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迷子のネムリヒメ  作者: 燕尾
本編
41/64

第41話

「……」


 聞いて欲しいと言ったものの、いざ口にしようとすると言葉に詰まってしまう。さっきからその繰り返し。

 何をどう話せばいいのか……迷う。

 全てを話すべきだと思うけど、谷崎さんに椎名さんの話をするのは無神経だと思う。でも、椎名さんの話を避けて説明するのは難しいし……どうすればいいのだろう。


「大丈夫だよ」


 黙り込んだままの私に谷崎さんが声をかけてくれた。


「焦らなくていい。俺に話して楽になることなら話せばいいし、口にするのがキツイことなら話さなくていい。つぐみが何を言っても受け止めるから」


 その言葉で私の心がふわっと軽くなっていく。本当にこの人は……私のことを大切にしてくれる。

 その思いにきちんと答えたい。

 忘れたくなるような痛い思いも、忘れたくない素敵な思いも、たくさんの思いを重ねて……今、私はここにいる。

 包み隠さずに全てを伝えよう。

 迷いを断ち切り、ぽつりぽつりと自分の中にある思いを話し始めた。


 色々な話をした。

 私が自分を見失ったきっかけは、手帳だったこと。

 タカノリを祝福するという自分の文字。

 一文字ずつに気持ちが込められているように見えて……胸がざわついて、タカノリという名前が頭の中から離れず、谷崎さんに後ろめたい気持ちを持っていたこと。

 椎名さんと広岡のこと。

 前の会社の上司であった椎名さんに厳しく指導され、最初は怖がっていたけれど、徐々に惹かれていったこと。

 だけど、椎名さんの亡くなった奥さんへの思いを知っていたから、叶わぬ恋だと最初から諦めていた。自分の気持ちを椎名さんに知られたら、上司と部下という関係で築いたものが変わってしまうと必死で隠し通したこと。

 そんな私とは逆に、何度も気持ちを伝え続け椎名さんを手に入れた広岡。片想いから恋人同士……そして夫婦へと二人の関係と空気が変わっていくのをただ、そばで眺めていることしかできなかったこと。

 恋敵的な存在だったけど、広岡は一番気が合う同期で、お互い会社を離れても時々会っていて、その度に聞かされる椎名さんの愚痴に傷ついていたこと。

 大路さんのこと。

 前の恋より短くて浅かった恋。それでも、大路さんを意識するようになってから、広岡の愚痴に傷つかなくなったことも

 そんな矢先の三年前の二月十三日。

 あの日は朝から気分が最悪で、色々ついてなくて……そのトドメが大路さんと姫島さんのできちゃった婚とトレード。

 二人の結婚はショックだったけど、並んている二人を目にしたら、お似合い過ぎて諦めがついたこと。

 それよりも、失恋したばかりの相手の部署に異動と仕打ちの方がショックだったこと。

 そして、私が読んでしまった日記。

 異動してから忙しくなって、仕事と勉強の両立が上手く行かなくなって苛ついている時期だった。そんな時の広岡のオメデタ連絡。妊娠した自分に協力的でない先輩の話とかは聞き流していたけど、大路さんへ気持ちを伝えなかったことを言われて、理性が切れて暴言を吐いたこと。

 幸せな人間は無神経だとか、大した仕事もしていないくせに、妊娠出産のフォローをさせられる側のことを考えたことがあるのか……たくさんの言葉を広岡にぶつけた。もっともらしい言葉の裏にあったのが、好きな人を好きな仕事を手に入れた広岡に対する妬みだということに気づかずに。


「最低っ──そう思いました。でも日記を読んだ時、よく言ったって思う私もいて……日記の中の私と今の私を切り離せなくて……自分が大嫌いになったんです。それに……谷崎つぐみさんのこともそうです。広岡を傷つけるくらいに、椎名さんへの想いを引きずっていたのに、何食わぬ顔して谷崎さんと結婚して、他の男の人と関係を持っていた。そのあざとさも許せなかった。……全てが嫌になりました。そんな時に、谷崎さんと私は仮面夫婦だっていう陰口を聞いたり、近江さんとの一件があって……私に言葉をぶつけてくる彼女を見ていたら、私と重なって見えてきて……彼女に言ったことは、あの頃の自分に言ったようなものです」

