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迷子のネムリヒメ  作者: 燕尾
本編
37/64

第37話

 泣いている場合じゃない。

 わかっているのに、私の頬を伝う涙は止まる気配がない。

 次から次へと溢れてくる谷崎さんへの感情に私の理性が追いつかない。

 だからって泣いたままでいいわけがない。無理にでも止めてやると思い、目を思いっきりぎゅっと閉じた。


「会いたくなった?」

「!」


 心の中で叫んでいたことを言い当てられ、思わず目を開いた。

 視界に映る大路さんは、泣いている私に困惑することもなく、見守るような優しい笑みを浮かべている。


「その顔は当たりだね。よかったら使って」


 私の目の前にポケットティッシュが置かれた。ありがとうございます──そう言いたいけど、涙でうまく声になりそうにない。言葉の代わりに頭を下げてポケットティッシュを手にした。


「ちょっと待ってて」


 大路さんは休憩室にある内線電話へ向かって行った。

 仕事の連絡だろうか……って私も仕事中だ。市場開発課のヘルプは終わったんだから、自分の部署に戻らないと。

 ティッシュで目を抑えていると、大路さんの声が聞こえてきた。


「……あかり、お疲れ。俺だよ」


 電話の相手は姫島さん? 

 夫婦の会話を盗み聞きしている気分だ。そんなつもりはないのに……ここから離れた方がいいかもしれないと思っていたら、大路さんが突拍子もないことを言い出した。


「今、休憩室にいるんだけど、柏原さんが具合悪いみたいでさ……。うん……そうだね。悪いけど、柏原さんの荷物持ってきてくれる?」


 ちょっと待って。

 私が具合悪い?

 ピンピンしてますけど?

 確かに……さっきまで泣いてましたけど。


 軽くフリーズしている私のところに、大路さんはニヤリとした笑みを浮かべて戻ってきた。その表情はイタズラを仕掛ける中学生みたいだ。


「あかりが早退手続きして、柏原さんの荷物をここに持ってきてくれるから、ちょっと待ってて」


 大路さんの言葉に私は慌てて首を振った。こんなことで早退するわけにはいかない。


「いえ、大丈夫ですから。涙もこの通り治まりましたし戻ります」


 あっけに取られているうちに涙は止まっていた。けれど、大路さんは私の言い分を聞こうとしない。


「大丈夫じゃないよ。柏原さんはすぐに帰らないと」

「いや……本当に大丈夫ですから」

「いや、帰りなさい」


 命令口調になった。

 あと一時間ちょっとくらいのことなのに、何ですぐに帰れなんて言うのだろう?


「柏原さんは知らないと思うけど、うちの会社にはある規則があるんだ」

「はあ」

「それは……誕生日には必ず有給を取るって決まりなんだ」

「……っ!」


 それだけでピンときた。

 今日、谷崎さんは有給を取っている。ということは……。


「今日は谷崎さんの誕生日?」

「正解。だから、柏原さんも休みを取る予定だったみたいだよ」


 それで今日の朝、林田課長や姫島さんは微妙な表情を浮かべていたのか。

 知らなかった。

 今日が谷崎さんの誕生日だなんて。


「これも谷崎さんは言わないで欲しいって?」

「そうだよ。何、カッコつけてんだって思うでしょ?」


 本当だ。カッコつけちゃって……バカみたい。

 でも、本当のバカは私だ。

 谷崎さんの誕生日を知る機会なんてたくさんあった。谷崎さんは自分から言わなくても、私が聞けば教えてくれたはずだ。マンションに行く前に教えてもらった釣書的な情報の中にだってあったかもしれない。それを私がスルーしただけのこと。教えてもらえなかったんじゃない。知ろうとしなかっただけだ。


