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迷子のネムリヒメ  作者: 燕尾
本編
33/64

第33話

 私に笑顔を向けている顔立ちの整った男性。

 ……変わってない。


「ご無沙汰してます。……大路さん」


 大路さん。

 姫島さんの旦那さんで、私がふて寝したあの日に失恋した相手だ。

 そう言えば、長期出張が終わって今日から本社勤務だと聞いていた気がする。

 だから大路さんがここにいても不思議ではない。でも、さっきまで寝転んでいて髪に変な癖をつけている私を見られるのは嫌だ……ってそういうことを気にする時期はとっくに過ぎているんだった。

 相変わらず、見目麗しいというか……それどころか、ますます王子様度合いに磨きがかかっている気がする。

 体型を気にしていると姫島さんから聞いたけど、スラッとしているし。三十過ぎでこんなにキラキラしている男性なんていない。姫島さんが心配するわけだ。もっとも、あんなに可愛くて料理の出来る奥さんには誰も敵わないと思うけど。

 心の中でチェックしている私を気にすることなく、大路さんは自販機の方へ歩いていく。


「ここ、いい?」


 缶コーヒーを手にした大路さんが私が座っている向かいの場所を指差す。断る理由もないので、どうぞと答えると大路さんは私の前に腰掛けた。

 もしかしてこんな距離で向き合うのって初めて? そう思うと少し緊張する。仕事絡みで話すことはあっても、こうして休憩室で二人だけなんてなかった。眺めていただけだった浅い片想いの相手とこんな風に会話するなんて……ふて寝したあの日は思いもしなかった。


「谷崎さんから聞いたけど……大変だったね。三年後の生活にはもう慣れた?」


 三年後の生活? 変わった聞き方をするなと思った。

 でも、そういう聞き方をするってことは、三十歳の谷崎つぐみさんじゃなくて、中身が二十七歳の私を見てくれているってことだ。偶然かもしれないけど、その気遣いは嬉しい。


「そうですね……なんとかって感じです」

「そう? あかりは何の問題もなく適応してて凄いって驚いてたよ」

「そんな……姫島さんには助けてもらうばかりで……負担になっていなければいいのですが」


 本当にそうだ。この三ヶ月間、私が働いてこれたのは姫島さんがいてくれたからだ。南ちゃんがいなくて心細かったけど、三年間の間に変わったこととか、簡単な料理の仕方とか色々なことを教えてもらった。


「大丈夫だよ。あかりは無理してないよ。自分のキャパ以上のことをするなって柏原さんに教えてもらったからね」


 ……例のアレか。姫島さんに説教事件。

 記憶はないし、自分なりに考えてやったことだけど……褒められることじゃない。


「あの時は申し訳ございませんでした」

「あの時?」


 そう言うと、大路さんは不思議そうな顔をして考え込んだ。


「もしかして……山路さんの案件絡みのこと言ってる?」

「はい」

「だったら、気にしないで。あれは、柏原さんが正しかったんだから」

「でも……」

「むしろ感謝してるくらいだよ。あれがなかったら今のあかりはいないし、俺も柏原さんと仲良くなることはなかったし」

「え?」


 あれが感謝?

 あれがあったから大路さんと仲良し?

 何で? さっぱりわからない。


「谷崎さんや南から聞いたんだろうけど、柏原さんはあの後、酷いこと言ってすみませんでしたって謝ってきたんだよ。柏原さんは悪くないよって言っても、気にしちゃってさ……だったら、あかりに仕事の仕方を教えて欲しいって俺が持ちかけたんだ」

「そうなんですか?」

「そう、でも柏原さんも仕事があるから、とりあえず昼休みにご飯を食べながら教えてもらうようになったんだ。ゆっくり丁寧に、あかりが理解できないところは、どうすればわかりやすいか考えて、教えてくれていたよ。おかげで会社に必要な人材に成長したと思う」


 いい人じゃん私──と思ったのもつかの間、大路さんが言った「ご飯を食べながら」が引っかかる。


「もしかして……私のお昼ご飯を見て、姫島さんはお弁当を作ってくれるようになったとか?」

「うん。柏原さんは、いつもカップラーメンだけだからって」


 頭を抱えてしまう。大路さんにまで、私のズボラな食生活を知られていただなんて。女子力の無い女だと思われただろうな……。だからって「あの頃は試験勉強が大変で料理する暇がなかったんです」なんて言い訳する気もないけど。


「それは、すみませんでした」

「いや、あかりは喜んでたよ。これで柏原さんに恩返しできるって」

「最初はそうだったかもしれないですけど、途中から完全に逆転してますよね」

「気にしなくていいって。あかりは柏原さんのことが大好きだから」

「……」


 顔が熱くなってくる。

 姫島さんがってわかっているけど、その顔と声で言うのは反則だ。終わった恋の相手だから気持ちが込み上げてきたりはしないけど、一瞬ドキッとしてしまった。


「やだ……照れるじゃないですか。でも、変な感じです。姫島さんが私を怖がるとかならわかるんですけど……」

「ぼんやりしてるように見えて、あかりって人の本質を結構見抜くから。あの時だってわかってたよ。自分を守るために悪者になってくれたって」


 南ちゃんも言ってたな。

 伝わっているって。姫島さんと直接話したわけじゃないけど、旦那さんの大路さんがそう言っているなら、そういうことでいいのか。だけど、自分の前で奥さんが説教されたこの人は?