「……」


 谷崎さんは表情を変えること無く聞いてくれていたけど、日記の話になってからどこか考え込んでいるように見えた。

 聞かなかればよかったって思っているのかもしれない。


「ごめんなさい……こんな話聞かされても困りますよね。今は大丈夫です。きちんとケリはつけましたから。近江さんにも謝りました」

「いや、謝るのは俺の方だ。つぐみを追いつめたのは、三年前の俺だ」

「え?」


 思いもよらない谷崎さんの言葉に戸惑う。ここまでの話に谷崎さんは関係ない。


「今更だけど、つぐみの異動……俺の意向が絡んでるんだ」

「え……私の仕事が姫島さんに楽だったからじゃ?」

「……部長からそう聞いたのか?」

「はい」


 素直に答えたら、谷崎さんはため息をこぼし、伏し目がちに言った。


「俺がつぐみ以外の人間なら、要らないってゴネたんだ。……言っておくが、公私混同ではないぞ。あの頃は仕事以外のつぐみのことはよく知らなかったし」

「じゃあ……どうして? 私って谷崎さんと仕事で絡んだことないですよね」


 正直、今更だって思う。ちょっと前の私なら、ふざけるなって憤っていたかもしれないけど、それが今に繋がっているわけで……でも、事情は知りたい。


「絡むことはなかったけど、佐々木課長との仕事で、つぐみの作った資料を目にすることが多かったから。いつもその出来に感心してたんだ」

「最初の上司に鍛えられましたから……」


 頭の中に私のその時の光景が浮かびそうになるけど、必死に追い出した。あんな怖い思いはもういい。これと椎名さんへの想いは別物だ。


「だろうな。つぐみの仕事ぶりを見ていたら、前の会社で相当鍛えられてたなって思ったよ。だから、どうしてもつぐみを市場開発課に引き入れたかった。それが……つぐみの余裕を奪った。今更だけど悪かった」

「……」


 何と返せばいいのだろう。

 そう言えばこの人、私が公認会計士を目指してるって知った時、落ち込んだって聞いたな。

 私も私で、日記に谷崎さんと出会わなければ、公認会計士になれていたって思ってしまうって書いてた。

 でも、それは違う。


「谷崎さん、市場開発課の課長としてお聞きします。柏原つぐみを市場開発課に入れたことは失敗でしたか?」

「それはない」


 私の問いかけに谷崎さんは即答した。夫ではない、市場開発課の課長の顔で。相変わらずの淡々とした表情だけど、その目には管理職としての厳しさも宿っている。


「正直、最初は扱いづらかった。だが、君が来てから市場開発課の業務効率が上がったのも事実。それが大きな案件の受注獲得に繋がった。だから、課の責任者としての俺の判断は間違っていない」


 鋭い空気を纏ったまま、谷崎さんは言い切った。私情なんてそこにはない。どこか冷たく聞こえたけど、純粋に社会人としての柏原つぐみを語ってくれたのだと思うと口元が緩んだ。

 

「だったら、悪かったなんて言わないで下さい。それにこれは、私自身の問題です。異動しようがしまいが……私は広岡を責め立てただろうし、試験の結果だって同じだったと思います。異動する前だって落ちてたんだから。大体、私には辞めるっていう選択肢だってあった。それを選ばなかったのは、私の責任でしょう?」


 あの時に辞めるという道を選んでいたら?

 今だって時々頭の中を過るし、過去の私だって思ったはずだ。

 でも……。


「辞めればよかったかなって思うことはあります。過去の私も思ったでしょう。関係ないってわかっていても、谷崎さんのせいにしてしまいそうな私だっていた。仕方ないでしょう? たれればなんて無意味だって知っていても、頭の中に浮かんでくるんだもん。でも、こうも思うんです。どんな邪魔が入ろうと、どんなハンデが降ってこようが、叶える人は叶える。上手く言えないけど、辞めてればって思った時点で、そこまでだったってことなんです。だから、三年前の谷崎さんなんて関係ないんです」


 言い切った後、しまったと思った。谷崎さんなんてって……生意気だ。谷崎さんが気を悪くしたらどうしようと、恐る恐る様子を探ると……クスクスと笑っていた。


「ごめん……つぐみらしくて。そうだよな……つぐみ自身の問題だよな。踏み込もうとして悪かった」


 ……このリアクションには覚えがある。多分、過去にも同じようなことを言っていたんだ。私って……いや、この手のことはもう気にしない。私は私なんだから。


「そう言えば、ケリをつけたって……近江さんのことはわかったけど、日記のこととかは解決したのか?」

「はい。日記も全部読んだし、これも話すと長くなるんですけど……」


 そう切り出して、実家に戻ってからの話をした。

 何があったか言えと南ちゃんに凄まれ、手帳のことや日記のことを話して、自分の不倫疑惑をありえないと一蹴され、谷崎つぐみさんと私は大して変わらないと言われたこと。

 少しだけ教えてもらった、二月十三日の後のこと。姫島さんを叱りつけた自分に落ち込んだこと。

 蘭ちゃんに促されるままに見たDVDで、谷崎さんと私がお互いを信頼し合っている夫婦だと知り、過去を全部受け入れようと日記を全て読んだこと。そこには痛いことしか書いていなかったけど、三年間の間に自分なりに苦しみ足掻いて頑張って生きていたんだとわかったこと。


「何だかんだ言って、私は記憶を失う前の私に敵わないって思ったんです。そんな時でした。椎名さんと広岡と再会したのは」


 再会という言葉に谷崎さんの眉がピクリと反応した。

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