「だから、今すぐ行ってあげて。結婚して初めての誕生日なんだから」

「でも……これってサボりじゃ?」

「これは必要なサボりだよ」


 必要なサボりって……すごい理屈だ。

 それにしても、お節介というか……面倒見がいいというか。

 自分は谷崎さんに口止めされてないからって言っていたけど、谷崎さんが黙っていてとお願いしても、この人は私に話したような気がする。

 私の早退だって……大路さんは優しいけど、こういう計らいをするタイプじゃないと思っていた。


「お節介だと思うでしょ?」

「そんなことないです!」


 図星だけど、ここは否定するべきだ。そう思ったら、早口になってしまった。多分、大路さんは気づいているだろうけど、知らんぷりをすることにする。


「いや、お節介でしょう。自分でも余計なことやってるなって思うし……でもね、それは柏原さんが俺に告白してきたからだよ」

「告白?」


 何のことだ? って思ったのは一瞬だった。

 そうだ、思い出した。さっき私は大路さんに告白めいたことをしたんだ。

 聞き流して欲しいけど、ちょっとだけ好きでしたって。

 言った時は平気だったけど、今になって急に恥ずかしくなってきた。

 そうだ、スパッと振ってもらうつもりだったんだ。それなのに……何で谷崎さんの話になってしまったんだろう。

 疑問に思っていたら、大路さんから質問された。


「柏原さんは、どうして俺に気持ちを伝えてくれたの?」

「それは……」


 自分の中で出した答えに進むためにケリをつけておきたかったから──だ。でもそれをストレートに言うのはちょっと……。


「前に進むためでしょ?」


 オブラートに包んだ言い方を考えているうちに、先に言われてしまった。どうやら、この人には全てお見通しらしい。


「……すみません」

「それでいいんだよ。俺はそれが嬉しかったんだから」


 そう言って大路さんはどこか懐かしそうな表情を浮かべた。


「柏原さんが実家に帰っているって南から聞いて、何かあったんだろうとは思ったけど、二人の問題だから余計なことを言うつもりはなかった。でも、柏原さんは二年前と同じように気持ちを伝えてくれた。これはフラグだと思った。」

「フラグ?」

「うん。柏原さんが谷崎さんのところに行くフラグ。だから、俺もあの時と同じように柏原さんの背中を押したかった」

「あの時と同じ?」


 大路さんの言うあの時って二年前の告白なんだろうけど、あの時の私も今みたいに迷っていたのだろうか。

 

「今の柏原さんは知らないだろうけど、二年前も色々あったんだよ。特に俺の披露宴の後とかね」

「うっ……」


 そう言われてギクリとした。

 そうなのだ。記憶にはないけど、私は大路さんと姫島さんの披露宴の後に色々やらかしてしまっていた。日記には書かれていなかったけれど、そこから谷崎さんのことを意識しまくったに違いない。

 この人……どこまで知ってるんだ?

 下手なことを言うと、大路さんが知らないことまで喋ってしまいそうだ。黙り込んでいる私に大路さんはニヤリと笑っている。


「思い当たるフシがあるみたいだね」

「そんなことないですっ!」


 即座に否定、しかも早口……ありますって言っているのと同じだ。私ってこの手のごまかしが本当に下手。

 

「ふーん? まあ、その時の話をすると長くなっちゃうからね。とりあえず、俺もあの時と同じように返事するけど……大丈夫?」


 意味ありげに微笑む大路さん。大丈夫って聞くぐらい辛辣な返事でもされるのだろうか……でも、振られるのを前提で想いを伝えたんだから後悔はない。私はこくりと頷いた。


「ごめんね。でも、ありがとう」


 わかっていたけど……切ない。浅い恋心でも恋は恋だし、叶わないと知っていても失恋は失恋だ。

 でも、それ以上に清々しい気分がする。消化不良だった自分の気持ちにピリオドを打ててよかった。


「相変わらず……いい顔するね」


 ごめんねって言われたのに、口角を上げている私に大路さんが呟いた。どうやら、自分で思っている以上にスッキリした顔をしているらしい。相変わらずってことは、二年前の私もそうだったのだろう。呆れてしまうけど、でも私らしいやって思う。


「すみません」

「もう大丈夫だね」

「え?」

「大丈夫だよ。俺に気持ちを伝えてくれたんだから。ぶつけておいで……谷崎さんに柏原さんの気持ちを」

「ぶつけるって」

「いいんだよ。ぶつけるくらいが……あの、カッコつけには」

 

 口を尖らせて言う大路さんがおかしい。


「谷崎さんのこと頼んだよ。あの人って何かあると、仕事に逃避する癖があるから。今日だって次から次へと仕事のメールが飛んでくるんだよ。だからあの人を止めてきて。俺らの仕事を減らすためにも」


 随分な言い方だけど……谷崎さんのことを心配しているのが伝わってくる。


「……責任重大ですね」

「そうだよ。柏原さんの背中は押したからね」

 

 ここからは私次第ってことだ。


 

「すみません……遅くなりました。仕事は大丈夫ですから、谷崎課長のところへ行ってあげて下さい」


 大路さんが内線をかけてから、十分ぐらい過ぎた頃、姫島さんが休憩室に私の荷物を届けに来てくれた。「ありがとう」とカバンを受け取ると、「あと、これ……二人で食べて下さい」と紙袋を渡された。