「それならよかったです。でも……大路さん的にはどうでした? ムカつきましたよね」

「俺? あの時の俺には、何かを言う資格なんてないよ」


 そうだ。駆けつけようとしたけど、谷崎さんに自分の仕事に集中しろって言われて、助けられなかったんだっけ。


「あ、別に谷崎さんのせいとかじゃないから。あの時、俺に行くなって言ったのは……あかりのことを考えてくれていたからだと思うし」

「そうでしょうか?」

「俺もあの時はムカついたけどね。でもさ、冷静になって考えたら、あそこで俺が助けに行ったら、あの課でのあかりの立場、最悪だったと思うんだ。俺が言うのもあれだけど」


 言われてみれば……だ。女性社員達の存在を忘れていた。二人の結婚をよく思っていないから、姫島さんに余計な仕事を押し付けたり、データを消したりしたのだ。そのフォローを大路さんがしたら……火に油を注ぐようなものだ。想像するだけで恐ろしい。


「そうですね。でも、数分の間にそこまで想像できないですよね?」

「そこが谷崎さんの凄いところだよ。短い時間の中で色々なこと計算してたからね、あの人。柏原さんの牽制には失敗したけどね」


 牽制? まさか……。


「手伝ったら仕事増やすって……牽制だったんですか?」

「うん、谷崎さんは柏原さんを巻き込みたくなかったんだよ。もし、間に合わなくて商談がポシャった場合、柏原さんにも責任が及びかねなかったからね。敢えて意地悪なことを言ったんだよ」

「そんな……」


 大路さんから告げられた事実に困惑する。

 谷崎さんがそんな風に考えていたなんて、思ってもいなかった。多分、過去の私だって知らないはずだ。


「だから柏原さんが引き受けた時、谷崎さんは驚いたと思うよ。俺も柏原さんの申し出はありがたかったけど、意外だった。そんなに山路さんのことを慕っていたのかって」


 何か違う気がする。

 確かに山路さんのことは慕っていた。でも、今考えてみると……山路さんのためだけに業務量を増やすって言う谷崎さんの条件を引き受けたりする? って思う。特別な感情を持っていたならわかるけど、その時はまだ大路さんへの気持ちが残っていたはずだ。

 ……引っかかっていた何が解けそうだ。


「……それだけじゃないと思います」

「え?」


 今の私の頭の中には、あの時の情景や感情がない。でも何となく思う。山路さんを慕っていたという理由だけで私は動かないって。理由は私の中にもある。

 もし、あの時スルーしていたら? 

 自分なりにじっくり想像してみた。すると、ある言葉が頭の中にぽわんと浮かんできた。……これだ。


「あとで後悔したくなかったんです」

「後悔?」

「もし引き受けなかったら……山路さんの案件は他社に取られたと思います。それは仕方ない。でも……何かのきっかけでそれを思い出した時、あの時に手伝っていれば、山路さんのノート達は無駄にならなかったって悔やんだと思うんです。それが嫌だったんです。山路さんのことを慕っていたのは事実ですが、山路さんのためじゃない。自分のためなんです」


 ──後悔するか、しないか。 

 難しい決断を迫られた時、私が判断する基準はこれだったんだ。 

 やっとわかった。

 谷崎つぐみさんが妊婦さんを庇って車に跳ねられた理由。

 自分のためだったんだ。

 身近な人が妊娠したとかだけじゃなくて……。

 自分は無傷でも、妊婦さんが大丈夫じゃなかったら……。

 仕方ないよって周りの人は言ってくれるだろう。

 でも、あの時に自分が助けていればって絶対に思う。自分ではどうすることもできない事故だったら、割り切れるだろうけど、自分次第で何とかできることだったら……ずっと心の中に残る。

 そして赤ちゃんを見る度、妊婦さんを見る度に思う。

 あの時、なんで助けなかったんだろう──と。

 それが嫌だったんだ。

 でも……。

 それで残された側がとんな気持ちになるか想像できなかった?

 いや、ちゃんとわかっていた。

 それが自分の我が侭だって。

 それが一番大切な人を悲しませてしまうことも……。

 それでも、自分の気持ちは変えられなかった。

 最期かもしれないって時、走馬灯が見えるって言うけど、谷崎つぐみさんの脳裏に浮かんだのは、谷崎さんのことだったに違いない。

 意識を失うまでの短い時間の中で、頭の中に映る谷崎さんに心の中で叫んだはずだ。記憶がないからわからないけど、一瞬の間に言える言葉は限られている。

 ごめんなさい。

 ありがとう。

 そして……あいしている。 


 記憶喪失って、その時に思ったことが強く影響することがあるらしい──さっき近江さんに教えてもらったことが頭に浮かんだ。

 さっきはピンとこなかったけど、今ならわかる。あの時の私が一番に思っていたのは谷崎さんのことだと。

 記憶喪失になってから、不思議に思っていた。

 どうして、私の記憶の欠落があの日の昼休みからだったんだろうって。

 その答えがやっとわかった。

 私と谷崎さんの始まりが、あの昼休みの後だったからだ。

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