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迷子のネムリヒメ  作者: 燕尾
本編
30/64

第30話

 このドアの向こうに広岡がいる。当たり前のことなのに、意識したら急に緊張してきた。

 ──大丈夫。大丈夫。大丈夫。

 頭の中で三回唱えて、ゆっくりとドアを開き病室の中に足を踏み入れた。

 私の視線は自然とベッドの方に向かった。

 広岡がいた。

 その腕の中には、小さな赤ちゃん──史香ちゃんがいる。穏やかな笑みを浮かべてこっちを見ている。

 久しぶりに見るその姿は、私が知っている彼女よりどこか柔らかい感じがする。


「久しぶり……柏原」


 やばい……泣きそう。

 優しい声に迎えられて、色々な思いがこみ上げてくる。

 喜び、悲しみ、怒り、後悔、祝福──バラバラな感情が胸に押し寄せて来て、溢れてしまいそうだ。

 でも……泣かない。

 思いに浸るためにここに来たんじゃない。ケリをつけるためだ。

 流されないようにぐっと堪えて広岡の目を見る。最初に言うべきことは決めている。

 

「ごめんっ!」

「ごめんね!」


 二人の声が重なった。

 中途半端なハモリに、お互い黙ってしまう。

 どうやら、広岡も私に言いたいことがあるらしい。だけどここは譲らない。口を開こうとする広岡を遮るように話を続ける。


「三年前のこと、ごめんなさい。記憶は無いけど日記には書いてて……広岡に嫉妬して酷いこと沢山言って、広岡を傷つけた」

「私の方こそごめん。柏原の気持ちに気づいてあげられなくて。最初に柏原に幸せな人間は無神経だって言われた時、意味がわからなかった。でもね、流産や不妊治療を経験して……。それを知らない友達や同僚の赤ちゃん絡みの話題に傷ついて、そこで初めてわかったんだ。私もこんな風に柏原を傷つけてたんだって……」


 広岡は声を震わせながらそう話し、腕の中にいる史香ちゃんを見つめた。

 笑っているけど、どこか悲しげな表情に何とも言えなくなる。

 ここに辿り着くまで色々あったんだ。

 コラムを読んでわかっているつもりだった。けれど、本人の声や表情を通して、広岡の感情がくっきりと見えた気がする。


「違うよ。広岡のコラム読んだけど、私のとは違う。私の場合は単なる妬みだもの。そんな繊細な話じゃない。私ね、広岡が椎名さんと恋人同士になった時、よかったねとか言いつつ、内心悔しかったんだ。でもね、そう思う自分を認めたくなくて……認めたら負けてしまう気がして。本当にごめん」

「ううん。変わらないよ。私ね、妊娠している同僚や育休明けの後輩に結構厳しいことを言ってたんだ。仕事を思いっきり盾にしてね。素直に羨ましいって言えなかった。柏原の比じゃないくらい毒ばっか吐いてた。コラムに書いてたのなんて可愛いものだよ」

「あのコラムが可愛いって……。さらりと凄いこと言うね。でも、わかる気がする。変に強がるっていうか、自分の本心から逃げたり、誤魔化して見えないようにしたりするよね」


 そうだ。

 あの時、私は自分の本心から逃げてたんだ。自分の気持ちを素直に認めて、それをほんの少しでも伝えられていたら……。いや、今からでもまだ間に合う。

 目を閉じて、あの頃のことを思い浮かべる。椎名さんと出会ったこと、広岡と仲良くなったこと、二人をただ眺めていることしかできなかったこと。その情景が私の気持ちを浮かび上がらせていく。

 そして……今。

 傷ついたり、傷つけたり……たくさんの痛い思いを味わってきた。でも、そのおかげで知ったこともある。

 あの頃の私と今の私。それぞれの気持ちを重ね合わせてみる。

 ……見えた。私の本心。

 ゆっくりと目を開け、すうっと深呼吸をした。広岡の目をじっと見つめる。


「広岡」

「ん?」


 広岡も私を見つめている。受け止めるよ──そう言われている気がする。その表情に甘えて、自分の思いを言葉にする。


「ムカつくし、悔しいし……すっごく羨ましい」


 椎名さんを呼び捨てにする声。

 広岡にだけ向けられる椎名さんの甘い表情。

 でも、それは広岡が何度も椎名さんに思いをぶつけて得たものだ。頑張っていたことも知っている。


「でも……良かったね」


 そして……腕の中にいる新しい命。

 母親になるまでの間に、広岡はたくさんの葛藤や感情に苦しみ傷ついてきただろう。

 だから今、心から言える。五文字だけど、一文字に一文字に力を込める。

 