 紙袋の中からは甘くておいしそうな匂いがした。中を覗いてみると、ラッピングされたマドレーヌとクッキーが入っている。

 これは谷崎さんへの誕生日プレゼントかしら……って。


「プレゼントっ!」


 さっき知ったのだから、当たり前だけど何も用意していない。何か買って行った方がいいけど……何を? 谷崎さんが欲しい物がわからない。


「プレゼントは柏原さん自身でいいから」

「柏原さんが側にいることが谷崎さんへのプレゼントです」


 迷っていたら双方から声が飛んできた。

 言い方は違うけれど、言っていることは同じ。おかしいやら微笑ましいやら……でも、二人なりに私達のことを心配してくれている。その気持ちは素直に受け取りたい。


「ありがとうございます」

「いいんです。その代わり、今度私と優花と一緒にカラオケに行って下さい」

「カラオケ?」

「優花は柏原さんの歌が大好きなんです。それに……生で披露宴のメドレーをもう一度聴きたいです」


 姫島さんにそう言われ……あのDVDの映像が私の脳裏に浮かび上がってきた。冗談でしょと思いたかったけど、その表情から本気で言っているのがわかる。これは断わるのが難しそうだ。

 苦笑しながらも頷き、休憩室の扉を開けエレベーターホールに向かった。


 時間がゆっくり流れている。

 谷崎さんのところへ早く行きたい──そう思えば思うほど、時計の針の動きが遅くなっているような気がする。

 早く早くって思うのに会社から駅までの道のりが遠くて、ホームに辿り着いても電車が来ない。別に会社が遠くなったわけでも、電車が遅れているわけでもない。

 私の気持ちが焦っているからだ。

 記憶喪失になってから、時間の流れに追いつこうと必死だったのに、今は時間が追いつくのを待っている。

 定刻通りに来た電車に乗り込んでからも、それは変わらなかった。急いでいる私の気持ちとは裏腹に電車はのんびりと動いている。ゆっくりと流れていく時の中で、私は病院で目覚めた日から今日までのことを思い巡らせていた。

 不思議に思っていたことがある。

 自分で言うのもどうかと思うけど、交通事故に遭って記憶喪失になるって不幸な出来事だ。

 けれど、私は自分のことを不幸だなんて思わなかった。

 それどころか、幸せだったと思っている。

 確かに初めの頃、どうして私だけ? って思ったりはした。けれど、谷崎さんとの生活と仕事復帰がセットでやって来て、そんな風に思う余裕がなくなった。

 進んでいる時に追いつくのは大変だったけど、必要以上に後を向かずに済んだ。それは谷崎さんが前を向くように仕向けてくれたからだ。

 記憶喪失になった私が幸せだったのは、谷崎さんのように冷静に物事を考えてくれる人がそばにいてくれたからだと思っていた。

 でも、それだけじゃないとわかった。

 私が幸せなのは当然だ。

 あんなに大きくて、とても温かい愛情に守られていたのだから。

 だけど、その愛情をくれた谷崎さんは……。


 久しぶりにマンションの最寄り駅の改札を抜けた。目の前には大きな商店街。

 変わっていない。

 活気があるけど家庭的で、たくさんの「ただいま」と「おかえり」が行き交っている。いつもその勢いに気後れしていたけど、気がつけば上手に人混みをかき分けて商店街を駆け抜けていた。

 

 ──おかえり。


 商店街の出口に差し掛かった時、呼び止められた気がした。思わず立ち止まって後ろを振り向く。そこにあるのはいつもの商店街の風景。

 初めてだ。いつもは「こんにちは」なのに。

 初めて言われた「おかえり」は少しくすぐったくて、照れくさくって、だけど……嬉しくて、何だか見守られているような気分になった。


「……緊張する」


 私は今、ドアの前で鍵を握りしめて突っ立っている。

 さっきまであんなに早く会いたいと思っていたくせに、いざドアの前まで来たらドキドキして体が固まってきた。

 ドアが勝手に開くわけがないとわかっているけど、鍵を握り締めた私の手は震えていて動かない。

 ──このまま回れ右して実家に帰る?

 目を閉じて、自分の中に問いかけてみる

 ──嫌だ! 

 だったらドアを開けさせて。

 自分に言い聞かせ何度か深呼吸をして、体の強張りを解いた。

 大丈夫、きっと何とかできる。自分に念じて鍵を開けてゆっくりとドアを開けた。


「……っ」


 思わず息をのんだ。


「……つぐみ?」


 ドアを開けた先に谷崎さんがいた。

 どうしてここに?

「ドアを開けたら谷崎さん」なんて想定外だ。でも、私以上に谷崎さんは驚いているみたい。

 二人とも何も言わなかったけれど、視線は自然とお互いの目を捉えようとしている。私の視線と谷崎さんの視線が交わった瞬間、私の口から言葉が零れた。


「ただいま」

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