われてたことなので。それに私って結構な頻度で、谷崎つぐみさんと同じこと言ってたみたいだし……」


 ため息混じりに言ったら、谷崎さんが少し驚いた顔をした。


「……自覚があったのか。じゃあ、実家からここに来た日のことを覚えているか?」


 あの日のことを尋ねられて、その時のことを頭の中に思い浮かべる。だけど、緊張していたとか気まずかったとかそういうことばかりが出てきて、答えに辿り着けない。

 頭を抱えて考えていたら、谷崎さんが目を細めながら教えてくれた。


「二人で商店街を歩いていた時に、つぐみはこう言ったんだ。“谷崎課長に似合っている街ですね”って」

「あっ」


 思い出した。

 そうだ。確かに言った。おしゃれではないけど、どこか温かい感じがこの人らしいなって。


「初めて二人で商店街を歩いた時もつぐみは“谷崎さんに似合っている街ですね”って言ったんだ。それが懐かしくて……とても嬉しかった。ああ、つぐみはここにいるんだって。記憶がなくてもつぐみはつぐみだって思えた」


 そう言えば……あの時、谷崎さんは驚いた顔をした後に穏やかに笑ってた。そういうことだったんだ。


「つぐみは記憶を失ったことで、俺に引け目を感じていたみたいだけど、記憶が欠落している状況の中で自分にできることを見つけて俺を支えてくれた」

「そんな……私は何も」

「日々の掃除や洗濯……料理だって、苦手だからって惣菜ばかりにせずに、簡単な料理を姫島さんから聞いて作ってくれた」

「そんな……たいしたことじゃないし」

「毎日の小さな出来事の積み重ねが宝物だったって、つぐみは言ってくれただろ」

「はい」

「それと同じことだよ」


 さっきの自分の台詞を思い出して、少し照れくさい気分になったけど、納得もする。


「それと仕事のことだけど、つぐみが復帰する前に根回しをしたのは事実だけど、それ以上のことは何もしていない。復帰して大丈夫だったのは、林田さんや姫島さんのサポートもあったと思うけど、つぐみ自身の力があったからだよ。俺はそんな君がどんなに誇らしかったか……」

「それは言い過ぎですよ」


 私自身の力だと谷崎さんに認めてもらうのは嬉しいけど、私を美化し過ぎな気がする。窘めるように言うと、谷崎さんは反論してきた。


「そんなことはない。君は記憶喪失を言い訳にしなかっただろ」

「私が記憶喪失だということは会社の業務とは別問題でしょう?」

 

 ごく当たり前のことを言ったら、谷崎さんはニヤリとした表情を浮かべた。


「……武器や防具を剥がされた挙げ句、魔法も封じられた状態で戦うってことって不安がってたのが嘘みたいだな」

「あれは……忘れて下さいって言いましたよね」


 実家からここに来た日に、思わず口に出してしまった子供じみた私の喩えを持ち出されて潜りたくなる。


「ごめん。でも、あれは忘れられないよ。事故があってから、初めて声を出して笑ったんだから」


 谷崎さんの口からさりげなく出てきた事実に胸がちくりとする。あの時の私は、声を出して笑う谷崎さんに笑い上戸な人なんだという印象しか持たなかった。それどころか……バカにされているとさえ思っていた。


「それに言い得て妙だなと思った。俺はできると信じて疑わなかったけど、つぐみの立場からすれば三年分の記憶がないって、そのくらいのハンデに思うのも無理はないよな。だけど、つぐみはそのハンデを埋めるように、図書館に通って新聞の縮刷版や経済雑誌のバックナンバーに目を通して、三年間の間の出来事を頭の中に叩き込んでいた。その姿は“武器や防具が無いなら無いなりに戦うまでよ”って言っているみたいで……格好良かった。元々惚れていたけど、更に君に惚れた」

「……っ」

 

 一体、谷崎さんはどれだけの殺し文句を持っているんだろう。私はその言葉にドキドキされられっぱなしだ。

 そんな私とは違って、谷崎さんは涼しい顔をしているに違いない。

 だけど、隣にいる谷崎さんの顔に浮かんでいたのは、どこか自嘲的な笑みだった。


「だから……不安だった。つぐみは俺のことをまた、想ってくれるだろうかって。俺ってつぐみの好みじゃないだろうし」

「そんなこと……」


 ないって言おうとしたら、無理しなくていいと遮られた。


「わかってるから……病室で目覚めた時のつぐみが好きだったのは大路だったって」


 谷崎さんの言葉に固まった。

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