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迷子のネムリヒメ  作者: 燕尾
本編
42/64

第42話

「会いに行ったのか?」


 表情は変わらなかったけど、その声音からは緊張感が伝わってきた。


「流石にそこまでの勇気は……。偶然です。心療内科の診察を終えて、会計も済ませて、病院を出ようとした時に椎名さんに声をかけられて……広岡がそこの産婦人科に入院していたから」

「あの病院……大学病院だったな」


 納得したという感じで呟いた後、谷崎さんは顔を曇らせた。


「でも、そんな偶然って……」


 あんまりだろう。

 声は聞こえなかったけど、そう言っているような気がした。あんな話を聞かせてしまったのだから、無理もない。


「びっくりですよね。私も慌てちゃって、カバンの中身を派手にぶち撒けて、椎名さんに拾わせちゃった」

「それは無理もないだろう……平気だったのか?」


 心配そうに私を見つめている。

 明るいトーンで話したつもりだったけど……日記を読んで荒れた私を見せちゃったから、平気だって言っても説得力はない。


「正直、会いたくなかったです──というより怖かった。心が乱れないはずがないって思ってたし。だけど、驚くくらい私の心は落ち着いていました。カバンの中身はぶち撒けたのにね……。それに、この偶然には意味があるって思って、驚かせて悪かったって去ろうとする椎名さんを捕まえて、話をさせてもらいました」


 そこから、病院の喫茶室での出来事を話した。

 事故のこと、記憶喪失になって三年分の記憶がないことを伝えて、たかが三年だからと言ったら、三年もだろと怒られたこと。無茶しやがって……旦那の立場だったらやり切れないと窘められたこと。

 私の椎名さんへの気持ちのこと。椎名さんが私の気持ちに気づいていて、その上で謝られたこと。

 そして新しい命のこと。椎名さんから広岡が無事に出産を終えたことを聞き、心からよかったと思い、笑顔でおめでとうと言えたこと。

 そこで、タカノリが二人の子供を意味していると気づいたこと。


「……もっと早く気づけなかったのか?」

「すみません。椎名さんの下の名前はすっかり忘れていて」


 こればっかりは謝るしかない。呆れた顔しているんだろうなと思ったら、何故か口元に笑みを浮かべていた。


「で、タカノリ君には会えたのか?」

「会えたんですけど……女の子だったので、史香ちゃんでした」

「何だよ……それ」


 私の勘違いがおかしかったのか、言い方がおかしかったのかわからないけど、そう告げると谷崎さんが声を上げて笑った。

 谷崎さんが落ち着くのを待って、広岡に会った話をした。

 投函できなかった手紙を渡して欲しいと椎名さんに頼んだら、直接会って渡せばいいと言われたけれど、私と会うことが産後の広岡のストレスになったら……と躊躇ったこと。

 心配しすぎと言う椎名さんに広岡の意志確認をしてもらった上で、病室に入ったこと。

 病室の扉を開けるまでの緊張感、広岡を目にした途端に溢れてきた様々な感情のこと。

 二人して謝り合って、色々な話をしたこと。

 そして、羨ましくて悔しいとずっと口に出せなかった気持ちを告げた上で、よかったね、おめでとうと言えたこと。そんな自分を誇りに思えたこと。 


「頑張ったな」


 全てを話し終わった後、谷崎さんが見守るような優しい眼差しで、呟くように言った。


「……っ」


 その姿を見たら、何だか胸がいっぱいになって……また涙が溢れてきそうになった。

 たった一言なのに、飾り気のない言葉なのに、谷崎さんの言葉が胸に染み込んでいって、それが私を温かい気持ちにさせていく。

 きっと、そういうところだったんだ。


「谷崎さんのおかげです」

「いや。俺は何もしてない。過去ときちんと向き合って、友達を祝福できたのはつぐみ自身の力だろう」

「それは違います。谷崎さんがいなかったら、私はあの場から猛ダッシュで逃げ出していました。谷崎さんが私を大切にしてくれた日々があるから、私は二人を祝福できたんです」


 谷崎さんが私を凝視しているのがわかる。じっと見つめられて、私の胸がものすごいスピードで高鳴っていく。

 私を見つめるその視線に溺れそうになる。苦しくて逃れたいって思うけど、それは絶対にしない。谷崎さんに負けじと私も谷崎さんをじっと見つめ返す。


「椎名さんにおめでとうございますって言った時、椎名さんは今まで見たことない優しい笑顔でありがとうって言ってくれたんです。その笑顔を見て、私も幸せな気持ちになりました」

「それはよかったな」

「いえ……ちょっと前の私だったら、その笑顔は広岡と赤ちゃんに向けられたものだとか考えて、胸を痛めていたはずです。でも、今の私はその笑顔を見て純粋によかったって思えたんです。それって、何でだと思いますか?」

「つぐみが頑張ったからだろう?」

「谷崎さんと過ごした日々が私にとって幸せだったからですよ」

「……本当に?」


 谷崎さんは本気で驚いた顔をしつつ、冷静に私に問いかけてきた。


「本当です。三年前のあの日に戻るとか、記憶が戻るとか、そういう奇跡は起きなかったけど、毎日の小さな出来事の積み重ねが、今の私にとって宝物だったんです」

「……俺がしてやれたのは、仕事復帰くらいだぞ」


 その声は小さく震えている。その言葉からは、自信の無さと不安が伝わってきた。まだ足りない。

 