「おめでとう」

「何よ……それ……」


 広岡は笑いながらも泣いている。

 口から出た言葉はシンプルだったけど、ちゃんと伝わったみたいだ。泣かせる気はなかったけど、この涙は悪い涙じゃないと思うから良しとしよう。

 あっ、そうだ。手紙を渡さないと……。谷崎つぐみさんの思いも伝えないと。ポストに投函できず、カバンの中で眠っていた手紙を広岡に差し出す。


「これ……自分の気持ちを言っておいてあれなんだけど、私が書いた手紙。だた……これを書いた時の記憶がなくて、変なこと書いてたらごめん。でも、その時の私の気持ちだから読んで欲しい」

「わかった」


 広岡は抱いていた史香ちゃんを赤ちゃん用の小さなベッドに寝かせ、手紙を読み始めた。何が書いてあるかわからないので、広岡の表情を注意深く観察する。広岡は真剣な眼差しで文字を追っていたけど、最後の一文らしきところで笑った。その反応を怪訝に思いつつも、暴言の類は書いていないみたいでほっとした。


「ありがとう……手紙とお守り。柏原」

「それを書いたのは谷崎つぐみさんだけどね」

「そう言えば、柏原の結婚の話聞いてない。旦那さんはどんな人? きっかけは?」

「話したくても覚えてないんだもん」

「日記にも書いてないの?」

「……」

「その反応は書いてあったな」


 さっきまでのしんみりムードはどうした? と言いたくなる程、イキイキと聞いてくる。


「失敗話はあるけどさ……」

「えー聞きたい。聞かせてよ」


 忘れてた。広岡って元々、こういうタイプだ。それに今は少女マンガの編集だし……。

 でも、話してみるのもいいかも。誰かに笑い飛ばしてもらった方が楽かもしれない。「わかった、話すから」と日記に書いてあった谷崎さんとのアレコレを話した。


「王道のシチュエーションだけど……。実際にあるんだ。でも、相手の下着って……斬新かも」


 大笑いされるかと思いきや、どこかクールなリアクションに編集者の顔が垣間見えた。


「ねえ……これいつかネタにしてもいい?」

「絶対ダメ!」

「えーいいじゃん。でもさ、いい恋愛なんじゃない? 柏原、三十路のくせに妙に若返ってるし、キレイになったよね。もちろん柏原の努力だと思うけど、その原因の一つは旦那さんだよ」

「そうかもしれなけどさ……」

「何か問題でも?」

「恋愛とか結婚って、全部知らない私がやったことだもん」

「そんなに三年間の間の自分って気になる?」

「気になるよ。広岡を傷つけたダメな私もいるけど、今の私とはしてきた経験や頑張った度合いが違う。私は谷崎つぐみさんには勝てない」

「そんなことないよ。経験で言うなら今の柏原の方が勝ってる」

「は?」


 私が勝ってる? おかしなことを言う。


「私から見れば、三年間の記憶がなくて、今を生きている方が立派な経験だと思う。目が覚めたらいきなり三年後で、殆ど面識のない相手と結婚してますとか言われたらさ……誰でも逃げたくなるよ。でも、柏原は逃げずに今の生活に適応しようとしている。それどころか、記憶がない時の自分とも向き合っている。こうして私にも会いに来てくれた。これって凄いエネルギーがいることだよ。今の柏原が頑張ってないなんて言わせないから!」

「ふっ。ははっ、はっはっはっ」


 拳を握って力説する広岡を見て、思わず吹き出してしまった。

 相変わらずポジティブというか……。


「何がおかしいのよ? こっちはマジなのに」

「いや……ごめん。広岡には敵わないなーって思って。記憶喪失をそんな風に考えたことなかったよ」

「盛り上がってるとこ悪いけど、私の目の前にいる柏原つぐみと手紙の中の谷崎つぐみさんは、殆ど変わらないからね!」

「え?」

「読んでみ」


 広岡から手紙を受け取り読んでみる。最初に書いてあったのは、謝罪。その後にコラムを読んだこと、結婚したことをさらっと書いて、その後に今の気持ちを書いていた。

“ムカつくし、悔しいし……すっごく羨ましい。でも……良かったね。おめでとう”

 さっき、私が広岡に言った言葉と同じ。おめでとうに至っては、一文字ずつ強い筆跡で書いている。声と文字、伝える手段は違っていても考えていたことは同じらしい。


「ほんとだ」


 二人して笑ってしまった。

 長居をするつもりはなかったけど、思っていた以上に時間が経っていたみたいだ。椎名さんが様子を見に来た頃には、空の色が変わりかけていた。名残惜しそうにする広岡に、落ち着いたら遊びに行くからと約束し病室を後にした。

 椎名さんと広岡との思いがけない再会は、勇気がいったけど私の心を軽くしてくれた。背負っていた荷物が減って楽になった。

 もちろん、まだまだ向き合わなければいけないことはある。だけど大丈夫さって思える。そんな不思議なパワーを得て、私は病院から駅へ向かった。

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