「そんなことない。見守っていてくれたじゃないですか。離れすぎず、近すぎず……私が望んでいた距離で。谷崎さんが望んでいた距離とは違うのに……私のことだけを考えてくれていた。自分のことは後回しにして。そんな深い愛情に包まれていて、幸せじゃないわけがない」


 谷崎さんと一緒にいて、幸せだったのは今の私だけじゃない。谷崎つぐみさんだってそうだ。

 谷崎さんが自分を大切に思ってくれたから、好きじゃなかった自分のことを好きになれた。だから、広岡のことを願えた。


「今の私だけじゃない。過去の私達だってそうです。三十歳になっているのに、二十七歳の私よりキレイになっているのも、谷崎さんと一緒にいる写真やDVDで、自分でも見たことないような幸せな笑顔を浮かべているのも、谷崎さんと一緒にいるようになって自分を好きになれたのも全部、谷崎さんのせいですよ。どうしてくれるんですか!」

「そう言われても……困る」


 困ると言いつつ、その声はどこか弾んでいる。よかった……でも、まだだ。大事なことを言えていない。


「困ってる場合じゃないです。こっちは悔しい気持ちでいっぱいなのに」

「悔しい?」

「気づけなかった。谷崎さんが私のために色々してくれていたこと。そして、谷崎さんの誕生日のこと。今日まで知らなかった」

「それは仕方ないだろ。言わなかったし、口止めしてたんだから」

「それが悔しいんです。谷崎さんに気を使わせた自分が。それに甘えていた自分が。大路さんから教えてもらった自分が。全部悔しいんです」

「……」


 谷崎さんは、参ったなという顔で、手を口元にやっている。

 困らせたいわけじゃない。私の為に色々してくれているのに、それを私に感じさせない。谷崎さんのそういうところに、私の気持ちが動いたのだから。……それをどうやって伝えようと思っていたら、谷崎さんが口を開いた。


「悪かった。確かに俺の配慮が足りなかった。これに関する不満とか文句とか、何でもぶつけてくれ」


 そうじゃないけど、これはチャンスだ。


「じゃあ、遠慮なく言います」


 啖呵を切ったものの緊張で震えてくる。でも、これは今伝えないと意味がない。言えなかったら……この先ずっと後悔する。

 だから言わなくちゃ……。

 目を閉じて大きく息を吸って吐いた。閉じていた瞼にぎゅっと力を入れた後、瞼を開けてしっかりと谷崎さんの瞳を捉えた。


「誕生日おめでとう」

「……ありがとう」


 照れくさそうに谷崎さんが微笑んだ。

 自分が旦那さんにこの台詞を言う日が来るなんて、思ってもみなかった。不思議な感じだけど、嬉しくてたまらない。

 今日の日を誰よりも大事にしてきた谷崎つぐみさんの分までしっかり想いを伝えよう。


「至らない奥さんでごめんなさい」

「いや」


 ごめんなさいよりありがとうだってわかるけど、迷惑をかけているのも事実。


「こんな私をいつも温かく包み込んでくれてありがとう」

「こちらこそ、慣れない中で自分のできることをしてくれてありがとう」


 まだだ、もっと伝えないと。


「私のことを好きになってくれてありがとう」


 谷崎さんが好きなのは、谷崎つぐみさんであって今の私じゃないと思ったこともある。

 だけど、休憩室でふて寝した私が谷崎つぐみさんに繋がっていて、谷崎つぐみさんが今の私に繋がっている。過去の私も今の私も未来の私も……全部私だと今は思える。

 谷崎さんがどうして私を好きになったのかわからない。でも、この人は私が気づいていない、私のいいところを見つけてくれた気がする。だからこそ、その気持ちにふさわしい自分でいたい。


「そして何より……私と出会ってくれて本当にありがとう」


 望んでいた未来とは違ったけれど、谷崎さんと出会えて、一緒に歩くようになって、好きじゃなかった自分のことを好きになれた。華やかさはないけど、さりげない優しさや素朴な言葉は冷たくなっていた私の心を温かくしてくれた。

 ありがとうって百万回言っても足りないくらい、感謝している。

 そして……私の気持ち。


「……」


 口を開いたけど、いざ言葉しようとすると……声にならない。

 緊張している場合じゃない。

 言え!

 この部屋いっぱいに届く声で。

 たった六文字でしょ。

 谷崎さんは言ってくれたよ。

 愛している、と。

 だから私も覚悟を決めろ。もう一度大きく深呼吸して、声を出した。


「……だいすきだよ」


 覚悟を決めたはずなのに、口をついて出てきたのは、呟くような小さな声の……だいすきだった。

 子供の告白かって思うけど、そう言葉にするのでやっとだった。

 谷崎さんは黙ったまま私を見つめている。情けない告白だったけど、ちゃんと耳に届いているはずだ。

 静かな時間が流れている。

 お互い何も言わず、視線を合わせたまま。

 これでよかったはず。自分の伝えたいことは全部言葉にした。だけど、時が流れるにつれ、さっきの自分の言葉を反芻してしまい、じわじわと体が熱くなり、胸の鼓動が激しくなってきた。

 恥ずかしい……そして気まずい。この雰囲気に耐えられなくなり、気を紛らわそうと谷崎さんから視線を外し、ローテーブルの方を見やった。

 ……グラスが空になっている。それだけ時間が経っていたんだ。


「すみません。長々と喋りすぎました」

「……」

「グラス空になってましたね。コーヒーでいいですよね? 入れてきます……って、えっ?」


 キッチンへ行こうと立ち上がろうとした途端、私の腕を谷崎さんが引き与せた。

 あっと言う間に、私は谷崎さんの腕に包み込まれた。

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